日本とソ連が戦争状態を終了し、国交を回復した宣言。1956年10月に鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相がモスクワで調印し、両国議会が批准して56年12月に発効した。平和条約交渉の継続を確認した上で/(1)/ソ連は日本の要請に応えかつ日本の利益を考慮して、歯舞群島と色丹島の引き渡しに同意/(2)/これらの島は平和条約締結後に引き渡される―と明記した。ソ連崩壊後の2001年、ロシアのプーチン大統領と森喜朗首相が宣言の有効性を確認した。
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日本の鳩山一郎首相とソ連のN.A.ブルガーニン首相によって1956年10月に発せられた共同宣言。サンフランシスコ講和会議以降も,平和条約が締結されなかった日本とソ連の間には,国際法上は第2次大戦における戦争状態がつづいていた。朝鮮戦争後,平和共存の時代に入り,ソ連における対日国交正常化の機運が高まった。当時,日本の保守政党は,鳩山を総裁とする民主党と吉田茂を総裁とする自由党に分立し,党人政治家としての鳩山は官僚政治家としての吉田に対抗,両者の対立点の一つは社会主義国との国交回復を含む自主外交の主張にあった。民主党の鳩山は1954年12月,組閣するとともに中ソとの国交回復に積極的意志を表明,これに直ちにソ連が呼応し,55年6月から翌年の3月にかけて両国間の交渉が試みられた。しかし,北方領土問題における見解不一致が明確になって平和条約は締結されず,56年10月の鳩山訪ソによって日ソ共同宣言が発せられるだけに終わった。日ソ共同宣言の両国による批准(1956年12月)によって,日ソ両国間の戦争状態は終了し,国交が回復して大使交換がなされた。同時に,日本の国際連合加盟が実現した。また日ソ通商条約が結ばれるなど,両国の関係は正常化に向かった。しかし北方領土問題(〈千島列島〉の項参照)は依然として解決されていない。日米安保条約の改定,日中平和友好条約における覇権条項などとの関連でソ連の領土問題についての姿勢は微妙な変化をみせ,善隣友好条約案などを生み出したが,北方領土問題の解決を意味する平和条約の締結は前途多難な状態にある。
執筆者:高橋 彦博
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1956年(昭和31)10月19日に署名され、12月12日批准書が交換されて発効した「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」。吉田茂内閣にかわって登場した鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣は、当時、ソ連との国交回復を外交方針に掲げ、1955年6月からロンドンで松本俊一(まつもとしゅんいち)代表とマリク代表との間で会談を開始せしめたが、領土問題で行き詰まり、1956年3月に無期休会となった。同年7月、モスクワで重光葵(しげみつまもる)外相とシェピーロフ外相との交渉が再開され、その結果、平和条約の締結を棚上げして、共同宣言に合意するに至った。その内容は、(1)戦争状態の終結、(2)外交・領事関係の回復、(3)国連憲章の原則、自衛権、内政不干渉の原則の確認、(4)日本の国連加入の支持、(5)日本人抑留者の送還、(6)賠償請求権の放棄などであるが、もっとも重要なのは平和条約と領土に関する部分で、宣言は「正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結交渉が継続される」こと、およびソ連が歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)を日本に「平和条約が締結された後、現実に引き渡す」ことを規定している。
[石本泰雄]
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1956年(昭和31)10月19日調印の国交回復に関する「日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言」。全9条。戦争状態の終結,日本の国連加盟支持,通商貿易関係の再開,日ソ漁業条約の発効などが定められ,さらに平和条約締結後,歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)の2島の日本への引渡しが合意された。サンフランシスコ講和条約に調印しなかったソ連との国交正常化交渉が,北方領土問題の介在にもかかわらず共同宣言にまでこぎつけたのは,米ソの「平和共存」時代を背景に,ソ連の「平和攻勢」外交と,軽武装・対米協調の吉田(茂)路線に対抗し自主外交路線をとる鳩山内閣の対ソ外交との間に一致点を見出せたからである。鳩山一郎首相が訪ソ,モスクワで調印された。
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1956年10月16日に結ばれ,日ソの国交樹立を定めた外交文書。ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったので,日ソ間では平和条約交渉が55年から始まった。しかし領土問題での意見の対立で平和条約を結ぶことを断念し,鳩山一郎首相,河野一郎農相が訪ソして国交樹立だけを先行させることにした。しかし与党の新党議に拘束され,歯舞(はぼまい),色丹(しこたん)島の返還を約束してほしいと交渉した。ソ連側は平和条約調印後にこれら2島を引き渡すとの約束を文書に含めることに同意した。
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…この場合は広義の条約の一種ということができる。たとえば,1956年の日ソ共同宣言などはそれにあたる。第2次大戦後における日本とソ連の国交回復に関して,本来ならば平和条約方式によるのが望ましかったわけであるが,最大の懸案事項であった領土問題について合意に至らず,この問題を棚上げしたまま,とりあえず国交を回復するために,正式の条約よりも軽便な方式である共同宣言という形式を採ることになったといえる。…
…51年追放解除後,鳩山を擁して吉田茂長期政権打倒の争いを続け,54年末鳩山一郎内閣を実現させ,農相に就任。“河野執権”と称される実力者ぶりを発揮し,56年10月の日ソ共同宣言調印の立役者となった。岸信介・池田勇人の歴代政権でも経済企画庁長官,自由民主党総務会長,農相,建設相などを歴任した。…
…しかし,戦後の日本の知識層,学生の間では,ソ連社会主義の権威と文化的影響は決して小さくなかった。
[日ソ共同宣言]
ソ連は対日講和条約の準備からは疎外され,日本はアメリカ陣営の一員として,51年9月,サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を結んだ。しかし,スターリン死後の国際情勢の変化の中で,日ソ国交回復交渉が始まった。…
…51年のサンフランシスコ講和条約の中で,日本は千島列島と南サハリンを放棄した。56年の日ソ共同宣言によって正式に国交は回復したが,その後いわゆる〈北方四島〉(歯舞(はぼまい),色丹(しこたん),国後(くなしり),択捉(えとろふ))の帰属について日本側は未解決を主張し,これを解決済みとするソ連(現ロシア連邦)側と対立して現在に至っている(〈千島列島〉の[北方領土問題]の項参照)。
[芸術と思想の大きな波]
文化の面で日本にとくに大きな影響を及ぼしたのは,明治20年代から紹介されたツルゲーネフ,ドストエフスキー,トルストイらのロシア文学と,トルストイ,クロポトキンらの思想である。…
※「日ソ共同宣言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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