1889年に開場、火災や戦災に遭うたびに建て直されてきた。1951年に開場した旧歌舞伎座は、戦後の歌舞伎公演の中心となり、老朽化のため2010年に閉場した。13年4月再開場の現歌舞伎座は高層のオフィスビルを併設。屋根の意匠「
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劇場。1889年(明治22)11月、東京市京橋区木挽(こびき)町三丁目(現中央区銀座4丁目)に、演劇改良の実現を目的として福地桜痴(おうち)が千葉勝五郎の資金を得て建設した。外観は洋風、内部は日本風3階建ての檜(ひのき)造り、定員1824名、舞台間口13間(23.60メートル)、直径9間(16.29メートル)の蛇の目回しをもち、規模・設備ともに日本一の偉容を誇った。ここで桜痴は演目、演出、観劇制度などに理想興行を目ざしたが、経営に失敗、翌年自身は座付作者にとどまり、経営は12世守田勘弥(かんや)に、ついで田村成義(なりよし)に移り、1913年(大正2)以後松竹合名社の大谷竹次郎にゆだねられた。1911年純日本式宮殿風に改築、1921年漏電により焼失、ただちに再建にかかったが、1923年関東大震災により焼失。1925年鉄筋コンクリート4階建て桃山風の豪華な近代的劇場として再建。1945年(昭和20)空襲により三たび焼失したが、吉田五十八(いそや)の建築設計で旧観を復して1951年1月新築開場した。定員2600名。舞台間口約27メートル。
[菊池 明]
第4期歌舞伎座は建て替えのため2010年(平成22)4月に閉鎖され、建物の意匠は踏襲したまま、第5期歌舞伎座を背後の29階建ての歌舞伎座タワーとともに2013年4月に開場。
[編集部]
『歌舞伎座編『歌舞伎座』(1951・歌舞伎座出版部)』
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東京の東銀座にある劇場。演劇改良運動を背景に,1889年(明治22)11月21日に開場。明治を代表する名優9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,初世市川左団次が常に出演し,日本一の劇場となり,以来歌舞伎を主体に上演し続けている。当初の建物は外観を洋式にしてあったが,純洋風の帝劇に対抗して1911年日本式宮殿風に改築,1921年焼失,25年1月外観を桃山風にして再建開場。45年5月戦災で再び焼失したが,51年復興,今日におよんでいる。総建坪3429坪(1万1316m2)余,舞台は間口15間(27.3m),収容人員は2600名である。経営は,はじめ福地源一郎(桜痴),千葉勝五郎相座元,1896年に株式組織になったが,1913年大谷竹次郎が相談役となり,翌年から松竹が劇場を借りて興行,31年には松竹に合併された。49年,戦後の復興に際して株式会社歌舞伎座が設立されて劇場を所有し,興行は松竹が行っている。
執筆者:阿部 優蔵
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(富岡亜紀子 ライター / 2009年)
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東京の劇場。1889年(明治22)11月,福地源一郎(桜痴(おうち))と出資者千葉勝五郎が京橋区木挽(こびき)町(現,中央区銀座)に建設。経営は安定せず,田村成義(なりよし)が参画して96年に株式会社となった。1914年(大正3)から松竹(まつたけ)合名社が実質的経営にあたり,31年(昭和6)に劇場も松竹(しょうちく)興行の所有となった。火災や震災で再建をくり返し,戦災でも焼失。復興に際し株式会社歌舞伎座を創立して建築物を所有し,経営は松竹が担当。2013年(平成25)には新しい建物が完成した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…その後,88年に岡野紫水らが日本演芸矯風会を組織し,さらに日本演芸協会へと改組しつつ,改良劇場建設に拍車をかけた。こうして89年11月,歌舞伎座が開場し,改良推進派の福地桜痴と団十郎が中心になった新史劇や新舞踊劇がすすめられた。しかし,演劇改良運動は,結局は欧化熱によって歌舞伎を改革しようという政策に発し,劇場の洋式化を実現する企てに終わったのである。…
…以後,中村座は86年に浅草鳥越町へ,市村座は92年に下谷二長町へ転出した。また1889年11月には,木挽町3丁目に歌舞伎座が新築開場した。外装は洋風,内部は和風の3階建てで,定員は1824,舞台間口13間,直径9間の回り舞台と,7間の蛇の目回し,さらに5尺(1.5m)幅の花道をそなえていた。…
…12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。演技空間の拡大とともに,観客席が著しく増大したことは,興行の営利を追求する意図の反映と考えられよう。…
※「歌舞伎座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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