母性の生命健康を保護することを目的とし,不妊手術,人工妊娠中絶および受胎調節の実地指導について定める法律。1996年の改正で優生保護法から母体保護法へと改称された。
不妊手術とは,生殖腺を除去することなしに生殖を不能にする手術のうち命令をもって定められたものをいう(2条2項)。同法は,次のいずれかに該当する者に対して,本人および配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む,以下同じ)の同意を得て,医師が不妊手術を行うことを認める。(1)妊娠または分娩が母体の生命に危険を及ぼすおそれのあるもの,(2)現に数人の子があり,分娩ごとに母体の健康度が著しく低下するおそれのあるもの(3条)。このほかの場合に,故なく,生殖を不能にすることを目的として手術またはレントゲン照射を行った者は,1年以下の懲役または50万円以下の罰金に処せられる(28条,34条)。
人工妊娠中絶とは,胎児が,母体外において生命を保続することのできない時期に,人工的に,胎児およびその附属物を母体外に排出することである(2条2項)。人工妊娠中絶については,同法は,次のいずれかに該当する者に対し,本人および配偶者の同意を得て,指定医師が行うことを認める。(1)妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの,(2)暴行もしくは脅迫によってまたは抵抗もしくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの。指定医師とは都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師をいう。
優生保護法は,優生上の見地から不良な子孫の出生を防止することを目的の一つとし,ナチス・ドイツの遺伝病質子孫防止法に倣って1940年に作られた国民優生法にかわるものとして,1948年に制定された。その後1949年と52年の2回,大幅に改正された。制定当時,人工妊娠中絶は,本人および配偶者の同意のみによって行いうる(任意の人工妊娠中絶)と,本人および配偶者の同意に加えて優生保護委員会の人工妊娠中絶を行うことが母体保護上必要であるという審査決定を要件とする(審査を要する人工妊娠中絶)とに分かれており,人工妊娠中絶が許される場合も今日より限られていた。まず,1949年の改正によって,いわゆる経済条項の前記〈妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの〉が加えられ,妊娠の継続または分娩が〈経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある〉場合に審査を要件とする人工妊娠中絶が許されるようになった。さらに,52年の法改正では,優生保護審査会による審査の手続が廃止され,1人の指定医師の判断で人工妊娠中絶が行えるようになった。その結果,今日まで,同法の下,多数の人工妊娠中絶が広範に行われている。優生保護統計報告(1996年からは母体保護統計報告)によっても,人工妊娠中絶実施数は,1953年以降,55年の117万件を最高に連続9年間100万件を超え,1953年から83年までの総数は,2800万近い。その後減少したが,1996年の報告書でも33万8867件あった。実数はそれを上回るといわれる。それに対して,優生手術(1996年9月26日以降不妊手術)の実施件数は,1956年が最も多くて4万4485件,その後漸減して65年2万7022件,75年1万0100件,85年7657件,95年4185件,96年には3804件と少ない。人工妊娠中絶の理由をみると,1953年以降毎年,前記の母体の健康を著しく害するおそれのあることを理由とするものが99%を超す(95年を例にとれば99.9%)。また,優生手術は,98~99%が任意のものであり,手術理由は,99%が母体を保護するためであった。以上の事実は,優生保護法が不良な子孫の出生を防止する法律としてではなく,人工妊娠中絶を合法化する法律として機能してきたことを示す。そもそも同法は,戦後の混乱期における未曾有の人口増加に対して,有効な産児制限の手段である人工妊娠中絶を合法化し,危険なやみ堕胎をなくすために立法されたともいえる。このように同法の下で毎年大量の人工妊娠中絶が行われていることに対しては批判もあった。1972年から74年にかけては同法を改正して合法的人工妊娠中絶理由から〈経済的理由〉を削除するとともに,〈胎児条項〉を追加しようとする法案が提出され,82年にも〈経済的理由〉を削除しようとする動きがみられた。しかし,強い反対にあって,改正は失敗に終わった。けれども,現実の機能がどうあれ,優生保護法が戦前の国民優生法と同じく優生保護を目的とすることは,看過できない問題であった。
そこで,1997年3月には,らい予防法の廃止にともなって,本人または配偶者が癩(らい)(ハンセン病)疾患にかかり,子孫にそれが伝染するおそれのあるものに対して優生手術を認める規定と,本人または配偶者が癩疾患にかかっているものに対して人工妊娠中絶を認める規定が削除された。同年6月には,障害者の〈完全参加と平等〉の実現に向けた取組みの中で,名称が母体保護法に改められるとともに,優生思想に基づく諸規定を削除する改正がなされ,同年9月26日から施行された。まず,1条の法律の目的から,〈優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する〉ことを削除した。
〈優生手術〉については,第1に,その用語を〈不妊手術〉に改めた。第2に,〈審査を要件とする優生手術〉を廃止した。それは,遺伝性精神病,遺伝性精神薄弱,顕著な遺伝性精神病質,顕著な遺伝性身体疾患または強度な遺伝性奇型の者に対し,その疾患の遺伝を防止するために優生手術を行うことが公益上必要であると判断した医師の申請に基づいて,都道府県優生保護審査会が適当と決定した場合に行われるものであった。その場合には,本人および配偶者の同意を必要としなかった。第3に,精神病者または精神薄弱者に対する保護義務者の同意による優生手術を廃止した。第4に,次のいずれかに該当する者に対して,本人および配偶者の同意を得て,医師が優生手術を行うことを認める規定を削除した。(1)本人もしくは配偶者が遺伝性精神病質,遺伝性身体疾患もしくは遺伝性奇型を有するもの,または配偶者が精神病もしくは精神薄弱を有しているもの,(2)本人または配偶者の4親等以内の血族関係にある者が遺伝性精神病,遺伝性精神薄弱,遺伝性精神病質,遺伝性身体疾患または遺伝性奇型を有するものである。
人工妊娠中絶については,次のいずれかに該当する者に対し,本人および配偶者の同意を得て,優生保護指定医師が行うことを認める規定を削除した。(1)本人または配偶者が精神病,精神薄弱,精神病質,遺伝性身体疾患または遺伝性奇型を有するもの,(2)本人または配偶者の4親等以内の血族関係にある者が遺伝性精神病,遺伝性精神薄弱,遺伝性精神病質,遺伝性身体疾患または遺伝性奇型を有しているものである。
また,優生保護の見地から結婚の相談に応じ遺伝その他優生保護上必要な知識の普及向上を図るとともに,受胎調節に関する適正な方法の普及指導をする優生保護相談所を廃止した。
→妊娠中絶
執筆者:石井 美智子
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1948年(昭和23)に制定された優生保護法のうち、優生思想に基づく部分を削除する改正を行い、題名を母体保護法に改めたもの。1996年(平成8)9月施行。優生保護法は、優生学的に劣悪とされる遺伝を防止する目的の不妊手術を認めるとともに、人口急増対策と危険なヤミ堕胎の防止のため人工妊娠中絶の一部を合法化したものであり、その内容の是非をめぐってはそれまでも幾度か議論があった。優生思想に基づく部分は障害者差別となっていることなどから、障害者団体等からその改正が強く要望されており、人工妊娠中絶に関する部分はリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の観点から、女性の身体についての自己決定権の問題として、女性議員や市民グループから高い関心が寄せられていた。1996年の改正はこのうち、優生思想に基づく部分の改正を行ったものである。(1)法律の目的から、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」を削る、(2)「優生手術」を「不妊手術」とし、遺伝性疾患等の防止のための不妊手術に関する規定や精神障害者に対する本人同意によらない不妊手術に関する規定を削る、(3)人工妊娠中絶の規定から遺伝性疾患等の防止のためのものを削る、(4)都道府県優生保護審査会および優生保護相談所を廃止する、などがおもな内容。しかし、母体保護法という題名は不妊の女性や子供を産まない女性を除外する、人工妊娠中絶についての配偶者の同意の条項など、性と生殖の権利にかかわる部分の改正が行われなかったなど、不満の声も少なくない。
[浅野一郎・浅野善治]
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(安達知子 愛育病院産婦人科部長 / 2007年)
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