中国で
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毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)主席の主導下で1965年秋から10年間にわたって全中国社会を揺り動かした政治的・社会的動乱。中国では「無産階級文化大革命」とよばれたこの事件は、社会主義社会における革命運動として中国社会を激しく揺さぶり、未曽有(みぞう)の混乱に陥れたばかりか、全世界に大きな衝撃を与えた。とくに1966年夏に「造反有理」のスローガンを掲げて突如として出現した紅衛兵運動や相次ぐ政治指導者の失脚、そして毛沢東の絶対的権威の確立という一連の事態は、だれもが予想しえなかった政治的大変動であった。
[中嶋嶺雄]
中国では、当時、このような文化大革命を「人の魂に触れる革命」だと強調し、「中国社会主義革命の新段階」を画するものだと公式に規定した。文化大革命は、毛沢東が1962年9月の中国共産党第八期十中全会で全党・全人民に向けて発動した「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示を出発点にするものだといわれたが、この「革命」の最大の目標は、社会主義社会における階級闘争の貫徹にあり、当面は「党内の資本主義の道を歩む一握りの実権派」を根こそぎ打倒することが最大の課題だとされた。
[中嶋嶺雄]
文化大革命は、一貫して中国共産党内部の権力闘争としての本質と、こうした党内闘争の大衆運動化という内容をもっていたが、そこには、政治的側面とイデオロギー的側面および社会的側面という三つの面があった。
まず政治的には、文化大革命の第一段階において、毛沢東主席の絶対的権威を確立するとともに、林彪(りんぴょう/リンピァオ)を党副主席として、彼が毛沢東の後継者だとする新しい政治的リーダーシップを強行的に確立した。だが、このことは、林彪を中心とする人民解放軍の主導性に依拠しない限り、劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)をはじめとするいわゆる実権派勢力からの奪権が不可能であったことも示しており、そこには兵営体制化した中国の権力中枢における政治危機と内部矛盾が集中的に表現されていたのである。1971年9月に起こった衝撃的な林彪異変は、その証明でもあった。
イデオロギー的には、文化大革命は、それが当初は「文芸整風」として現れたことに示されるように、従来の文化や価値意識を根本的に転換しようとした側面があったことも事実である。ここには、社会主義社会がその発展過程において、人類の文化遺産をどのように継承してゆくかという問題が含まれており、この点で中国は、自己の文明史をも徹底的に書き換えようとしたかにみえたのだが、しかし、「毛沢東思想」の絶対化は、思想や文化をその本来的な生命においてではなく、体制的なイデオロギーとして機能させる結果しか招かなかった。
社会的には、いわゆる「貧困のユートピア」を求めて中国社会を変革しようとしたのであり、毛沢東の意識下には、都市エリートを中枢にした中国社会の新しい階層化を打破しなければならないという構想が存在していたといえよう。だが、絶対的な毛沢東家父長体制のもとでそれが実践されるに及んで、中国民衆の抵抗に出会い、中国伝統社会の厚い壁に阻まれて、毛沢東の理想は破産したのである。1975年夏の杭州(こうしゅう/ハンチョウ)事件、翌1976年4月の第一次天安門事件は、毛沢東政治への大衆の反乱であり、毛沢東側近の「四人組」も同年10月の北京(ペキン)政変によって失墜を余儀なくされた。
[中嶋嶺雄]
ところで、文化大革命は、毛沢東政治の根源的な形態として歴史に類例のないドラマであったが、それは、党内の政策対立や意見の相違を、党内の社会主義的民主主義による制度的諸措置によって調整することを根本的に拒否してきた中国共産党の政治体質そのものから導き出された帰結であったともいえよう。
要するに文化大革命の本質は、「階級闘争」という名のもとでの党内闘争であることは明らかであり、中国共産党に生起した深刻かつ未曽有の党内闘争を、あらゆる論理と強権を用いて、毛沢東の勝利に帰そうとした政治過程こそが文化大革命であったといわねばならない。もとより、党内闘争を大衆運動化していくところに毛沢東政治の著しい特質があることはいうまでもないが、このような党内闘争において、毛沢東が当初明らかに少数派であったことは、文化大革命の性格を決定づけたのであった。
毛沢東は文化大革命の開幕に先駆けて、党中央に「修正主義」が現れる危険を指摘した、といわれているが、文化大革命胎動期の政治状況のなかでは、すでに1950年代末の「大躍進」政策の挫折(ざせつ)以来、毛沢東らは党中央で少数派であり、毛沢東自身、北京を脱出して上海(シャンハイ)から文化大革命ののろしをあげざるをえなかったのである。
[中嶋嶺雄]
ここで文化大革命のドラマの展開過程を顧みるならば、以下のとおりである。
毛沢東は、江青(こうせい/チヤンチン)、張春橋(ちょうしゅんきょう/チヤンチュンチヤオ)らいわゆる「江青文芸サロン」の面々が集まっていた上海から文化大革命の開幕を告げ、1965年11月10日、若き文芸批評家・姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)(当時、上海市党委員会書記)は、「新編歴史劇『海瑞(かいずい)罷官』を評す」と題する論文を発表して、歴史学者として知られた北京市副市長・呉晗(ごがん/ウーハン)に対する全面的な批判を開始した。呉晗批判は、北京の指導的な知識人たち「三家村グループ」に対する批判へと拡大していったが、やがてその黒幕としての党北京市委員会が実権派の牙城(がじょう)として激しく批判され、彭真(ほうしん/ポンチェン)・北京市長(党北京市委員会第一書記)らが一斉に糾弾された。
こうしたなかで1966年4月上旬、北京市党委員会の改組が行われ、4月18日の人民解放軍機関紙『解放軍報』社説は、今回の一連のプロセスを「プロレタリア文化大革命」だと初めて公式に規定した。ついで5月16日には文化大革命の進軍らっぱの役割を果たした党中央の「通知」(5.16通知)を公布し、党中央文革小組(組長・陳伯達(ちんはくたつ/チェンポーター)、第一副組長・江青)を設置した。やがて5月25日には北京大学の若き女性教師・聶元梓(じょうげんし)が、校長の陸平らを「三家村グループ」の一味として激しく批判する大字報(壁新聞)を貼(は)り出した。毛沢東は、6月1日にこの大字報を全国放送するよう指示し、それを「20世紀60年代の中国のパリ・コミューンの宣言書」だとたたえたのであった。
そして6月3日、彭真らの解任と北京市党委員会の改組が発表され、ここに実権派の牙城の崩壊が告げられると同時に、「毛沢東思想」を堅持してきた林彪の功績が大きく報じられ始めた。1966年8月上旬には、中国共産党第八期十一中全会が北京で開催された。毛沢東は会期中の8月5日、「司令部を砲撃しよう――私の大字報――」を自ら貼り出し、8月8日には「プロレタリア文化大革命に関する決定」(16か条)が発表された。
ところで、1966年8月18日に天安門広場での第1回100万人集会に集まった紅衛兵たちは、やがて全国主要都市に街頭進出し、「毛沢東思想」をたたえつつ旧文化破壊の激しい行動を繰り広げたが、紅衛兵中心の街頭闘争の段階から、やがて実権派打倒のための奪権闘争へと文化大革命は質的転換を遂げていった。しかし、実権派の抵抗も根強く、各地で奪権と反奪権の武闘が相次いだとき、林彪麾下(きか)の人民解放軍は1967年1月23日、奪権闘争への軍の全面的な介入を決定したのである。
「一月革命」といわれる上海の奪権闘争において、上海の造反派はコミューン型権力を構想し始めたが、毛沢東ら党中央は、このコミューン構想を急遽(きゅうきょ)押さえつけてしまった。これは文化大革命の一つの転換点であり、以後、毛・林主流派は、革命派の「大連合」による奪権、すなわち革命幹部・軍代表・革命的大衆代表からなる、いわゆる「三結合」の革命委員会を樹立するよう呼びかけ、革命委員会は、1968年9月をもって全国の一級行政区のすべてに成立することとなった。
こうしたなかで中国共産党九全大会(第9回全国代表大会)が1969年4月、1956年の八全大会以来13年ぶりに開催された。この九全大会は、文化大革命が上からの党再建という大きな結節点に達したことを示すとともに、毛沢東の無類の権威を確立し、林彪を毛沢東の後継者(接班人)として擁立するためのセレモニーであった。
この間、毛沢東側近として文化大革命の推進を担い、文革小組組長だった陳伯達は、翌1970年8~9月の第九期二中全会で「大野心家・陰謀家」だとされ、失脚していった。このような状況のなかで発生したのが林彪異変である。林彪異変は、今日なお多くの謎(なぞ)に包まれているが、1972年7月、中国当局は、林彪の毛主席暗殺計画失敗によるモンゴルでの墜落死という驚くべき筋書きを公表した。
文化大革命の一つの重大な結末が林彪異変という深刻な事件となって露呈したのちの1973年8月、中国共産党十全大会(第10回全国代表大会)が開催された。十全大会は、周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)の政治報告、王洪文(おうこうぶん/ワンホンウェン)の党規約改正報告を採択し、新しい中央リーダーシップを選出した。中央委員会主席には当然のことながら毛沢東を、そして副主席には、九全大会のときの林彪ただ1人の副主席とは変わって、周恩来、王洪文、康生(こうせい/カンション)、葉剣英(ようけんえい/イエチエンイン)、李徳生(りとくせい/リートーション)の5人を選出した。この十全大会は、林彪処断と対ソ非難を、全党をあげて行った壮烈な儀式の観を呈したが、「毛沢東体制下の非毛沢東化」と脱文革を志向する「潮流」の大きさをも確認させた。だが一方、十全大会と前後して生じた孔子(こうし)批判・始皇帝礼賛のキャンペーンはやがて「批林批孔」運動となっていわゆる「反潮流」の巻き返しが図られ、毛沢東体制末期の内部角逐はますます熾烈(しれつ)化していった。このようなとき、1975年夏に生じた杭州事件は、工場労働者の賃上げ要求ストライキによる杭州一帯の混乱を軍によって制圧したという深刻な事件であり、「貧困のユートピア」を強制してきた毛沢東体制の末期的な社会的矛盾を内側から露呈したものであった。
こうして「潮流」と「反潮流」とが内部的に角逐するなかで、1976年1月8日、周恩来国務院総理(首相)はついに病に倒れた。だが周恩来葬儀において弔辞を読んだ鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)副総理は、あえて「四つの現代化」路線の継承を文革派リーダーの面前で誓ったため、このことが毛沢東体制末期の文革派側近を大いにいらだたせ、「走資派」批判のキャンペーンが1976年2月初旬から一斉に展開された。この2月初旬には、文革派非上海グループの華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が国務院総理代行に毛沢東から指名されて一躍クローズアップされたが、こうした「逆流」(「反潮流」)への大衆的抗議として起こったのが驚天動地の第一次天安門事件だったのである。党中央は、この事件を「反革命」事件として断罪し、鄧小平の全職務を解任したが、のちに天安門事件の評価が逆転し、「偉大な四・五運動」として称賛されるようになったように、天安門事件こそ毛沢東体制下の大衆反乱のクライマックスであった。
こうした状況のなかで、1976年9月9日、ついに毛沢東主席が逝(い)った。中国の権力中枢においては、毛沢東の死を悼むいとまもなく後継権力をめぐる闘争が毛沢東側近体制の内部で激化した。そして毛沢東の死を決定的な転機として、10月6日には「既定方針どおり事を運ぶ」との毛沢東「遺訓」を掲げて権力継承権をいち早く主張した文革派上海グループつまり「四人組」(王洪文、張春橋、江青、姚文元)が一網打尽に逮捕され、打倒されるという衝撃的な北京政変が起こり、ここに華国鋒体制が一挙に形成された。
こうして華国鋒は、毛沢東後継者としての正統性を「あなたがやれば私は安心だ」という、もう一つの毛沢東「遺訓」によって誇示したのであるが、しかし、そのような「毛沢東の影」は、やがて中国内政全体の非毛沢東化の進展とともに華国鋒の政治的将来を拘束することになってゆき、翌1977年7月には中国共産党第十期三中全会で鄧小平が再復活を遂げた。同年8月の中国共産党十一全大会(第11回全国代表大会)では、新しい党規約のなかに「四つの現代化」が明記され、さらに1978年12月の中国共産党第十一期三中全会では統一的な国家目標として定められた。
かくて中国は、毛沢東政治からの歴史的な転換をようやく実現し、今日の「四つの現代化」路線へと大きく旋回したのであった。
[中嶋嶺雄]
中国は1979年10月1日、建国30周年を迎えたのであるが、建国30周年祝賀集会では葉剣英副主席が初めて文化大革命の誤りを指摘した。
こうして1960年代後半からの10年間は、いわゆる「文革の10年」として中国社会全体を混乱に陥れ、あらゆる機関や単位において組織的にも人的にも深刻な亀裂(きれつ)をもたらした反面、ついになんらの具体的成果を生み出すことはなかった。1981年6月の中国共産党第十一期六中全会による「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」では、文化大革命が党の決議として公式に否定された。今日、「文化大革命」は一場の悪夢として公式には括弧(かっこ)付きで引用されるに至っている。そして劉少奇をはじめ文化大革命で打倒された指導者がすべて復活もしくは名誉回復する一方、文革派はことごとく失墜・凋落(ちょうらく)して、非毛沢東化が進展しつつある。一時期、人類史上の偉大な実験だと外部世界でたたえられた文化大革命は、当の中国にとっても大いなる幻影であり、虚妄でしかなかったばかりか、中国社会をずたずたに引き裂いた悲劇的な動乱だったのである。
[中嶋嶺雄]
『中嶋嶺雄著『北京烈烈』上下(1981・筑摩書房)』▽『スタンレー・カーノウ著、風間龍・中原康二訳『毛沢東と中国―終りなき革命』上下(1973・時事通信社)』▽『安藤正士・太田勝洪・辻康吾著『文化大革命と現代中国』(岩波新書)』
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1966年から76年にかけて,全中国をまきこんで展開された権力闘争。この背景には,毛沢東の過渡期階級闘争理論があった。新中国成立後,毛沢東は,みずからの指導する社会主義社会を,階級闘争の終始存在する過渡期社会ととらえる理論に傾斜していったが,60年代中期にいたって,党は〈資本主義の道を歩む実権派〉によって修正主義に変質させられる前夜にあるとの認識に達し,これら〈走資派〉を一掃し,修正主義化を防止する目的をもって,プロレタリア文化大革命(文革)を発動した。
1965年11月,毛沢東の直接指導下に,姚文元(ようぶんげん)の論文〈《海瑞罷官(かいずいひかん)》を評す〉が発表されたことで,実権派批判が始まり,文革の火がつけられた。しかし,劉少奇(国家主席)ら実権派官僚の押えこみにあって,運動は燃え上がらなかった。そこで毛沢東は林彪(国防相)と結んで人民解放軍を味方につけながら,思想問題に敏感で組織的に自由な大学や高校,中学の学生の間に〈紅衛兵〉を組織し,そのエネルギーを実権派批判に向けた。
66年8月の中国共産党8期11中全会で,毛沢東はみずから会場に劉少奇攻撃の大字報(〈司令部を砲撃しよう〉)をはり出すなどし,強引に〈プロレタリア文化大革命に関する決定(16ヵ条)〉を決定し,この中で運動の目的を,〈資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし,ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する〉ことだと指し示した。この月,毛沢東は天安門楼上で数十万の紅衛兵を閲兵した。かくして,党決定および毛沢東の支持という二重のお墨付を手にした紅衛兵の季節が始まった。学校の授業は全面的に停止され,紅衛兵は街頭に出た。〈四旧〉(旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣をいう)を打破せよとのスローガンで打ち壊しが起こり,赤いビニルカバーの《毛主席語録》と毛主席バッジが,全国を覆った。名のある芸術家や学者,高級官僚はかたっぱしから三角帽子をかぶせられてひきまわされ,〈牛鬼蛇神〉として強制労働に追いやられた。文芸作品は,江青(毛夫人)の息のかかった〈革命模範劇〉を除いて姿を消し,書物が焚かれ,出版活動は停止した。
67年に入ると,実権派の手から権力を奪う〈奪権〉が始まった。その典型となった上海の〈1月のあらし〉の中で,張春橋らは,パリ・コミューンに範をとって〈上海コミューン〉を創出しようとした。しかし,常備軍の廃止をもたらすこの構想は,人民解放軍の抵抗にあって流産し,軍代表・革命幹部・革命大衆の〈三結合〉による〈革命委員会〉へと後退させられた。いっぽう,実権派は労働者の造反派を味方に引き入れて抵抗したため,67年の武漢事件に代表されるような内戦寸前の大規模な武闘が各地で繰り返され,数十万人の血が流された。こうしたなかで,新権力機構の〈革命委員会〉は,2年ちかくかけた難産のすえ,68年9月に全国の省・市に成立しおわったが,それは軍官僚主導型で,当初の理想とはほど遠いものであった。69年4月には,中共9全大会が開かれ,文革の勝利が宣言され,林彪が毛沢東の後継者として党規約に書きこまれた。
しかし,文革はなお終息せず,文革推進グループ内部の権力闘争が続き,71年9月には,林彪が毛沢東暗殺に失敗して国外逃亡を図り,モンゴルに墜死したとの発表が,世界を驚かせた。こうした間隙をついて,周恩来(国務院総理)を中心とする実務派官僚による脱文革=正常化の動きも,71年以降活発になり,教育改革の見直しや出版事業の再開などがなされた。いっぽう,林彪なきあと文革派の名実ともにリーダーとなった江青,張春橋ら〈上海グループ〉は,毛沢東の権威をバックに,ことごとに実務派官僚に対立し,ここに文革派と脱文革のせめぎ合いの局面が出現した。73年に始まった〈反潮流〉の動きは,やがて翌74年の〈批林批孔〉運動へとひき継がれるが,その矛先は周恩来に向けられていた。75年には,文革のもたらした内政危機を乗り切るため,指導力のある鄧小平が奇跡の復活をとげ,重病の周恩来にかわって脱文革正常化をすすめるが,76年に入ると再度のまき返しにあい,鄧小平はふたたび打倒される。こうしたなかで,76年4月には〈天安門事件〉が起こり,極〈左〉的言辞を弄することで能事終われりとしている江青など文革派に対する民衆の怒りが爆発する。その年9月の毛沢東の死をきっかけに,10月6日,江青,張春橋,王洪文,姚文元の〈四人組〉が逮捕され,文革は実質的に終りを告げた。
中共中央は,1981年6月の中央委員会総会で決定された〈建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議〉において,文革を,〈指導者が間違ってひき起こし,それを反革命集団に利用されて,党と国家と各民族に大きな災難をもたらした内乱であった〉と全面的にこれを否定し,こうした〈階級闘争の拡大化という誤り〉に対して,〈毛沢東同志におもな責任がある〉とした。しかし,これの全面的評価には,なお長い時間が必要である。
執筆者:吉田 富夫
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(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)
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全称はプロレタリア文化大革命。略称は文革。1965~76年の中国指導部の権力闘争を背景とした政治運動。劉少奇(りゅうしょうき)ら資本主義の道を歩む実権派に対する毛沢東による攻撃で始まり,66年以後紅衛兵が「破旧立新,造反有理」をスローガンに登場,各地で武闘と奪権の大動乱に発展。67年軍の介入で,革命幹部・革命的大衆・人民解放軍による「三結合」の革命委員会が各地に樹立され,実権を掌握。68年10月,劉は共産党から除名され,翌年4月の九全大会以後運動はいちおう鎮静化した。71年の林彪(りんぴょう)事件をへて,毛の死後「四人組」が打倒され文革は終結した。現在中国では文革を「災難をもたらした10年」と見なしている。
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…文化大革命のなかで生まれた中国の新しい権力機構。毛沢東は,はじめ文化大革命を通じてパリ・コミューン型の権力機構の樹立を目指したとおもわれるが,主として常備軍である人民解放軍の抵抗にあって挫折し,革命的大衆,革命的幹部,人民解放軍代表の〈三結合〉による革命委員会を提起した。…
…なお,連環画(絵物語)という大衆的形式の活用がはかられていることも注目された。しかし,いわゆる文化大革命によって,児童文学も停滞を余儀なくされたため,その後の近代化路線によってもその修復は大幅におくれ,中国の児童文学の再出発はようやく再開されたばかりといえる。
[アラビア]
東洋が生みだした文学で,世界の児童文学に古典的地位を占める《千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)》は,10世紀から15世紀にかけて成立したとみられるが,原型はペルシアの民話集であり,アラビア,インド,ユダヤ,エジプトなどの民話を集大成している。…
…1962年冬から66年春にかけて行われた中国の総点検運動で,文化大革命の前奏曲となった。この運動の背景には,社会主義の行方をめぐる激しい路線対立があった。…
…国歌は,田漢作詞,聶耳(じようじ)作曲の《義勇軍行進曲》である。一時期,毛沢東と中国共産党を称えた《東方紅》が,事実上,準国歌のような扱いをうけたこともあるが,文化大革命(以下,文革と簡称)の収束とともにそのようなことはなくなった。国章は,上空に五つの星が輝く天安門を,歯車と穀物の穂がとりかこむ図案である。…
…詩の領域では,李季《楊高伝》,田間《趕車伝》,聞捷《復讐の炎》などの長編叙事詩が書かれるとともに,大量の民歌(=民謡)の採集が行われた。 66年に始まった文化大革命は,試行錯誤を繰り返しつつ一定の成果をあげてきた文芸活動を〈修正主義〉としてトータルに否定した。文芸出版物は,出版することも読むことも禁じられ,すべての文芸団体は活動を停止し,作者たちは闘争にかけられ,強制労働に追いやられた。…
…ソ連式の社会主義建設に批判を強めた彼は,56年前後から独自の路線を打ち出し,58年,人民公社化,大躍進の政策を推進したが重大な蹉跌をきたし,59年には国家主席を辞任,党務に専念することになった。中国におけるプロレタリア独裁の形骸化,中共の官僚主義化を憂えた彼は社会主義下での継続革命の必要性を強調し,晩年の全精力を傾けて66年,プロレタリア文化大革命を発動した。それ自体は真のプロレタリア独裁を実現するという彼の期待に反し,権力闘争のなかで収拾がつかず,彼の死をもって終止符をうち,彼の妻江青はこの間の〈罪行〉の故をもって逮捕・投獄されるにいたった。…
※「文化大革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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