1992年5月、細川護熙氏が自ら代表となって結成。「責任ある変革」を旗印に政治の抜本改革を訴え、7月の参院選で4議席を得ると、無党派の風を受けた93年7月の衆院選では35議席を獲得。細川氏は非自民党の8党派による連立政権の首相となり、政権交代を実現した。94年12月、小沢一郎氏が結成を主導した新進党に合流するため解党した。
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細川護熙(もりひろ)元熊本県知事が1992年(平成4)5月に旗揚げした政党。「既成政党の離合集散による政界再編では現在の危機を打開できない」として、同年7月の参議院選挙では、比例代表区で共産、民社両党を上回る約361万票を獲得、細川代表や元ニュースキャスターの小池百合子(ゆりこ)ら4人が当選した。政治刷新に期待する保守系浮動票や既成政党への不満票を吸収、1993年6月の東京都議会選挙では20議席、7月の衆議院選挙では35議席を獲得、細川は日本社会党、新生党、公明党など8党会派に推されて連立政権の首相になった。
党の政策としては、国連平和維持活動(PKO)に積極的に参加するため自衛隊とは別個の常設組織である「国連平和協力隊」の新設を提唱するとともに、ポスト冷戦の新たな国際情勢に対応するため憲法改正の必要性も唱えた。本部・支部役員の女性の割合を20%としたり、「女性政治スクール」を開設するなど、政治スタイルの斬新さが国民に新鮮なイメージを与えた。しかし1994年4月、東京佐川急便問題に絡んで細川首相が辞任すると急速に政界の求心力を失った。衆院の小選挙区制導入に伴う政界再編の動きのなかで、1994年12月、新生、公明、民社各党などと新進党を結成、日本新党は解党した。
[橋本五郎・水野雅之]
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1992年(平成4)5月22日に発足した保守新党。代表は細川護熙(もりひろ)。既成政党の腐敗を批判,政界再編の触媒的役割をめざし,93年7月の衆議院選挙では新人35人を当選させ,新生党・社会党などとくんで非自民連立の細川内閣を組閣。94年6月,自民・社会・さきがけ3党の村山政権成立で野党となる。細川ブームも去り,同年12月解党して新進党に合流した。
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[55年体制の終焉とその後]
さらに,80年代末になると,政治腐敗の噴出,派閥政治の横行,無党派層の増大といった55年体制の制度疲労の徴候がますます顕在化し,政治改革への声が加速度的に増幅されてきた。このような事態を背景にして起こったのが〈新党ブーム〉で,まず登場してきたのが,92年5月の細川護熙をリーダーとする日本新党であり,これに続く動きが,93年6月の武村正義らの自民党からの離党者による新党さきがけの,またその数日後の小沢一郎らのもう一つの自民党離党者グループによる新生党の,結成である。そして,その1ヵ月後に行なわれた総選挙で,自民党は,第一党の地位は保ったものの過半数の議席を得ることができず,非自民勢力の結束の前に,ついに38年間維持しつづけた政権の座を下りた。…
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