小説家、劇作家、批評家。明治12年3月3日岡山県和気(わけ)郡伊里村穂浪(ほなみ)(現備前市穂浪)生まれ。本名忠夫。父浦二は村長、銀行取締役など歴任の大地主。弟妹9人の長男。幼時より病弱で死の恐怖からの救いを求める願望強く、1892年(明治25)『国民之友』でキリスト教を知り、以来1896年東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)入学まで隣村のキリスト教講義所や岡山市の薇陽(びよう)学院で、さらには内村鑑三(うちむらかんぞう)の著書などで聖書を熱心に学んだ。上京後も内村の講演にはときに病苦を押しても出席、1897年19歳のとき植村正久(うえむらまさひさ)の教会で受洗、1901年(明治34、この年文学科卒業)「棄教」するまで真摯(しんし)な教会員となった。他方、在学中『読売新聞』文学欄の合評会に出たり、市川団十郎・尾上菊五郎(おのえきくごろう)の歌舞伎(かぶき)に通いつめた。1903年読売新聞社に入社、1910年の退社まで、劇評・美術評・文芸時評・宗教記事等々に縦横にペンを振るった。作家としての処女作は『寂寞(せきばく)』(1904)だが、真に自然主義文学の代表的作家とみなされるのは1907年の『塵埃(じんあい)』をはじめとし、『玉突屋』や『何処(どこ)へ』『五月幟(さつきのぼり)』などによってである。無理想、無解決、幻滅といった当時の自然派の合いことばにふさわしい黄昏(たそがれ)の人生図が優(すぐ)れて描出されたからである。以来60年余、つねに文壇の第一線にたち、小説のみならず戯曲や批評などに彼の創造生活は絶え間なく続けられた。敗戦後も1949年(昭和24)など、71歳にして750枚にも及ぶ長編小説『日本脱出』(未完)を書くほどの旺盛(おうせい)さであった。
ところで、彼は『何処へ』以来死の年に至るまで人生虚妄の歌をうたい続けた作家、ニヒリスト白鳥とよばれた。理由は二つ考えられる。一つは幼時からに根ざす死の恐怖、人間いかに偉そうにしてもしょせんは死ぬということによる虚妄観、他は欲と欲とが無限に波立ち合う救いがたい人間世界は畢竟(ひっきょう)地獄図にほかならずとする人間実相観である。この二つがこもごも作用しあい彼の胸底深いところから絶えず吹き上げていたもの、それが人生虚妄の思い、濃密なニヒリズムだった。それゆえ、作品のほとんどがこうした死と欲より発する虚無感に彩られており、それは67歳で敗戦を迎えてからのエッセイにおいてとくにその冴(さ)えを示していた。
しかし白鳥における真は、さらに一歩踏み込んだところにあったことがとかく看過されている。それはともすると内なるニヒリズムに圧倒されながらも、人間が永遠に身を託す世界は現実を超えたところにあるはずというロマンティシズムといえるものを、彼がその虚妄観の裏側に絶えず強烈に潜ませていたことである。その意味から彼の臨終の際の信仰復帰の表明である「アーメン」は当然の帰結だったといえる。なお彼の文芸評論が大正末年以降独得な「私評論」として評論史に特筆されるユニークなものであったこと、および彼の戯曲にはたとえば『人生の幸福』(1924)のように、川端康成(かわばたやすなり)を「恐るべし天才白鳥」と感嘆させるほどのものが少なくなかったことなども銘記されてよい。昭和37年10月28日没。
[兵藤正之助]
『『正宗白鳥全集』全35巻(1983~ ・福武書店)』▽『大岩鉱著『正宗白鳥』(1964・河出書房新社)』▽『後藤亮著『正宗白鳥』(1966・思潮社)』▽『兵藤正之助著『正宗白鳥論』(1968・勁草書房)』▽『山本健吉著『正宗白鳥』(1975・文芸春秋)』
小説家。本名忠夫。岡山県の旧家の生れ。初期には白丁,剣菱,影法師,XYZほかの匿名を使っている。1901年,東京専門学校(現,早稲田大学)文学科を卒業,同校出版部に入る。この間,内村鑑三の感化を受け,植村正久の手で受洗したが,ほどなく教会からは遠ざかった。島村抱月の指導の下で《読売新聞》の〈月曜文学〉欄に批評を書いていたが,03年同社に入社,美術欄で気鋭の筆をふるう。04年11月,《寂寞》を《新小説》に発表したが,小説家として認められたのは07年2月《趣味》に書いた《塵埃》からである。幼少期からの生の不安を基底とする虚無的な作品傾向は,08年の《何処(どこ)へ》以下に続き,自然主義作家としてユニークな地歩を占めることになった。《徒労》《微光》(以上1910),《泥人形》(1911),《入江のほとり》(1915),《牛部屋の臭ひ》(1916)などの作品を残したが,生の倦怠や文筆生活への嫌悪から一時文壇を退いた。しかし1年足らずで復活し,《毒婦のやうな女》(1920),《人さまざま》(1921),《生まざりしならば》などの佳編を生んだ。戯曲にも手を染め,《人生の幸福》(1924),《安土の春》《光秀と紹巴》(以上1926)などで話題を呼んだ。一方,評論家としての活躍でも新領域を開き,《文壇人物評論》(1932),《作家論》(1941-42)としてまとめられたもののほか,《自然主義盛衰史》(1948)や《内村鑑三》(1950)などにすぐれた批評眼を見せている。死に近く,なお《今年の秋》(1959)などの佳編を書きつづけたが,臨終の床でのキリスト教への信仰告白が,この作家の生涯に対する新たな視点の設定をうながすことになった。画家の得三郎,国文学者の敦夫は弟。
執筆者:榎本 隆司
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明治〜昭和期の小説家,劇作家,評論家
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(平岡敏夫)
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1879.3.3~1962.10.28
明治~昭和期の自然主義の小説家・劇作家・文芸評論家。本名忠夫。岡山県出身。東京専門学校卒。代表作「何処(どこ)へ」「入江のほとり」「牛部屋の臭ひ」「毒婦のやうな女」「光秀と紹巴(じょうは)」「今年の秋」。文芸評論では「文壇人物評論」「自然主義盛衰史」が代表作。
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… ダンテの作品は,約言すれば,政治と文学との激しい葛藤のなかで生み出された。日本においては,明治時代から《新生》と《神曲》を中心に,かなりの翻訳と紹介が行われてきたが,その傾向を大別すると,第1は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの,第2は内村鑑三,正宗白鳥ら宗教的関心に基づくもの,第3は阿部次郎が築こうとした哲学的・倫理的傾向のもの,そして第4にダンテの文学を政治と文学の葛藤の角度から(とくに第2次世界大戦下の日本の状況と照らし合わせて)とらえようとしたもの(矢内原忠雄,花田清輝,杉浦明平ら)となる。《神曲》の翻訳としては,文章表現と文体に問題は残るが,最も原文に忠実で正確なものとして,山川丙三郎訳を挙げねばならない(1984年現在)。…
…正宗白鳥の初期代表作。1908年(明治41)1~4月に《早稲田文学》に発表。…
…正宗白鳥の評論。1932年7月,中央公論社刊。…
※「正宗白鳥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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