小澤征爾(読み)おざわせいじ

知恵蔵 「小澤征爾」の解説

小澤征爾

日本の音楽家・指揮者。世界のオザワとして知られ、日本人として世界的に最も大きな成功を収めて現在も活躍を続ける。
1935年、満州の奉天(現・中国の瀋陽)に生まれる。41年、家族で日本へ帰国。母がクリスチャンであったため、幼少期より賛美歌とピアノに親しむ。48年、成城学園中学に入学し、ピアノを豊増昇師事。桐朋学園高校音楽科、桐朋学園短期大学(後の桐朋学園芸術短期大学)時代を通じて齋藤秀雄に師事し、指揮を学ぶ。
59年2月、「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」と、スクーターを携えて貨物船に乗り、単身渡仏。同年、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。60年、ボストン交響楽団が主催するタングルウッド音楽祭に出席し、指揮者コンクールで優勝すると共に、クーセビツキー大賞を受賞して、同交響楽団指揮者シャルル・ミュンシュに弟子入りする機会を得る。パリに戻った後、ベルリンで行われた指揮者コンクールで優勝。パリからベルリンへ月に1度通ってヘルベルト・フォン・カラヤンのレッスンを受ける生活を、渡米までの間続ける。ブザンソンやタングルウッドでの優勝が指揮者レナード・バーンスタインの目に留まり、バーンスタインの下、61~62年シーズンにニューヨークフィルの副指揮者を務めた。齋藤、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインを生涯の師と仰ぎ、また親交を結んでいる。61年4月、ニューヨーク・フィルの日本公演に同行し、渡仏以来の帰国を果たす。
以降、サンフランシスコ交響楽団日本フィルハーモニー交響楽団などで客演の他、NHK交響楽団指揮者、ラビニア音楽祭音楽監督、トロント交響楽団音楽監督、日本フィルハーモニー交響楽団首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーなどを歴任。特にヨーロッパで絶大な評価と人気を得て、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどのオーケストラを定期的に指揮している。米国ボストンでの功績も大きく、68年ボストン・シンフォニー・ホールで初めてボストン交響楽団を指揮し、70年タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任。73年ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任した。ボストンでは、ドイツ音楽を演奏するためドイツ流の奏法である「イン・ストリング」という弓を深く入れる奏法を徹底させ、楽団の信頼を得ると共に公演の成功を収めている。
「もともと僕くらいオペラから縁遠い男はいなかった」というが、カラヤンの助言により、オペラ音楽の指揮を始め、69年、ザルツブルク音楽祭でモーツァルト作曲の「コジ・ファン・トゥッテ」で本格的にオペラ指揮をスタート。その後、現在に至るまで、パリ・オペラ座、ザルツブルグ、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場に出演している。
72年、日本フィルハーモニー交響楽団の一部楽員と共に新日本フィルを結成し、首席指揮者に就任。91年からは同楽団の名誉芸術監督、99年からは桂冠名誉指揮者を務めている。
84年、齋藤秀雄没後10周年のメモリアル・コンサートを指揮。この時に特別編成されたオーケストラを母体に、後にサイトウ・キネン・オーケストラが結成された。
2002年、日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを指揮して大成功を収め、その後10年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める。07年、ウィーン国立歌劇場名誉会員。08年文化勲章を受章。
10年、病気療養のため音楽活動休止を発表。同年11月2日、日本人初となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「名誉団員」の称号を贈られる。更に同年12月14日、 ニューヨークのカーネギーホールで約1年ぶりに本格復帰。12年3月から再び1年間 、体力回復のため指揮活動を休止する。総監督として、92年以来毎年夏に長野県松本市で開催している音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は、小澤の80歳を機に15年より「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に変わる。

(葛西奈津子 フリーランスライター/2015年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小澤征爾」の意味・わかりやすい解説

小澤征爾
おざわせいじ

[生]1935.9.1. 奉天
[没]2024.2.6. 東京
指揮者。1958年桐朋学園短期大学(→桐朋学園大学)指揮科を卒業。卒業後フランスに留学し,1959年ブザンソン国際指揮者コンクール,1960年カラヤン国際指揮者コンクールなどを制する。その間シャルル・ミュンシュ,ヘルベルト・フォン・カラヤン,レナード・バーンスタインに師事。ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者,シカゴ交響楽団ラビニア・フェスティバル,トロント交響楽団,サンフランシスコ交響楽団の音楽監督を経て,1973~2002年ボストン交響楽団の音楽監督を務める。2002~10年ウィーン国立歌劇場の音楽監督。1978年中国政府の招きにより北京の中国中央楽団を指揮,翌 1979年にはボストン交響楽団を率いて再度訪中した。1984年学生時代の師であった齋藤秀雄の没後 10年を記念するメモリアルコンサートを開催し,それを母体に 1992年に国際音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2015「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に名称変更)を長野県松本市で組織した。1972年日本芸術院賞受賞。1998年フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章シュバリエ,2008年同オフィシエ受章。2008年文化勲章受章。2015年ケネディ・センター名誉賞受賞。2016年グラミー賞(オペラ録音部門)受賞。

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百科事典マイペディア 「小澤征爾」の意味・わかりやすい解説

小澤征爾【おざわせいじ】

指揮者。奉天(現,瀋陽)生れ。桐朋学園高校と短期大学で名教師・斎藤秀雄らに学ぶ。1959年ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。1960年ボストンでミュンシュの指導を受け,翌1961年バーンスタインに認められてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者となる。トロント交響楽団とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督を経て,1973年ボストン交響楽団の音楽監督に就任。2002年ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。バトン・テクニックに優れ,日本の現代作品の紹介でも大きな功績を残している。武満徹の《ノベンバー・ステッス》や《カトレーン》,メシアンのオペラ《アッシジの聖フランチェスコ》など,初演曲も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小澤征爾」の解説

小澤征爾 おざわ-せいじ

1935- 昭和後期-平成時代の指揮者。
昭和10年9月1日満州(中国東北部)奉天(現・瀋陽)生まれ。斎藤秀雄に師事。昭和34年ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ニューヨーク・フィル副指揮者,トロント交響楽団音楽監督などをつとめる。47年芸術院賞。48年からボストン交響楽団の音楽監督。平成13年文化功労者。14年ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。15年松本文化会館におけるオペラ「ピーター・グライムズ」公演で毎日芸術賞。20年日本人としてはじめてフランス芸術アカデミー本会員にむかえられた。20年文化勲章。23年世界文化賞。24年村上春樹との共著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」で小林秀雄賞。25年水戸芸術館館長。桐朋学園短大卒。

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知恵蔵mini 「小澤征爾」の解説

小澤征爾

世界的指揮者。1935年9月1日、中国瀋陽市(旧満洲国奉天市)生まれ。41年に帰国し、49年より故齋藤秀雄に指揮を学ぶ。59年に単身渡仏。その後、トロント、サンフランシスコ両交響楽団の音楽監督を経て、70年にタングルウッド音楽祭、73年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した。欧州ではウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などのオーケストラを定期的に指揮。02年から10年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。日本では1972年より新日本フィルハーモニー交響楽団と定期的に活動しており、84年からは指揮者の秋山和慶とサイトウ・キネン・オーケストラを組織している。2008年、フランスの最高勲章であるレジオン・ドルール勲章(等級はオフィシエ)、日本の文化勲章を受章。10年1月より病気療養のため音楽活動を休止し、一時復帰を経て、12年3月より再び活動を休止。13年3月、同年8月の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」での本格復帰を前に指揮活動を再開した。

(2013-3-29)

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