生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣(あそみ)。奈良朝(710~)以前に活動した。「人麻呂歌集」歌に「庚辰(こうしん)年」(天武(てんむ)天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673~686)にすでに活動していたことが知られる。また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌(あすかのひめみこばんか)(巻2・196~198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。天武・持統(じとう)朝を中心に、文武(もんむ)朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686~697)に集中している。
[神野志隆光]
人麻呂の活動は天武朝に始まるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌(いわみそうもんか)(巻2・131~139歌)によって石見国(島根県)に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249~256歌、303~304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。なお、石見国での臨死歌とする「鴨山(かもやま)の岩根しまける我をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞(まくらことば)・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものと思われ、石見での死は信じがたい。
[神野志隆光]
歌人としての人麻呂の活動は、「人麻呂歌集」歌(『万葉集』中に364首)と、題詞に人麻呂作と明記するもの、いわゆる人麻呂作歌(延べ84首)とを通じてみることができる。「人麻呂歌集」は現存しないが、『万葉集』に取り込まれた形で知ることができ、天武朝から持統朝初めにかけて筆録されたとみられる。人麻呂作歌は、年時分明のものでは689年(持統天皇3)から700年(文武天皇4)にわたる。「人麻呂歌集」を人麻呂作歌に先行するものとして、両者をあわせて歌人としての人麻呂の全体像をみることができるのである。
歌人人麻呂の展開をみるうえで「人麻呂歌集」は重要であるが、注目されるのは、「人麻呂歌集」のなかで、歌の表記に変化があり、それが歌の発展と不可分だということである。つまり、助詞・助動詞を少なくしか表記しないもの(略体歌)と、より多く表記するもの(非略体歌)と、2類あるが、略体歌から非略体歌へと書き継がれたと認められ、その表記の展開とともに歌が叙情詩としての成熟を遂げていったとみることができるのである。より古い略体歌にはとくに民謡的な歌が多い。「打つ田に稗(ひえ)はしあまたありといへど択(えら)えし我(われ)そ夜一人ぬる」(巻11・2476歌)など。非略体ではそうした歌から脱却して、人麻呂独自の歌詞と叙情の境地とを開く。「塩けたつ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)がかたみとそ来(こ)し」(巻9・1797歌)など。
[神野志隆光]
人麻呂作歌は、このような「人麻呂歌集」のなかで人麻呂の遂げた展開を受け、これをさらに推進する方向でなされていく。人麻呂作歌のなかでもっとも早い作は、689年作とみられる近江荒都(おうみこうと)歌(巻1・29~31歌)であるが、その2首の反歌「ささなみの志賀(しが)の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(おほみやひと)の舟待ちかねつ」「ささなみの志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたもあはめやも」は、非略体歌の「塩けたつ」の歌のような歌い方のうえになされたことは明らかであろう。そうした歌い方を成熟させ、しっかりと自分のものにして方法化していくことで、前記のような歌は生み出されたのである。それは人麻呂の独自な歌調の定着でもあった。近江荒都歌の2首の反歌や、石見相聞歌中の反歌の1首「笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」(巻2・133歌)の、沈痛重厚で、心の昂(たか)まり・激情を渦巻くように投げかける調べはたぐいがない。人麻呂調というべきものである。
人麻呂作歌は、長歌を中心とする。84首のうち、長歌が18首、残りの短歌も36首まで反歌としてなされたものである。その多彩な内容は人麻呂を宮廷歌人ととらえる説もあるように、晴れの場での人麻呂の活動を想像させる。持統朝の宮廷が要求した、中国の詩に対抗できるような独自の文化としての歌ということにこたえてつくりだされていったのがこれらの長歌であったが、石見国から妻と別れて上京するときの歌という石見相聞歌に代表される相聞を主題とする長歌、草壁皇子(くさかべのおうじ)挽歌(巻2・167~169歌)、高市皇子(たけちのおうじ)挽歌(巻2・199~202歌)のような皇子たちの殯宮(ひんきゅう)に際してその死を悼み悲しむ荘重な響きをもつ挽歌など、新しい歌の境地がそこで開かれた。
たとえば、「やすみしし我が大君の 聞こしをす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内(かふち)と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太しきませば ももしきの大宮人は 舟並(な)めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆる事なく この山のいや高知らす みなそそく滝のみやこは 見れど飽かぬかも」(巻1・36歌)は、吉野行幸のときの作だが、枕詞・対句を駆使して重々しく華麗で、しかも緊張を失うことがない。比類ない歌いぶりであり、その歌調のみなぎりは、時代の精神を体現して生まれたといえよう。
[神野志隆光]
様式のうえでも複数反歌、複数長歌の構成などが初めて生み出され、表現のうえでも、多数の新しい枕詞が創出されるなど、人麻呂の果たしたものはきわめて大きい。人麻呂を通じて和歌史が転換するといっても過言ではない。大きく日本の文学史のうえでいえば、口誦(こうしょう)から記載への転換という点で人麻呂の位置をみるべきである。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換を歌において体現するのが人麻呂である。文学史にとってもっとも大きな、緊張に富んだ転換期であり、それを体現する歌人として人麻呂の文学的魅力は大きい。
なお、人麻呂の後代へ与えた影響は圧倒的に大きく、『万葉集』の時代にすでに模範として仰がれていた。奈良朝の代表的歌人である笠金村(かさのかなむら)や山部赤人(やまべのあかひと)は明らかに人麻呂の影響のもとに作歌し、大伴家持(おおとものやかもち)は「山柿(さんし)の門」とよんで彼を賛仰した。のちに歌聖といわれ、さらには歌神として祀(まつ)られるに至った。
[神野志隆光]
『稲岡耕二著『万葉表記論』(1976・塙書房)』▽『渡瀬昌忠著『柿本人麻呂研究 歌集編 上』(1973・桜楓社)』▽『橋本達雄著『万葉宮廷歌人の研究』(1975・笠間書院)』▽『伊藤博著『万葉集の歌人と作品 上』(1975・塙書房)』▽『渡瀬昌忠著『柿本人麻呂研究――島の宮の文学』(1976・桜楓社)』
《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量ともに《万葉集》最大の歌人で,さらにその雄渾にして修辞を尽くした作風は日本詩歌史に独歩する存在とみなされる。
柿本氏は《古事記》によれば第5代孝昭天皇の皇子の天押帯日子(あめおしたらしひこ)命を祖として,春日,大宅(おおやけ),粟田,小野などの氏と同族関係にあり,《新撰姓氏録》には敏達天皇代に家門に柿の木のあったことから柿本の名がおこったと記されている。姓(かばね)はもと〈臣(おみ)〉で,684年(天武13)の改姓において〈朝臣(あそん)〉となった。《万葉集》人麻呂作のすべてが〈柿本朝臣人麻呂〉と記されている。しかし人麻呂の名は正史にまったくあらわれない。ただ708年(和銅1)に従四位下で卒した柿本朝臣佐留(さる)の名がとどめられているが,人麻呂との関係は不明である。人麻呂について手がかりを提供するのは《万葉集》だけであって,それによれば前記のほかに,近江,瀬戸内海,山陰の石見(いわみ)での詠から,かれが比較的下級の官人として四国,九州,中国などへ遣わされていたこと,またその臨終の作〈鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ〉(巻二)の題詞から,人麻呂は石見で世を去り,歌の配列された位置により死期は709-710年(和銅2-3)とみられること,などが推定されている。なお同じ題詞に〈死〉の字が用いられているが,これは人麻呂の官位が六位以下であったことを示すものである。
人麻呂の作品は短歌1首のみの場合もあるが,多くは長歌と短歌が組みあわされ,数首の短歌が連作として工夫されるなど長大な構成を持つ。また表現技術についても対句や枕詞が修辞的に多用され,1句1語に推敲,彫琢の跡がとどめられている。これらは人麻呂以前にはなかったことで,かれが意識的な歌の技術者,その意味で日本最初の職業的詩人であったことを示すものである。《万葉集》の歌の部立(ぶだて)(分類)にしたがってその内容をみると,人麻呂の歌は大部分が雑歌(ぞうか),挽歌に属し相聞(そうもん)はやや少ない。雑歌は天皇,皇子の行幸,出遊にさいしひとつの賛歌として詠まれた場合が多く,〈大君は神にしませば〉とのこの時代特有の慣用句により王権の偉大さをうたい上げた作が目だっている(持統女帝の吉野行幸時の歌ほか)。しかしこの種の作が華麗な修辞を伴いつつも形式的空疎に陥りがちなのに対し,同じ雑歌でも近江の旧都を詠んだ作,軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)の安騎野(あきの)の狩りに際しての作は,つぎに引くように過ぎ去りゆくひとつの時代への思いが沈痛に語られ,人麻呂の一方の代表作をなしている。〈楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも〉〈東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ〉(ともに巻一)。さらに雑歌のうちの〈羇旅(きりよ)〉においても,〈玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ〉(巻三)のごとく独特な旅情の世界がひらかれた。挽歌作品は9編を数え,そのうちでもっとも問題性に富むのは,高市皇子(たけちのみこ)の死に際しての殯宮(ひんきゆう)挽歌であろう。その長歌は149句におよんで集中屈指の長編をなすが,特に亡き皇子の活躍する壬申の乱の戦闘場面は,日本古代文学に稀有の迫力と気宇を備えている。〈ささげたる幡(はた)のなびきは 冬ごもり春さりくれば 野ごとにつきてある火の 風の共(むた)なびくがごとく〉といった高潮した叙事には,過去の激動に対する共感と哀惜がこめられており,そこに人麻呂の詩心の核が存したとしてよかろう。相聞においては,石見国で妻と別れるときの歌が,〈笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば〉(巻二)の秀歌を含み著名だが,これらは普通の意味の恋歌ではなく,亡妻のために〈泣血哀慟〉して詠んだという挽歌と同様に,ひとつの物語歌としておそらく宮廷人士に披露されたものであるらしい。そこには古代宮廷詩人の隷属性の一側面がみえている。
総じて人麻呂の歌には,荒々しい混沌の気象が周到なことばの技術のもとにもたらされているとしてよい。近代歌人の斎藤茂吉はその歌風を〈沈痛,重厚,ディオニュソス的〉などと評したが,おそらくそうした特性は,人麻呂が口誦から記載へという言語の転換期を生き,両言語の特質を詩的に媒介,統一しようとした営みから生まれたと考えられる。潮のうねりにも比せられるかれの声調には原始以来の〈言霊(ことだま)〉の力が感ぜられるが,同時にその多彩な修辞には外来の中国詩文に触発された記載言語の技法が駆使されているからである。こうした一回的な言語史,文化史の状況はまた大化改新,壬申の乱を経ての律令国家体制の確立過程と重なっていた。前者が人麻呂文学の形式的背景をなすとすれば,後者はその内容を詩的に充電する契機として働いたであろう。
人麻呂の声名は万葉時代すでに,大伴家持により〈山柿(さんし)の門〉(歌を山部赤人,人麻呂に代表させたいい方)と称揚されたが,《古今和歌集》仮名序,真名序では〈歌仙(うたのひじり)〉としてまつり上げられるにいたる。以後,勅撰和歌集を中心とする宮廷和歌の世界でこの傾向が増幅され,平安末期には〈人丸影供(ひとまるえいぐ)〉という,人麻呂の肖像をかかげ香華,供物をそなえての歌会も行われた。鎌倉期以降の有心連歌(うしんれんが)の衆が無心連歌に対して〈柿の本〉と称したのは,優雅を本旨とする和歌の本宗として人麻呂を見ていたからだが,こうした堂上歌人の人麻呂受容はその詩的本質からはるかに遠ざかるもので,勅撰集,私撰集にとられた〈人丸〉作の多くは《万葉集》に典拠を持たない非人麻呂的な歌であった。おそらく〈和歌〉を宮廷の晴れの文学として聖化してゆく風潮が,最初の宮廷詩人たる人麻呂の像を肥大,転轍させていったものとみえる。〈和歌〉のこうした伝統のもとに,人麻呂の神格化や伝説化はその後の歴史を通してくり返されており,近年の人麻呂刑死説などもまたその埒内の産物と判断できる。
→万葉集
執筆者:阪下 圭八
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(芳賀紀雄)
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生没年不詳。万葉第2期の歌人。柿本朝臣は,和邇(わに)氏の同族。経歴なども不詳。「万葉集」に人麻呂作歌とあるものは長歌18首,短歌64首。年代判明歌中の最初の歌は689年(持統3)の草壁皇子挽歌,最後は700年(文武4)の明日香皇女挽歌。「石見にありて死に臨む時」の歌が残るが,石見国赴任は晩年でなく,伝説によって題されたものか。儀礼・羈旅(きりょ)・相聞(そうもん)・挽歌など各分野に歌があり,多くは宮廷の席で歌われたものらしい。ほかに「柿本人麻呂歌集」があり,680年(天武9)作と注する1首によれば,歌集歌は題詞に人麻呂作と明記する「作歌」以前の作と認められる。漢詩文の影響をうけ,はじめて文字によって歌を記しながら作っていった歌人で,その反省的意識から,歌形や対句・枕詞・序詞などの技法を完成し,流れゆく時間とせめぎあう新たな抒情を展開した。
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…平安時代の歌合の盛行は歌論の発達を促し,古今の優れた歌人に対する尊崇の念を強めた。すでに11世紀には歌仙として最も尊崇されていた柿本人麻呂の像を描かせることが始まっていたようで,12,13世紀には人麻呂の画像をまつって歌道精進を祈念する人麻呂影供(えいぐ)の歌会が盛んに行われている。古聖人の像を描くことは,古くは奈良時代に始まる釈奠(せきてん)での孔子像の例があり,その他紫宸殿の賢聖障子や888年(仁和4)に巨勢金岡が描いた詩聖の像などが知られる。…
…これは早世した孫建王(たけるのみこ)への挽歌(ばんか)である。万葉時代第2期に入ると柿本人麻呂という偉大な才能が登場して,短歌史は一挙に前進した。人麻呂は持統天皇の宮廷に仕えた人物と考えられているが,専門意識をもった最初の歌人として意欲的に作歌にとり組んだ。…
…その発生と展開についてはまだ定説がないが,短歌が私的・日常的な場を発生の場としたと推測されるのに対して,長歌は公的・儀式的な場を発生の場としたであろうこと,さらには,長歌の形式的な完成の時期は,口誦から記載へと文学史が展開していった時期であろうと考えられている。具体的にいえば,《万葉集》第2期の歌人柿本人麻呂が長歌の完成に決定的な役割を果たしたと見られるのである。人麻呂には149句に及ぶ《万葉集》最長のそれを含めて20首ほどの長歌があるが,形式,構成,表現,すべての面において整備され,前代のものとは一線を画している。…
…本質を異にする両者が混雑を生じたものか,本質を同じくする両者が別々に発達したものか,両説があるが,古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。柿本人麻呂は,古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり,新しい枕詞を作ったり,用言を修飾する枕詞を多用したりして,枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人であるが,その作品〈玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は,実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。なお,老・病・死をうたった山上憶良は,枕詞をほとんど使っていない。…
…〈熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉。(2)第2期を代表するのが宮廷詩人柿本人麻呂である。その作は長歌16首,短歌61首を数え,ほかに大半が彼の作とみられる《柿本人麻呂歌集》370首がある。…
※「柿本人麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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