宮崎駿(読み)ミヤザキハヤオ

デジタル大辞泉 「宮崎駿」の意味・読み・例文・類語

みやざき‐はやお【宮崎駿】

[1941~ ]アニメーション作家・映画監督。東京の生まれ。日本のアニメーション界の第一人者として、国内のみならず海外にも絶大な影響を与える。昭和60年(1985)アニメ映画製作会社「スタジオジブリ」を創設。原作・脚本・監督を手がけた長編アニメ映画に「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋ちひろ神隠し」などがある。平成24年(2012)文化功労者。平成26年(2014)米国アカデミー賞の名誉賞を受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮崎駿」の意味・わかりやすい解説

宮崎駿
みやざきはやお
(1941― )

アニメーション監督、演出家。東京都文京区に生まれる。学習院大学卒業後、1963年(昭和38)に東映動画(現、東映アニメーション)に入社し、劇場用映画『わんわん忠臣蔵』やテレビシリーズ『狼(おおかみ)少年ケン』(1963~1965)の動画を担当。1964年労働組合の書記長となる。労組の副委員長であった高畑勲(たかはたいさお)(1935―2018)が演出した『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)では、場面設計、原画を担当。1971年に東映動画を退社してAプロダクション(現、シンエイ動画)に入り、高畑勲とともに『ルパン三世』(テレビシリーズ、1971~1972)の演出を途中から担当。1972、1973年には劇場用短編映画『パンダコパンダ』シリーズの脚本、原画を担当した。その後ズイヨー映像へ移籍し、テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(1974)、スタッフの多くがそのまま移った日本アニメーションで『母をたずねて三千里』(1976)、『未来少年コナン』(1978)を制作した。

 劇場用映画では初の監督作品となった『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)で毎日映画コンクールの大藤信郎(おおふじのぶろう)賞を受賞。1982年から、雑誌『月刊アニメージュ』(徳間書店)に連載開始したマンガ『風の谷のナウシカ』は、1984年に自らが監督して劇場公開された。

 1985年にアニメーション制作スタジオ「スタジオジブリ」を設立して以降、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)など劇場用作品中心に活動している。『もののけ姫』(1997)で、日本映画の配収記録を塗りかえ、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)は、ベルリン国際映画祭金熊賞、アカデミー長編アニメーション映画賞を受賞している。『ハウルの動く城』(2004)ではベネチア国際映画祭オゼッラ賞受賞、翌2005年にはこれまでの功績が評価され、ベネチア国際映画祭栄誉金獅子賞を受賞した。2013年に長編アニメからの引退を表明したがのちに撤回。2014年にアカデミー名誉賞を受賞した。なお、スタジオジブリの「ジブリ」はイタリア語サハラ砂漠に吹く熱風をさすghibliからきている。

[編集部 2018年4月18日]

資料 監督作品一覧

ルパン三世 カリオストロの城(1979)
名探偵ホームズ 青い紅玉の巻/海底の財宝の巻(1984)
風の谷のナウシカ(1984)
未来少年コナン 特別篇 巨大機ギガントの復活(1984)
続名探偵ホームズ ミセス・ハドソン人質事件/ドーバー海峡の大空中戦(1986)
天空の城ラピュタ(1986)
となりのトトロ(1988)
魔女の宅急便(1989)
紅の豚(1992)
On Your Mark CHAGE&ASKA(1995)
もののけ姫(1997)
千と千尋の神隠し(2001)
ハウルの動く城(2004)
崖の上のポニョ(2008)
風立ちぬ(2013)

『『宮崎駿・高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』(1995・キネマ旬報社)』『宮崎駿著『出発点1979~1996』(1996・徳間書店)』

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知恵蔵 「宮崎駿」の解説

宮崎駿

日本のアニメーション映画監督、アニメーター、マンガ家。日本のアニメ制作会社「スタジオジブリ」取締役、三鷹の森ジブリ美術館館主。1941年1月5日生まれ、東京都出身。日本を代表するアニメ映画監督の1人で、日本の田舎や中世ヨーロッパ、文明が滅びた後の架空の世界など、様々な世界で生きる登場人物を生き生きと描いた作品は、子どもから大人まで幅広い世代から支持されている。長男はアニメ映画監督の宮崎吾郎。
もともとはマンガ家を志していたが、高校3年生の時に日本初のカラー長編アニメ映画「白蛇伝」(58年、東映動画)を見て、アニメに興味を持ち始めた。
学習院大学卒業後の63年、東映動画(現・東映アニメーション)に入社した。すぐに頭角を現し、当時同僚だった高畑勲らと劇場アニメ「太陽の王子ホルスの大冒険」(68年)を制作した。71年に東映動画を退社し、幾つかのプロダクションを転々としながら、劇場アニメ「パンダコパンダ」(72~73年)などの制作に参加した。74年、メーンスタッフとして参加したテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が人気となり、78年放送のテレビアニメ「未来少年コナン」では、初めて監督を務めた。そして、79年公開の劇場アニメ「ルパン三世 カリオストロの城」で映画監督デビューを果たした。
82年にフリーランスとなり、徳間書店の月刊アニメ雑誌「アニメージュ」でマンガ『風の谷のナウシカ』(94年に完結)の連載を始める。84年に個人事務所「二馬力」を設立し、同年公開の劇場アニメ「風の谷のナウシカ」の監督を務めた。
85年、徳間書店の子会社であるスタジオジブリの設立に参加し、86年に「天空の城ラピュタ」、88年に「となりのトトロ」を公開した。これらの内容が高く評価されたことが、89年に公開されてその年の邦画第1位となった「魔女の宅急便」のヒットにつながった。92年には「紅の豚」を公開、54億円の興行収入を挙げた。
97年、これまでの作品をはるかに上回る約20億円の制作費をかけた、宮崎念願の時代劇「もののけ姫」を公開した。同作は、興行収入193億円、観客動員数1420万人という異例の大ヒットとなり、それまでの邦画と洋画の記録を塗り替えた。同作は99年以降、欧米や南米で公開され、ジブリと宮崎の名を海外に広めるきっかけとなった。
更に2001年、異世界に迷い込んだ10歳の少女が、豚にされた両親を助けるために銭湯で働きながら奮闘する姿を描いた「千と千尋の神隠し」を公開した。同作は公開直後から人気となり、当初の予想をはるかに上回る興行収入308億円、観客動員数2350万人と、日本映画史上、最高記録を打ち立てた(17年3月現在も継続)。海外でも高く評価され、02年の第52回ベルリン国際映画祭で日本人として39年ぶり、アニメとしては史上初の金熊賞を受賞、03年の第75回アカデミー賞では、長編アニメ賞を受賞した。
04年に「ハウルの動く城」、08年に「崖の上のポニョ」を公開した。いずれも大ヒットし、前者は興行収入196億円を、後者は155億円を記録した。なお、「千と千尋の神隠し」からの3作品は16年末現在、日本の歴代興行収入トップ10に入っている。
12年に文化功労者に選ばれた。13年に旧日本海軍の「零戦」の設計者である堀越二郎をモデルに創作した「風立ちぬ」を公開、興行収入120億円を記録した。また、これまで何度も引退する意向を示してきたが、同作公開後の13年9月にも、体力の衰えを理由に長編アニメ制作からの引退を表明した(完全引退は否定)。14年、第87回アカデミー賞で名誉賞を受賞した。
その後は自身初のCG作品で、三鷹の森ジブリ美術館で公開する短編アニメ「毛虫のボロ」などを制作していたが、17年2月に、宮崎と旧知の間柄でジブリのプロデューサーの鈴木敏夫が、宮崎が新作長編アニメの準備を始めたと明かした。
かつては膨大な仕事量をこなすことで知られ、「紅の豚」の制作は1992年に東京都小金井市に移転した新スタジオの設計などと並行して取り組み、「千と千尋の神隠し」を制作する傍ら、2001年開館の三鷹の森ジブリ美術館の設計を進めたなどの逸話がある。

(南 文枝 ライター/2017年)

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百科事典マイペディア 「宮崎駿」の意味・わかりやすい解説

宮崎駿【みやざきはやお】

アニメーション作家。東京生れ。学習院大卒。1963年東映動画部入社。《狼少年ケン》の動画などを担当する。いくつかの会社を経て1982年よりフリー。この間の代表作にテレビ作品《アルプスの少女ハイジ》《未来少年コナン》,劇場用作品《ルパン三世 カリオストロの城》などがある。1984年自ら連載した漫画をもとに劇場用作品《風の谷のナウシカ》を発表。エコロジー思想を背景とした物語と独特の浮遊感をもった美しい映像が高い評価を得,ヒットとなる。1986年スタジオ・ジブリ設立。《天空の城ラピュタ》《となりのトトロ》《紅の豚》《もののけ姫》など一作ごとに劇場アニメの話題作を発表。2003年,《千と千尋の神隠し》で第75回アカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞。2004年《ハウルの動く城》も記録的な大ヒットとなり,ベネチア国際映画祭オゼッラ賞,ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーションを受賞,再びアカデミー賞にノミネートされた。続く2008年《崖の上のポニョ》も大ヒットとなった。2013年,零戦の開発者堀越二郎をモデルとし,堀辰雄の小説にも着想を得て,長編《風立ちぬ》を発表,この作品を最後に長編アニメ製作からの引退を表明した。一貫して反戦,平和憲法擁護,ヒューマニズム擁護,ナショナリズム批判の姿勢を貫いてきたことも宮崎作品が欧米のみならずアジアでも高い評価を得てきた要因の一つといえる。宮崎映画の世界を展開した〈三鷹の森ジブリ美術館〉(東京都三鷹市)が2001年にオープンした。文化功労者(2012年)。
→関連項目アニメーションベルリン国際映画祭

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮崎駿」の意味・わかりやすい解説

宮崎駿
みやざきはやお

[生]1941.1.5. 東京,文京
アニメーション作家,映画監督,プロデューサー。1963年学習院大学政治経済学部を卒業。同 1963年東映動画に入社,1971年に退社し,Aプロ,ズイヨー映像を経て 1979年東京ムービー新社に移る。その間,テレビ用アニメーションの演出などを手がけ,1978年から日本放送協会 NHK初の国産アニメーション『未来少年コナン』(全 26話)の演出を担当した。東京ムービー新社で劇場用アニメーションの監督第一作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)を制作。1982年フリーランサーとなり,徳間書店のアニメーション雑誌にまんが『風の谷のナウシカ』を連載開始,1984年に同作品が劇場用アニメーションとして制作・公開されて大ヒットし,名声を確立した。1985年に東映動画時代からの同志高畑勲とともにスタジオジブリを設立。以後,『天空の城ラピュタ』(1986),『となりのトトロ』(1988。1989芸術選奨文部大臣賞),『魔女の宅急便』(1989),『紅の豚』(1992),『もののけ姫』(1997),『千と千尋の神隠し』(2001),『崖の上のポニョ』(2008)など次々とヒット作を制作した。『千と千尋の神隠し』は 2002年にベルリン国際映画祭最高賞の金熊賞,2003年にアカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した。2005年日本人として初めてベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。2001年に東京都三鷹市に三鷹の森ジブリ美術館を開館し,初代館主に就任。2001年フランス国家功労勲章を受章,2012年文化功労者に選ばれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮崎駿」の解説

宮崎駿 みやざき-はやお

1941- 昭和後期-平成時代のアニメーション作家。
昭和16年1月5日生まれ。東映動画などで「狼少年ケン」「パンダコパンダ」などの製作にかかわる。昭和49年「アルプスの少女ハイジ」で注目される。59年雑誌「アニメージュ」に連載した「風の谷のナウシカ」を映画化,以後「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」などを発表。「千と千尋の神隠し」が平成14年ベルリン国際映画祭金熊賞,15年アメリカ・アカデミー賞などにえらばれた。17年ベネチア国際映画祭栄誉金獅子賞。24年文化功労者。26年アカデミー賞名誉賞。東京出身。学習院大卒。

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367日誕生日大事典 「宮崎駿」の解説

宮崎 駿 (みやざき はやお)

生年月日:1941年1月5日
昭和時代;平成時代のアニメーション映画監督

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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