私立。1882年(明治15)大隈重信(おおくましげのぶ)により東京府南豊島(みなみとしま)郡戸塚村に東京専門学校として開校。
[滝口 宏]
1881年(明治14)挂冠(けいかん)した大隈は、政党のほかに、学問を政治より独立させ自由の精神を養う私学創設の念やみがたく、小野梓(あずさ)に諮り、小野のもとに集まる高田早苗(さなえ)、天野為之(ためゆき)ら7人の鴎渡(おうと)会の青年たちの助力を得て体制を整え、翌1882年10月21日、東京専門学校を開校した。開校時、政治経済学科、法律学科、理学科(1883年廃止)の3科と英語学科を置き、3科はもっぱら邦語をもって講義する。入学金1円、授業料月1円、修業期限3年。1886年小野が没し、高田の発案により大隈家から経済的に独立し、別に政治、法律2科の講義録による通信教育を始めた(校外生)。1890年坪内雄蔵(逍遙(しょうよう))の提議により文学科を創設、翌1891年『早稲田文学』創刊。1902年(明治35)9月、早稲田大学と改称。1904年大学部に商科開設。その翌年清(しん)国(中国)留学生部を置き一時は800人を受け入れたが1910年に閉鎖。
1907年、創立25周年に校歌(『都の西北』相馬御風(ぎょふう)詞、東儀鉄笛(とうぎてってき)曲)制定。1909年理工科開設。翌1910年野球部など7部を統轄して体育部発足。創立30周年は諒闇(りょうあん)により1年延期し、1913年(大正2)大学としての「教旨(きょうし)」が出された。その意は学問の独立、学問の活用、模範国民の造就で、大学の校是を示すものであった。1917年、学長問題で世にいう「早稲田騒動」が起こったが、平沼淑郎(よしお)(1864―1938)が代表者として事を収めた。その年、新大学令公布、大学はただちに準備を進め、申請、1920年2月認可された。1922年1月大隈没、国民葬。大隈邸が大学に寄付され大隈会館として、一隅に大隈記念講堂開館(1927)。その前々年の1925年には図書館、このあとの1928年(昭和3)演劇博物館竣工(しゅんこう)。
1932年創立50周年を迎えるが、このころから日本は満州事変、日中戦争、やがて第二次世界大戦へと突入し、大戦下の1945年5月、空襲により諸施設の3分の1、延べ9000坪を焼失。
[滝口 宏]
戦後、1949年(昭和24)4月新構想による大学発足。学部を政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部ともに第一、第二に分け、高等師範部を母体とした教育学部を加えて11学部とした。早稲田高等学院など学校4、図書館・研究所等附属機関5。専任教職員1265人、学生2万4329人であった。1951年新制大学院として政治学、経済学、法学、文学、商学、工学(1961年理工学と改める)の6研究科発足。1956年2月、アメリカのミシガン州立大学と提携し生産性向上に関する共同研究を開始、大学内に生産研究所を設置する。翌1957年、創立75周年式典(10月21日)前日、記念会堂竣工、立席を加えて1万人を収容する。1966年社会科学部設置。ミシガン州立大学提携前後より海外との交流しだいに多く、1963年国際部開設、諸外国大学との学術交流協定も多くなる。1982年創立100周年を記念して諸事業を計画し、埼玉県所沢市三ヶ島(みかじま)に人間科学部、人間総合研究センターを1987年に開設、1990年(平成2)教育学、1991年に人間科学、1994年には社会科学の各大学院研究科を設置した。また、1991年には安部(あべ)球場跡地に総合学術情報センターが開館。1997年、社会科学研究所とシステム科学研究所を改組し、アジア太平洋研究センターを、同時にアジア太平洋研究科を設置、アジア太平洋地域との共生、世界にむけての情報発信拠点を目ざす。その後の改組を経て、2010年(平成22)時点で、政治経済学、法学、文化構想学、文学、教育学、商学、基幹理工学、創造理工学、先進理工学、社会科学、人間科学、スポーツ科学、国際教養学の13学部と、政治学、経済学、法学、文学、商学、基幹理工学、創造理工学、先進理工学、教育学、人間科学、社会科学、スポーツ科学、アジア太平洋、国際情報通信、日本語教育、情報生産システム、公共経営、法務、ファイナンス、会計、環境・エネルギー、教職の22大学院研究科を擁する。学部・大学院の学生数は5万4179人、うち留学生は3124人。2010年度の専任教員は2179人。所在地は東京都新宿区西早稲田1-6-1ほか。
[滝口 宏]
『早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』全5巻・別巻3(1978~1997・早稲田大学出版部)』▽『早稲田大学大学史編集所編『都の西北――建学百年 Waseda university a photographic history of 100 years(1882~1982)』(1982・早稲田大学出版部)』
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の大学ブランド商品」事典 日本の大学ブランド商品について 情報
東京都新宿区西早稲田に本部をおく私立大学。慶応義塾と双璧をなす日本の私学の雄である。国会開設をめぐる政治抗争で下野した大隈重信が小野梓,高田早苗,天野為之らと1882年現在地に開設した東京専門学校を起源とする。開設当初から政治的風圧が強く,これに抗して反骨・在野の精神を貫く学風を築きあげてきた。1917年の大山郁夫の大学改革運動,23年の軍事研究団事件(早稲田軍教事件)など,政治革新を求めた〈早大事件〉は数多い。多数の卒業生が政界リーダーとして活躍しているのもこの伝統を示している。また,政治に限らず,日本の経済,社会,学術,文化の各分野の発展にも大きな足跡を刻んでいる。開校翌年から教壇に立った坪内逍遥の文芸活動は,1890年文学科を設置して文学教育のとりでを築き,翌91年には雑誌《早稲田文学》を創刊して早稲田文学の土壌を育成するなど多彩であった。このなかから文壇をリードする優れた作家,文芸家が多数輩出した。彼の発案と私財により建設されたシェークスピア時代のフォーチュン座を模した異色の演劇博物館(1928開館)は,日本の演劇研究の中核の一つである。1913年,創立30周年記念式典で大隈は〈早稲田大学教旨〉を宣言,学問の独立,学理研究と応用,模範国民の育成を建学精神として大学の活動基盤を確立した。政治,文学とともに実業界,ジャーナリズムなど幅広い分野にわたって卒業生の活躍が目だつ。創立年,大学規模,活動分野などからアメリカのシカゴ大学に比較される。1902年に大学部,専門部,高等予科および研究科からなる早稲田大学として発足,20年大学令による大学となり,第2次大戦後の49年昼夜11学部からなる新制大学としてスタートした。創立100周年を期に総合学術情報センターや理工学総合研究センターの設置など,拡充が図られた。現在,政経・法・文・文化構想・教育・商・基幹理工・創造理工・先進理工・社会科学・人間科学・スポーツ科学・国際教養の13学部,22研究科の大学院,学生数約4万人を擁する有数の総合大学である。
執筆者:大沢 勝
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1882年(明治15)に,大隈重信により設立された東京専門学校が前身。政治経済学科,法律学科,理学科および英学科を設置して開学。建学の理念を「学問の独立」,「学問の活用」,「模範国民の造就」とする。1890年に文学科を設置。1902年に早稲田大学と改称し,03年には高等師範部を設置。1920年(大正9)に大学令により設立認可され,政治経済学部,法学部,文学部,商学部,理工学部を設置。1949年(昭和24)に新制大学となる。学部・学科や大学院研究科の設置・改組などを経て,2016年(平成28)5月現在,13学部22研究科(専門職大学院を含む)からなり,学生数は5万1130人(通信教育課程含む)を数える。キャンパスは東京都新宿区,埼玉県所沢市,同県本庄市,福岡県北九州市に所在。世界最高水準の研究をめざしており,創造的な人材を育成する。世界各国の大学・教育研究機関と学術交流協定を締結しており,さらに英語によって学士号・修士号を取得するプログラムを開始するなど研究教育のグローバル化をめざしている。2014年度には文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援トップ型(タイプA)」に採択。2032年に創立150周年を迎えるにあたり,「Waseda Vision 150」を掲げ,「アジアのリーディングユニバーシティ」として「世界へ貢献する大学」であるための改革が行われている。
著者: 山本剛
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