文徳天皇(読み)モントクテンノウ

デジタル大辞泉 「文徳天皇」の意味・読み・例文・類語

もんとく‐てんのう〔‐テンワウ〕【文徳天皇】

[827~858]第55代天皇在位850~858。仁明天皇の第1皇子。名は道康。在位中の政治藤原良房が行った。

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精選版 日本国語大辞典 「文徳天皇」の意味・読み・例文・類語

もんとく‐てんのう‥テンワウ【文徳天皇】

  1. ( 「もんどくてんのう」とも ) 第五五代天皇。名は道康(みちやす)仁明天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣の女順子。承和九年(八四二立太子、嘉祥三年(八五〇即位した。在位中の政はもっぱら藤原良房によって行なわれ、在位九年にして三二歳で崩御した。御陵京都市の田邑山陵。天長四~天安二年(八二七‐八五八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文徳天皇」の意味・わかりやすい解説

文徳天皇
もんとくてんのう
(827―858)

第55代天皇(在位850~858)。仁明(にんみょう)天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘順子(じゅんし)。諱(いみな)は道康(みちやす)。承和(じょうわ)の変(842)で皇太子恒貞(つねさだ)親王が廃されたので、かわって皇太子となり、即位後は次の皇太子に紀名虎(きのなとら)の娘静子の産んだ第一皇子の惟喬(これたか)親王をたてようとしたが、藤原氏の反対にあい、惟仁(これひと)親王(後の清和(せいわ)天皇)をたてた。天皇は巡幸遊覧を好まず政治に励み、また『続(しょく)日本後紀』の編纂(へんさん)を開始したが、病弱で万機を廃することが多く、政治の実権は藤原良房(よしふさ)にゆだね32歳で崩御。陵墓は京都市右京区太秦(うずまさ)の田邑(たむら)陵。天皇一代の歴史を編年体で記した『日本文徳天皇実録』10巻(879完成)がある。

福井俊彦

『藤木邦彦著『日本全史3 古代Ⅱ』(1959・東京大学出版会)』『佐伯有清著『伴善男』(1970・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「文徳天皇」の意味・わかりやすい解説

文徳天皇 (もんとくてんのう)
生没年:827-858(天長4-天安2)

第55代に数えられる平安前期の天皇。在位850-858年。名は道康。仁明天皇を父とし,藤原冬嗣の女順子を母として生まれた。842年(承和9),嵯峨上皇の死を機として起こった承和の変によって皇太子恒貞親王が廃されたため,皇太子に立てられ,850年(嘉祥3)父仁明天皇の病死により位を譲られ即位した。しかし,藤原良房の強大な政治力によって,ほとんど天皇親政を行うことができず,その皇太子も,長子惟喬(これたか)親王の才能を愛したにもかかわらず,良房女明子の生んだ惟仁(これひと)親王(のち清和天皇)を立てざるをえなかった。しかも,858年8月27日,32歳の若さで急病により没,9歳の幼帝清和天皇の即位によって良房の摂政補任をみた。
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百科事典マイペディア 「文徳天皇」の意味・わかりやすい解説

文徳天皇【もんとくてんのう】

仁明(にんみょう)天皇皇子。名は道康。母は藤原良房の妹順子。承和(じょうわ)の変で廃された恒貞(つねさだ)親王にかわって皇太子に立ち,850年父帝の病死により即位。在位中は良房が権勢を誇り,良房の娘明子所生の惟仁親王(のちの清和天皇)が,天皇の寵愛した第1皇子惟喬(これたか)親王を越えて皇太子に立った。在位9年で病没

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朝日日本歴史人物事典 「文徳天皇」の解説

文徳天皇

没年:天安2.8.27(858.10.7)
生年:天長4(827)
平安前期の天皇。仁明天皇と藤原冬嗣の娘順子の子。名は道康。承和9(842)年8月,藤原良房の画策によって皇太子となったこと(承和の変)で良房に対する遠慮は生涯つきまとった。嘉祥3(850)年4月,父の死去によって即位したあと,第1皇子(紀名虎の娘静子との間に生まれた惟喬親王,7歳)をさしおき,良房の娘明子の生んだ第4皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を生後8カ月で皇太子に立てたごときは,その典型。人を見る目と政治に対する熱意は持っていたが,病気がちのため,多くの重要な政務に関与できず,良房の権力基盤を強める結果となった。良房を太政大臣に任じた翌年に没した。墓(田邑陵)は右京区の門徳池の東にある円墳がそれという。父仁明の亡くなった清涼殿を解体して,深草の陵墓のかたわらに移して嘉祥堂となし,清涼殿を新たに造営したことは,宮城内遷宮の故実を示すものとして注目される。

(瀧浪貞子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文徳天皇」の意味・わかりやすい解説

文徳天皇
もんとくてんのう

[生]天長4(827).京都
[没]天安2(858).8.27. 京都
第 55代の天皇 (在位 850~858) 。仁明天皇の第1皇子。母は太政大臣藤原冬嗣の娘順子。名,道康。嘉祥3 (850) 年即位したが,政治は太政大臣藤原良房によって行われた。その治世中は藤原氏の勢力が大いに伸張した。陵墓は京都市右京区太秦三尾町の田邑陵。なお天皇一代の実録を『日本文徳天皇実録』という。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「文徳天皇」の解説

文徳天皇
もんとくてんのう

827.8.-~858.8.27

在位850.3.21~858.8.27

田邑(たむら)帝とも。仁明(にんみょう)天皇の第1皇子。名は道康(みちやす)。母は藤原冬嗣の女順子。842年(承和9)恒貞親王(淳和天皇の子)が皇太子を廃され(承和の変),かわって立太子した。850年(嘉祥3)仁明の死去により践祚。同年誕生の第4皇子(清和天皇)を皇太子に立て,外戚の藤原良房との結びつきを強めた。のちに長子惟喬(これたか)親王の即位を希望したとも伝えられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「文徳天皇」の解説

文徳天皇 もんとくてんのう

827-858 平安時代前期,第55代天皇。在位850-858。
天長4年8月生まれ。仁明(にんみょう)天皇の第1皇子。母は藤原順子。承和(じょうわ)の変(842)後,恒貞(つねさだ)親王にかわって皇太子となり,嘉祥(かしょう)3年父帝の死で即位。政治の実権は,皇后明子の父藤原良房(よしふさ)ににぎられた。天安2年8月27日死去。32歳。墓所は田邑陵(たむらのみささぎ)(京都市右京区)。別名は道康親王,田邑(田村)帝。

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旺文社日本史事典 三訂版 「文徳天皇」の解説

文徳天皇
もんとくてんのう

827〜858
平安前期の天皇(在位850〜858)
仁明 (にんみよう) 天皇第1皇子。諱は道康。母は藤原冬嗣の娘順子。842年承和の変により恒貞親王に代わって立太子。藤原良房の娘明子が生んだ皇子(清和天皇)を皇太子とした。その治世中,良房が外戚として勢力をふるい,良房は857年太政大臣,翌年清和天皇が即位すると,摂政 (せつしよう) となって摂関政治の端緒を開いた。

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世界大百科事典(旧版)内の文徳天皇の言及

【続日本後紀】より

…仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。以前の国史の体裁を追いながらも,天皇1代の実録としての性格を強めており,記事詳密,体裁も整備されている。…

※「文徳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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