翻訳|democracy
社会を構成する人々が、直接もしくは選挙で選ばれた代表者を通じて全体に関わる決定をする政治形態。独裁と対極を成す。起源は古代ギリシャで、近世の市民革命を経て発展、国民主権や基本的人権の尊重といった原理を確立していった。近年は経済格差や社会の分断の広がりから民主国家への信頼が揺らぐ一方、強権国家の躍進が目立っている。
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民主主義という言葉は,現代では,あらゆる政治的行動や意図の正当化を訴える理念として,またそれらを評価する基準として,政治体制や信条の差異をこえてほとんど普遍的通用性を獲得している。しかし,その反面で,今日,民主主義の具体的内容として何が確実な合意であるかについては,必ずしも明らかではない。民主主義のこうした言葉としての普遍化と意味の多様化は,現代世界,とりわけ第1次大戦以後のことである。
民主主義,すなわちデモクラシーとは,〈人民の権力〉を意味する古代ギリシア語のdēmokratiaを語源とし,それがラテン語を経由してヨーロッパ各国の近代語の中に受け継がれたものである。それは本来,君主制,貴族制とならんで国家の統治形態の一形式を示す言葉,すなわち民主制であり,その原理は前5~前4世紀のアテナイにみられたように,政治的共同体(都市国家)の重要な決定には参政権をもった市民全員が参加すること,公務は抽選で全員が負担すること,および共同体防衛の義務を全員が負うことであった。常設の官僚組織は存在しなかった。しかし,この民主制への評価は,平等でもっとも正義にかなうものとする肯定的立場と,反対に,民衆の欲望の解放と無政府状態,さらにその民衆の扇動者,すなわち僭主の支配をもたらすとする否定的立場とが最初から対立していた。この論争でプラトンは,貴族制を擁護して明確に否定的立場をとり,アリストテレスもまた若干の留保付きながら同じ立場をとった。このように,民主主義を統治の一形式ととらえ,しかもそれを否定的にしか評価しないという考え方は,その後近代にいたるまで,ヨーロッパ各国の統治構造が例外なく王政的ないし貴族制的であった事実と対応して,少なくとも18世紀末まで,ほとんど揺るぎのない共通の了解であった。たとえば,18世紀中ごろにD.ヒュームが,統治の基礎を無定見な人民の同意に求めることは,結局,専制への道を開くと論じ,またモンテスキューが,民主主義を作動させる原動力は人民の徳性にあると論じながら,しかもそうした徳性は少なくとも同時代には存在しないと判断したことなどは,いずれもこうした了解の例証にすぎない。今日みられるように,民主主義がプラスの価値として自明化したのは,19世紀中を通じて戦われた,それまで政治の世界から排除されてきた民衆による権力参加,または権力奪取の激烈な運動と,その帰結である20世紀前半における各国での普通選挙制実現以後のことである。この過程で,民主主義という言葉は,最初はむしろそれら民衆運動を否定する伝統的語法で用いられ,その中から,しだいに戦う民衆の自己表現へと転化していった。その展開の様相は,アメリカとヨーロッパではかなり異なっていた。
近代において,民主主義が強く意識されはじめたのはアメリカ独立革命およびフランス革命である。そのいずれにおいても,イデオロギーのレベルに先行して事実のレベルでの民衆エネルギーの解放があったが,その意味を敏感に感じとって,対抗の理論武装を急いだのはまず支配層であった。アメリカでは,独立が達成され,連邦憲法制定を中心とする新国家建設が課題となった1780年代,〈民主主義の行過ぎ〉を警戒する声が大きくなっていった。そして,下院に表明される民衆の発言力を抑制する意図で,厳密な三権分立制がとられた。理論においても,連邦憲法起草者の一人J.マディソンは,〈人口数の少ない人民によって構成され,全員がみずから集会し統治する純粋民主制〉に対して,〈代表〉による統治のほうが,連邦という,広大な領域を包含する能力と,より優れた統治者を調達する可能性をもち,それによってのみ国内の党派的分裂は克服されるであろうと主張し,そうした彼の立場を共和主義republicanismと呼んだ。ここでマディソンは,大規模社会における民主主義の実現可能性と民衆の自治能力という,近代民主主義理論にとって根本的な二つの困難を問い,伝統に従ってそれを不可能として,代りに,選挙されたより良き少数者による統治を主張したわけであるが,こうした統治の概念は,かつてアリストテレスが貴族制の特質とし,同時代においても近代保守主義の教祖E.バークが主張した代表理論であった。バークはその後,フランス革命に際して,フランス国民議会の行動は文明そのものの破壊行為であり,〈完全な民主主義とはこの世における破廉恥のきわみ〉と断じた。
しかし,ここでマディソンが民主主義の対立原理として訴えた概念が,貴族制でも貴族制と民主主義との混合体制でもなく,〈共和主義〉だったことは重要である。それは単に,アメリカには初めから制度としての貴族が存在しなかったからだけではなく,より積極的に,植民地時代以来,タウンシップと呼ばれる小行政単位で,地主を中心に直接民主制的色彩の濃い自治(タウン・ミーティング)が行われ,その原理がしばしば共和主義と呼ばれていたという事実が存在したからである。しかもこのタウンシップの自治は,合衆国憲法修正第2条として今なお生きつづけているように,ギリシアの民主制にも似て,武装人民の自治であった。民兵主義,すなわち常備軍反対論は,アメリカ共和主義の中心教義であった。このアメリカにおける〈共和主義〉シンボルの重要性は,歴史上,〈ジェファソニアン・デモクラシーJeffersonian Democracy〉と呼ばれ,一時代を築いたT.ジェファソンその人が,みずからの立場を,決して民主主義といわず共和主義と呼んだことにも示されている。しかしまた彼は,マディソンのように共和主義を,民主主義の貴族主義的修正とは考えずに,君主制や寡頭制と対立する,むしろ強制委任に近い権限の制限を受けた代表者による統治と考えていた。このことはマディソンあるいは彼も含むフェデラリスツの意図にもかかわらず,共和主義という概念が,最初から民主主義のイメージを含んでいたことを意味している。実際,同時代のイギリスでは,共和主義は民主主義とほぼ同義の,支配層のもっとも嫌う言葉であった。《コモン・センス》(1776)を書いてアメリカ人に独立の意義を教えたイギリスの急進主義者T.ペインが,《人間の権利》(1791-92)の中で,アメリカの代表制こそ,アテナイの民主主義を大規模社会で,しかもより完全に実現させた,まさに共和主義の真髄である,と手放しに賞賛できたのもこのためである。
19世紀に入りアメリカでは,〈共和主義の宮廷〉という言葉に象徴される東部共和主義文化の貴族主義化があり,これに対して,独立農民の立場から,アメリカの理念の再純化としてrepublican democracyまたはdemocracyが新たに唱えられ,1828年大統領選挙におけるA.ジャクソンの圧勝とともに,〈ジャクソニアン・デモクラシーJacksonian Democracy〉の時代を迎える。この時代に,宗教的立場のいかんを問わない白人成年男子普通選挙制が,従来の西部各州から全国に拡大され,参加と自治の原理がさらに確立された。そしてこのことは,1830年代初めにアメリカを旅行したフランス人貴族A.deトックビルを驚かせ,近代民主主義論の不朽の古典となった《アメリカにおける民主主義》(第1巻1835,第2巻1840)を書かせることとなった。ここでトックビルが見たものは,大規模社会では民主主義は絶対不可能とするまさに自明の伝統的観念が,マディソンやペインの理解とは異なった意味でもはや妥当しないこと,すなわち,フランスにおいては封建遺制の抑圧に対する戦いのイデオロギーとして不可避的に力による抵抗を意味しがちな民主主義が,ここでは社会形成原理として立派に作用していることであった。トックビルによれば,アメリカではタウンシップの自治において,フランスでは相互に排撃しあう自由と平等が調和し,人々は自分の住む共同体に深い愛着を抱いている。フランスでは〈行政的中央集権〉が生活のすみずみまで支配して自由を抑圧しているのに対して,アメリカでは州の力は弱く,行政的には地方分権である。同時に,連邦憲法の下に,権限を注意深く制限された,しかしその範囲内では強力な中央政府が存在し,それによって,大規模国家の存続と繁栄に不可欠な〈政治的中央集権〉が実現している。この憲法はまた,人民の権力が陥りがちな自由の乱用と多数者専制を抑制する役割も果たしている。
このようにトックビルは,地方自治の原理と連邦制の巧みな,しかしまた歴史的に多分に幸運な結合の中に,アメリカ民主主義の条件をみたのであるが,こうした彼の分析の卓越性は,その根底に,一つの優れた文明史的視点があったことである。すなわち彼は,人間生活全面にわたる諸条件の平等化が,中世にまでさかのぼる歴史の不可避的方向性であり,その発展はすでにフランス革命以後決定的段階を迎えていると考えていた。そして,この歴史的必然としての民主主義と彼の愛する自由の理念との調和を模索していたが,その解決がアメリカ民主主義にあると判断したのである。もちろん彼はアメリカで,世論という形での多数者の少数者抑圧,人間の画一化,精神の凡庸化,実利主義,落着きのなさ,そして一見,市民の要求に奉仕するようで,実は彼らを操作しようとひそかに忍び寄る〈巨大な後見的権力〉など民主主義の陥りやすい危険もまた存在することを認めた。それにもかかわらず彼は,古代ギリシアとはもはやまったく異なる,近代社会における不可避の事実としての民主主義の将来への希望を,民衆の平和主義とともに,アメリカに見いだしたのである。
1830年代以後アメリカでは,多くの人々が,民主主義をアメリカ国民文化を象徴する理念にまで高めようと試みた。しかし,その道は決して平たんではなかった。最大の困難は奴隷制であった。奴隷解放論争において特徴的なことは,リンカン大統領も含めて解放論者の側に,自由,正義,人道への訴えはあっても民主主義への訴えが必ずしもなく,むしろ奴隷制擁護論者の側に,アリストテレスをまねた,自然的優者間の自由・平等体制としての共和主義と民主主義という主張がみられたことである。しかし,民主主義の国民的理念化の努力は南北戦争後も続けられ,W.ホイットマンの《民主主義の展望》(1871)を生み出すこととなった。ホイットマンは,R.W.エマソン,H.D.ソローらいわゆる超越主義者(トランセンデンタリズム)の影響を受けながら,自由,平等,自治などに加えて,真の人格の発展,絶対的良心,愛のある同僚精神などを民主主義の精神原理の中に加え,この理想主義的民主主義概念を,南北戦争によって社会原理としては破産に瀕したピューリタニズムに代えて,新しい統一アメリカの理念にしようとした。彼の期待したこの理念の担い手は中産階級,勤労階級および女性であった。第1次大戦への参戦にあたって大統領ウィルソンが,1917年4月,参戦要請の教書の中で,世界に先駆けてこの戦争を〈民主主義のための戦い〉と規定できたのも,こうした伝統があったためである。しかし,そのアメリカ民主主義も,南部諸州では南北戦争後与えられた黒人選挙権を世紀末までに再び次々と剝奪した。公民権運動によってそれが回復するのは1950年代以降のことである。
19世紀ヨーロッパにおける民主主義概念の展開は,アメリカとは際立って対照的である。フランス革命以後19世紀末まで,ヨーロッパのどの国でも,民主主義は,当初は主として旧貴族や地主,後には資本家という支配層と対立する民衆の戦いの言葉であった。ヨーロッパ各国で成年男子普通選挙制が実現したのは,フランス(1848)を除いていずれも20世紀に入ってからである。まず,1789年の人権宣言も含めて公的文書では決して民主主義をうたっていなかったフランスで,1794年ロベスピエールがフランス人に対して,〈世界史上初めて真の民主主義を樹立すべき人民〉という呼びかけを行った。彼はモンテスキューに従って,民主主義の条件は人民の徳性にあると考え,フランス人民にはその徳性があると信じた。ロベスピエールにおいても民主主義と共和主義は同義であった。彼はまた,みずからをJ.J.ルソーの弟子と意識していた。そしてルソーの《社会契約論》(1762)が,以後人民主権論と民主主義の聖典と仰がれるようになったのは事実であるが,しかしロベスピエールを含めてこの時期の革命指導者たちが,《社会契約論》を,フランスという大共和国の構成原理としてどこまで真剣に考えていたかは必ずしも明らかではない。
というのも,ルソー自身は,民主主義を,ただ主権の執行機関としての政府の一形態としてのみ考えたばかりでなく,主権は代表されえないとして代議制を信じず,しかも伝統的想像力の中にとどまって,住民の自治を中核とした平等な理想共同体は農民的小国家以外には不可能と考えていたからである。そして,こうしたルソーのむしろ断片的受容にみられるように,この時期のフランスでは,民主主義という言葉は,解放の希望を表す言葉ではあっても,建設の原理を具体的に示す言葉ではなかった。
19世紀前半に民主主義を国家の新しい積極的な制度論原理にしようと試みたのは,J.ベンサム,J.ミル(J.S. ミルの父)の2人のイギリス功利主義者であった。まずベンサムは,世紀初めに書かれた《憲法典》で,人民主権の立場から,婦人も含めた普通選挙制を主張した。彼は,人間社会の実現すべき価値である最大多数の最大幸福を目的とも結果ともできる政体は民主主義だけであると考えたが,同時に,外敵防衛に必要な力を結集するためにも,また国民の大多数がつねに政治にかかわるのは事実上不可能であることからしても,この民主主義は代議制民主主義でなければならないとした。そして貴族院を廃して一院制議会とし,しかもこの議会が腐敗して〈邪悪な利害〉をもたないために,議員の任期を1年間という短期にするよう主張した。ところで,こうした代議制民主主義が有効に作動するためには,その前提として,選挙民各自が自己の利益および最大多数の最大幸福について正しい知識をもち,両者を調和させることができなければならない。J.ミルは,《政府論》(1824-25)でベンサムとほとんどすべての点で一致したが,さらに家庭教育,技術教育,政治教育の3段階で国民の知識と賢明さ,自制心,正義および思いやりの心を養うことを主張した。ただし2人の功利主義者の議論には,選挙された代表の行動は選挙民の意思に細部まで拘束される代理であるのか(強制委任),それとも,より良い知性によって国民全体を代表するのか(一般代表)という重要な論点への言及がない。その理由は2人とも,人間の利益や幸福とは開明された知性の持主ならばかなり同質のはずと考え,その実現を中産階級に期待したからであった。
民主主義概念の歴史にとっても1848年は重要な年であった。それまで民主主義は地主支配層に対するブルジョアジーまたは中産階級の戦いの言葉であり,しかも必ずしも多用された言葉ではなかった。すでに1830年から,新しい支配層としての中産階級の合言葉は自由または自由主義であった。そしてこの変化に対応して,以後民主主義という言葉は,中産階級に対する,より下層の職人や労働者の戦闘性のシンボルとなっていった。この変化は,早くも1830年代末に,イギリス労働者の最初の自己解放運動であるチャーチスト運動の中に民主主義を名のる団体が現れたこと,二月革命の最中にフランスで,より人民的な民主主義という意味で〈社会民主主義〉という言葉が用いられはじめたこと,同じ1848年のドイツ革命でも各地に民主主義を称する団体が生まれたことなどの中に現れている。マルクスが《共産党宣言》(1848)の中で,〈労働者革命の第一歩は民主主義を戦いとることである〉と述べたのもその一つであった。
これらの運動は,いずれも民主主義とともに正義を唱えて大衆の政治参加を強く主張し,普通選挙権を求める点で一致していたが,こうした具体的要求を掲げた労働者の戦闘性は,単に支配層ばかりでなく伝統的な価値観一般に対しても深刻な衝撃を与えずにはいなかった。たとえばイギリスで,T.カーライルは,産業化による都市労働者の物質的・精神的貧困に深い同情をもちながらも,大衆の自治能力をどうしても信じられず,チャーチズムを批判して〈民主主義によってかち取られるものは空虚以外の何物でもなく〉,また普通選挙権とは〈国家的おしゃべり大会に討論選手の2万分の1を送り出す権利〉にすぎないとして,大衆にとって真に必要なものは精神的にも物質的にも力ある貴族の指導であるとした。産業化が破壊した古き良き社会と従順な民衆を愛して民主主義に反対したのは,C.ディケンズも同じであった。またカーライルなどとは異なって,自覚した民主主義者として自由と進歩を信じ,男子普通選挙権だけでなく婦人参政権も主張したJ.S.ミルですら,トックビルの影響の下に,選挙民大衆の知性の低さ,集団的凡庸,世論と多数者専制の危険を強調し,《代議政治論》(1861)の中では,選挙制度のくふうによって知的エリートの当選を確保するよう主張した。それはバーク的な一般代表理論への接近にほかならなかった(国民代表)。
しかしまた,民主主義の歴史的不可避をいち早く洞察した支配層が,むしろ民主主義シンボルを先取りして権力基盤の強化を図ったこともあった。はやくも1830年代初期のイギリスで,後の首相たる若きB.ディズレーリが,イギリス社会は完全な民主的社会であり,しかもその民主主義はフランスとは異なってもっとも高貴な民主主義であると称して,貴族と労働階級による中産階級の挟撃を企てたこと,国民投票によって帝位についたナポレオン3世が,みずからの権力を〈国民の民主的精神〉によって正当化しようとしたことなどがそれである。しかし,全体的には19世紀を通じて,ヨーロッパでは民主主義概念をめぐる意見の激しい対立が解消されることはなかった。世紀末のイギリスで大きな影響を与えた理想主義国家理論家T.H.グリーンが国民の参政権の理論的基礎を個人人格の完成に求めながら,しかも民主主義という言葉は慎重に回避しとおしたのは,この意味で象徴的である。
20世紀に入ると,民主主義概念をめぐる問題状況は一変する。世紀前半に各国が相次いで普通選挙を実施したことにより,民衆の政治参加要求としての民主主義は少なくとも形式的には完成した。それは政治権力の基盤の未曾有の拡大であり,かつては民衆の戦いのシンボルだった民主主義は,今やあらゆる政治権力者が自己の地位と政策の正当化を訴えるシンボルへと大転換をとげた。いずれも国民の総力戦となった二つの世界大戦が,政治権力にとって民主主義シンボルの重要性をさらに促進することになった。しかも,こうした国民の権利としての政治参加は,立法,行政への国民の具体的要求とそれを実施する国家機構の相互循環的拡大をもたらさずにはいなかった。そして,このような民主主義の噴出は,時には民主主義の無目的性とも無秩序性とも受けとられ,とくに秩序を重視する立場からは,民主主義は社会的退化であるとする懐疑がもたれることもあった。後者の悲劇的極限は,〈ゲルマン的民主主義〉を唱えて民衆の政治参加を最大限に利用しながら,ついには指導者原理によって民主主義を完全に葬り去ったヒトラーとナチズムであった。
20世紀における民主主義のもう一つの問題は,ロシアのボリシェビキ革命(1917)をきっかけとして,相互におよそ異質な二つの民主主義概念が生まれてきたことである。この革命の指導者レーニンは,革命前夜に書いた《国家と革命》(1917)の中で,とくにドイツ社会民主党を念頭におきながら,普通選挙権要求を〈小ブルジョア的民主主義〉〈日和見主義〉として非難し,ボリシェビキ革命とその後にくるべき国家こそ〈もっとも完全な民主主義〉であると宣言した。レーニンは,この完全な民主主義も,それが国家であるかぎりいずれは〈死滅〉するであろうと予言したが,その後の歴史で実現したのは国家の死滅ではなくて,ソビエト社会主義における共産党一党支配の永続化であった。それは,19世紀においては民主主義の中心原理と考えられていた自由と平等のうち,レーニンおよびスターリンが強調したように,平等に圧倒的力点をおき,自由をブルジョア的として批判する体制であった。第2次大戦後に東ヨーロッパ諸国で公定のイデオロギーとなった人民民主主義も,この原理の外に出るものではなかった。
これに対して,とくに戦間期西欧では,ボリシェビズム批判を意識し,自由と平等の調和をめざして民主主義を国民的統一の原理とするための努力が多くなされた。その理論には,着目する問題の性質に応じて二つの型がある。その1は,民主主義を狭義の政治社会の組織原理として論ずるもので,たとえばワイマール共和国時代のH.ケルゼンにみられるものである。ケルゼンは《民主政治と独裁政治》(1929)の中で,民主主義とは社会における法として支配する意思の形成手続に社会成員の最大限が参加することであり,また,この意思に拘束される指導者が,そのメンバーの中から自由な競争によって選出されることであるとした。彼はボリシェビズムを民主主義とは認めなかった。民主主義の特質を,とくにボリシェビズムやナチズムと対比して指導者選出における公開自由競争に求めるのは,オーストリアの経済学者でケルゼンと同じくアメリカに亡命したJ.シュンペーターが《資本主義・社会主義・民主主義》(1942)で強調したところでもあった。民主主義とは,決定の内容であるよりもむしろそれにいたる方法であるとするシュンペーターの考え方は,今日でもR.ダールその他のアメリカの民主主義理論に強い影響を与えている。
戦間期西欧における西欧民主主義理論のもう一つの型は,民主主義をむしろ非政治的側面も含む共同体としての社会全体の精神原理とするものである。たとえばイギリスのA.D.リンゼーは《民主主義の本質》(1929)において,〈民主主義は必ずしも同意による政治ではなく,また代議制はたんに民衆総会の範囲を拡大する手段ではなく〉,もっと積極的に〈討論と集いの意識〉を通じて人々が〈共同思考〉し,〈共同活動の原則〉を見いだすことであるとした。これは,決定そのものよりそこにいたる方法を重視するという意味では第1の型の理論と共通している。リンゼーはこの討論の過程を担う単位として,〈近代民主主義社会に無数に存在するあらゆる種類の自発的小団体〉を重視したが,そこには,古典古代民主主義の経験を何とかして現代に回復しようとする意図があった。また彼は,そうした討論が合理的に行われるための条件として,ケルゼンと同じく〈あらゆる人々の正邪についての見解はすべて同価値であるという原理〉をあげたほか,一定の教育水準,各集団間の文化的同質性などをあげた。こうした諸点は,同時代のもう一人のイギリス政治哲学者E.バーカーにおいても共通であるが,バーカーはとくに狭義の政治理論に集中し,政党の世論形成機能,および選択さるべき代表者の提示機能を重視した。
東西二つの民主主義概念の対立のみならず,西欧世界内部においてすら,今日でもなお確立した民主主義概念は存在しないし,これからも存在しないであろう。そもそも民主主義とは参加(政治参加)なのか抵抗なのか,仮に参加だとしても,民主主義はそれを支える特定の文化なしに実現可能か否か,一般に現状での参加は不十分であって,より多くの参加なしには真の民主主義とはいえないのではないか,いや政治過程への人々の活発な参加はむしろ端的に全体主義に帰着するのではないか,民主主義の統治能力は信頼しうるのか,さらにまた,国際間の問題を考えてみれば,かつてトックビルが期待したように,民主主義は必然的に平和主義をもたらすであろうか。民主主義にとって自治の実践の重要性を指摘した,現代民主主義論最大の古典の一つである《近代民主政治》(1920)の中で,J.ブライスは,〈民主主義は国際関係を改善し,平和を確保する点に業績が乏しかった〉けれども,それでも,大戦の〈禍害の責を負うべきは民主政治ではなく〉,責任は〈人間性における欠陥〉や〈傍若無人な軍事的野心〉や〈ナショナリズムの熱情〉にあると述べた。しかし,果たして安心してそういいきれるであろうか。むしろ,二つの大戦とその後の歴史は,民主主義とナショナリズムが互いに促進しあう関係にあったことを裏書きしてはいないだろうか。もしそうだとするならば,今後民主主義理論は,国境を越えた人類の連帯のためにどのように発展させられるべきであろうか。こうした問題のすべてについて一貫した,しかもあらゆる人々が合意する解答が与えられることはありえないであろう。にもかかわらず,同じ書物の結びで彼が指摘しているとおり,〈期待は十分には達成されなかった〉としても,やはり〈実験は失敗しなかった〉のであって,その意味で民主主義という言葉が何らかの別の言葉に取って代わられることは,見通しうるかぎりでの将来にはありえないであろう。
→世界政治
執筆者:半沢 孝麿
日本の民主主義の起源は,明治維新における自由民権運動にまでさかのぼることができよう。1874年の民撰議院設立建白に始まり,国会開設請願運動を経て,自由,改進両党の結成にいたる自由民権運動は,明らかに国民の政治参加の拡大をめざす民主主義運動であり,運動の目標には国民主権確立の要求も含まれていた。しかし,明治憲法の制定によって,天皇制絶対主義が確立されたため,民主主義のある限られた一部分が天皇制国家の枠内で辛うじて存続しえたにすぎない。憲法の条文に不十分ながらも〈臣民の権利〉の保障が掲げられていたことや,民選による議会が設けられたことは,明治憲法の民主的な要素といえよう。しかし,日常的道徳規範を天皇の名において宣布した教育勅語に象徴されているように,天皇制国家は人間の内面をも支配しようとする国家であった。そこでは,政治的支配者は同時に道徳的支配者であり,国民は政治的に無力とされていただけでなく,道徳的にも無力とされていた。道徳的自律性を承認することは,自律的個人を形成する前提であるから,ここには自律的個人を基礎とする自発的秩序形成の展望はまったくない。いいかえれば,国民主権の可能性は原理的に否定されていたといえる。もちろん,明治憲法下においても,権力の運用を民主的に行うことは可能であった。吉野作造の《憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず》(《中央公論》1916年1月号)を契機とした民本主義論争に象徴される大正デモクラシーは,明治国家が許容する範囲内ではもっとも民主的な政治のシステムであった。そして,民本主義が力説したのは,〈民衆による〉ではなく,〈民衆のために〉政治権力を運用することであった。しかし,大正デモクラシーが軍部の台頭の前になすすべもなく後退する過程で,国民の抵抗運動がほとんど現れなかったことは,大正デモクラシーの限界を如実に示すものであった。
第2次大戦後の占領軍の〈民主化〉政策は,明治憲法体制を解体し,日本の民主化を決定的に推進した。しかし,本来自律的に形成されるべき民主主義が,外から他律的に推進されたことは,それ自体すでに日本の民主主義に大きな制約を課するものであった。とくにアジアにおける冷戦の激化とともに,占領軍の〈民主化〉政策が早期に転換したことは,国民の意識の変革が十分に行われないうちに,民主化に対する反動を開始させることになった。そのため,日本の民主主義は,制度的にはともかく,理念的には十分に定着しているとはいい難い。もともと民主主義の理念は,人民による秩序の自発的形成を意味している。しかし今日の日本には,秩序は〈お上〉によって与えられるものであり,われわれはそれに従うだけという古い秩序観の持主もまだ少なくない。また,新しい意識の持主にも自発的に秩序を作ろうとする志向性はきわめて乏しい。そこでは,私生活にひきこもり,〈パーミッシブネス(何でも許されるというほどの意味)〉を受け入れる傾向が支配的であり,そもそも社会生活の客観的ルールを自分たちでつくろうとする姿勢が欠けているのである。
確かに,今日の日本は制度的には民主主義に依拠しているといわざるをえない。首相やそれを支える多数党が国民を支配しうるのは,まさしく国民の支持に基づいているからであって,天皇の信任に基づいているのでも,あるいは彼らが伝統的に支配身分に属しているからでもない。日本の政治が国民主権を前提としていることは,だれもが承認せざるをえないであろう。もちろん,こうした政治的民主主義にも多くの欠陥がみられることは確かである。とくに,選挙運動は候補者が一方的に有権者に働きかける形になっており,一般の有権者が自主的に行動する余地はきわめて乏しい。また,投票権を権利とみるよりは義務とみる人も依然として少なくない。農村部の高い投票率が,こうした人々によって維持されてきたことは明らかであろう。ただ,それにもかかわらず,日本の民主主義が,保守政党の長期安定政権という形においてではあれ,相対的に安定した統治権力を成立させてきたことは否定できない。問題はむしろその裏側にある。保守政党による統治は,利益配分,とくに経済的に発展の遅れた地域や階層への利益供与によって,有権者の支持を動員することで維持されてきた。
ここにみられるのは,利益誘導型の民主政治であり,国民の受益者化がその安定条件である。その結果,一方では〈大きな政府〉の弊害が露呈され,他方では利益配分に長じた政治家による政治倫理の無視が横行する。古来,民主主義を論じた人々は,人民が何らかの徳性をもつことが,その存立条件であるとしてきたが,日本の民主主義においても,こうした条件が切実に必要とされている。そのなかでもっとも重要なのは,自主的な紛争解決と自発的な規範形成に必要な自律性の確立であろう。利益政治の弊害を断ち切るためにも,自律性に根ざした自己抑制能力の向上が必要とされることはいうまでもない。自律性の確立は何よりもまず家庭および学校での教育に期待せざるをえないが,自主性の抑圧に懸命な管理主義的傾向の著しい教育のもとでは,その可能性はきわめて小さいといわざるをえない。
執筆者:阿部 斉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
民主主義を表す英語のデモクラシーという語は、もともとはギリシア語のdemos(人民)とkratia(権力)という二つの語が結合したdemocratiaに由来する。したがって、民主主義のもっとも基本的な内容としては、人民多数の意志が政治を決定することをよしとする思想や、それを保障する政治制度あるいは政治運営の方式、と要約できよう。この意味では、第二次世界大戦後の現代国家のほとんどは、成年男女に普通・平等選挙権を認めているから、資本主義国家であれ社会主義国家であれ、それらの国々を民主主義国家とよぶことができよう。しかし、ひと口に民主主義といっても、その内容は、単に普通選挙権や国民の政治参加の保障にとどまるものではなく、人権(自由・平等)保障の質の高さや内容の違いあるいは民主的政治制度の考え方の差異などをめぐって多種多様に分かれ、しかも、そうした思想や政治運営の方式は、歴史の進展、政治・経済・社会の変化に伴って、しだいにその内容を広げ、また豊かにしてきた面もある。そこで、ここでは、民主主義の思想・制度の発展を中心にして民主主義とはなにかという問題を考えてみよう。
[田中 浩]
民主主義の原型は、古代ギリシアの都市国家の政治に求められる。そこでは、自由民による政治参加の方式が広範に認められていた。しかし、民主主義的な思想・制度が政治の世界において決定的に重要な地位を占めるようになるのは、やはり、市民階級が専制的な絶対君主の政治を打倒して近代国家を形成した17、18世紀の市民革命以後のことであるといえよう。この時期には国民主権主義、基本的人権の尊重、法の支配、民主的政治制度の確立などの民主主義的思想・制度の原型が形成された。そして、このような民主主義の考え方を体系化したのがホッブズ、ハリントン、ロック、ルソーなどであり、またそのような考え方は、イギリス、アメリカ、フランスなどの各種の憲法や宣言に結実されている。
[田中 浩]
国民主権主義や基本的人権思想の尊重に関して近代的な民主主義理論を最初に提起したのは、ホッブズである。彼は、ピューリタン革命期の血で血を洗う悲惨な状況を経験しつつ書いた主著『リバイアサン』(1651)のなかで、人間にとっての最高の価値は生きる権利(自然権)、生命の尊重(自己保存)であると述べ、争乱のない平和な政治社会を確立する必要性と方法を人々に提案している。この自然権こそ、今日の基本的人権思想の原型である。ホッブズは、人間が国家や政府を知らない無法状態(自然状態)にあるときには、当然に各人は身の安全のために自然権を行使することになり、そうなると「万人の万人に対する闘争状態」が生じやすく、かえって自分の身の安全が危うくなると述べる。そこでホッブズは、人間は自分で自分の生命を守ることをやめ、つまり自然権を放棄する――これは明治維新後の廃刀令にもみられるように各人が武器を捨て丸腰になることをも意味する――という契約を相互に結んで「共通の権力(コモン・パワー)」――これが最高権力、主権である――を形成することに参加せよ、と人々に呼びかける。そして、このような行為をするように人間に仕向けるのが、人々の「生きる」という最終的欲求としての理性の戒律=自然法の教えである、とホッブズはいう。したがってホッブズのいう自然法の内容とは、自然権の確保つまり自己保存に役だつ諸条件ということになる。そして、そうした諸条件は、人権保障の規定として今日の各国憲法のなかに多数盛り込まれているのである。
さて「共通の権力」=主権を設けたとき国家(コモンウェルス)=政治社会が形成されたことになるが、この共同社会を運営するためには、共同社会の利益を代表して行動する何者かが必要で、この代表人格をホッブズは主権者とよぶ。そしてホッブズによれば、主権者の制定する法律に従ってすべての人間が行動すればそこに平和な社会が確立され、安全で快適な社会が保障されるというわけである。以上に述べたホッブズの契約あるいは同意に基づく政治権力や国家の設立という思想が今日の国民主権主義のモデルとなったことはいうまでもない。また代表人格という代表概念は、後の議会政治への道を展望する法・政治思想の原型といえるだろう。さらには、彼が、人々は主権者=代表人格のつくる自然権・自然法に基づく法律に従って行動せよと述べていることは、結局は近代的な意味での「法の支配」観念を基礎づけたものといえる。ここに、ホッブズによって初めて、国家権力の作用は国民の生命の安全と利益の確保を目的にすべきであるということが理論化されたのである。
民主的な政治制度の確立を民主主義の基本条件として主張した人は、ホッブズの同時代人ハリントンである。彼は主著『オシアナ』(1656)において、専制化しやすい王政を否定し、国民的規模(といっても成年男子の普通選挙権のことであるが)で選出される新型の立法部(彼はホッブズと同じく当時のイギリス議会は特殊利益を代表しているとみていた)の確立を提案し、政治の目的を「法の支配」の実現に置いている。また彼は、今後のイギリスの政治形態はデモクラシーでなければならないと述べているが、このことは、アリストテレス以来の、モナーキー、アリストクラシー、デモクラシーという政治の三形態を並列する伝統的なやり方を超えて、デモクラシーが三形態のうちで最高の価値を有するものであることを明確化した点で注目に値する。ちなみに、デモクラシーという語が英語になったのは16世紀の中ごろといわれ、その場合には、それはアテネなどで行われていた「人民による政治」という意味にすぎず、別にいいとか悪いとかいう意味はなかったのである。ハリントンによって、「人の支配」ではない「法の支配」が民主主義の主要内容の一つに加えられたのである。
続いて、今日では民主主義といえば議会政治といわれるくらいにまでなった、いわゆる議会制民主主義の思想を理論化したのが名誉革命期のロックである。彼は主著『政治二論』(1690)のなかで、イギリスにおける最高権力は国王・上院・下院からなる立法部=議会にあると述べ、議会と行政部(国王)との関係については議会が優位するとして、今日の議会制民主主義と議院内閣制の原型をつくった。彼が民主主義の父とよばれるのはこの理由による。またロックは、人々が契約を結んで国家や政府を設立したのは、各人の所有権を保護するためであり、もしも立法部や行政部などの国家機関が所有権を侵害するような重要な事態になれば、それらに対して革命を起こしてもよい、と述べているが、これは、当時、経済的地位が上昇しつつあった市民階級の立場を擁護したものといえる。しかし同時に、そのような主張は、一般国民の安全を図るために国家は国民の財産権を保障すべしという現代国家においてもっとも重要な政治思想原理を述べたことになる。
最後に、人民主権論を主張し、民主主義の内容をさらに大きく前進させたのが、フランス革命前夜のルソーであった。彼は、『人間不平等起源論』(1755)において、人間の悲惨と不平等の原因は私有財産制度にあるとし、有産階級が自分たちの財産を守り、また蓄財を図るために専制政治と少数者による多数者(生産者)支配の生産様式を利用していることを痛烈に批判している。続いて、ルソーは、主著『社会契約論』(1762)のなかで、人間が社会状態(政治社会)においても自然状態で有していたと同じ自由を保障できるためには、相互に契約を結んで「一般意志」(ホッブズの共通権力、主権にあたるもの)を形成し、この個人の利益と公共の利益を同時に実現しようとする「一般意志」に基づいて政治社会を運営することを主張している。ところで、「一般意志」による政治とは、当時、少数の有産者(成年男子の7分の1)にのみ選挙権を認め、それを基盤にして構成されていたイギリス型の議会政治をルソーが批判していたことからもわかるように、中・小生産者にも選挙権を認めよという人民主権型の政治を目ざしていたものと考えてよいであろう。
[田中 浩]
ところで、これまで述べてきたような民主主義思想は、実は市民革命前から長い年月をかけてしだいに発展してきたものであって、とくにイギリスでは、「マグナ・カルタ」(1215)、「権利請願」(1628)などの憲法において、「人身(身体)の自由」の保障、代表機関や議会の尊重といった形で早くから主張されてきたものである。そして名誉革命後の「権利章典」(1689)のなかで、人権尊重と議会制民主主義の政治方式がようやく認められるようになったのである。続いて、このような考え方は、18世紀70年代のアメリカの「独立宣言」や各州の権利章典・各州憲法のなかで、さらにはフランスの「人権宣言」(1789)において、自然権・自然法の名の下に、自由・生命・財産の保障という形で確認された。このようにみてくると、17、18世紀に至るまでに民主主義の内容は、「人権宣言」第16条の規定にもあるように、一つは人権(自由・生命・財産)の保障、一つは民主的な政治制度の確立を2本の柱としていたことがわかる。今日の各国憲法が人権保障規定と統治機構規定を主たる内容としているのは以上のような理由に基づくものである。
[田中 浩]
市民革命が民主主義の思想形成や制度確立の発展に大きな影響を与えたことは間違いない。しかし、その後の民主主義発展の道はかならずしも平坦(へいたん)なものとはいえなかった。たとえば、フランス革命における民衆の急進化に恐怖感を抱いたイギリス支配層は、フランス革命の思想的父といわれるルソーの社会契約説や自然権思想の影響がイギリス民衆に波及することを防止しようとしている。そのようなものとしては、イギリスにおける最初の政治的保守主義(新しい階級の台頭を抑えようとする支配層側の政治思想)者といわれるE・バークの『フランス革命の省察』(1790)が有名である。ここで彼は、人間の歴史は神の計画に基づくものであり、それは民族の伝統・歴史のなかに具現化されており、したがって社会契約説のように、人間が自由に国家や政府を設立したり破壊できるものではない、と述べている。かつてイギリスの市民階級(ブルジョアジー)は自然権・自然法の旗を高く掲げて絶対君主の暴政を打倒したが、いまや支配層の一角に足場を固めた上層ブルジョアジーは、小市民層や労働者階級の台頭に恐怖感を抱き保守化したのである。市民革命期にも、革命主流派であったクロムウェル派は下層民に選挙権を認めず、18世紀70年代でもイギリスは依然として制限選挙制を維持し続けていたし、アメリカでは黒人に選挙権を認めず、フランスでも財産資格を設けて多数の市民を選挙権賦与から排除したのであった。そこで民主主義を前進させるためには、まずは政治的権利の獲得、参政権の拡大が緊急の課題となったのである。
イギリスでは、こうした運動は産業革命期に活発化した。ペイン、プリーストリー、プライスらは、選挙権は自然権に基づくものであるとして、いまでは上層ブルジョアジーが地上に投げ捨ててしまった自然権の旗を拾い上げて選挙権の拡大を唱えた。しかし、支配層は、参政権の拡大は財産の平等化要求にまでつながるものとして警戒し、選挙権は「財産と教養ある人々」にのみ与えられる特権であると主張し反対した。にもかかわらず、選挙権の拡大は時代の要求ともいうべきものになりつつあった。このときイギリスではベンサムが登場し、普通選挙制の実現に方向性を与えた。ベンサムは、支配層がアレルギーをおこす危険な用語である自然権(ナチュラル・ライト)ということばを注意深く避けて、功利(ユーティリティ)という語を用いながら、この語の意味する「最大多数の最大幸福」を達成するためには、よき法律の制定が必要であること、よき法律を制定するにはよき議会が必要であること、そのためには国民多数が政治に参加できる普通選挙制にすべきことを唱え、ベンサム主義は、中・小生産者層から労働者階級に至るまでしだいに広範な支持を受けるようになった。近代イギリスにおける最初の大労働運動である「チャーティスト運動」(1837~48)の「憲章」は、ベンサム主義の影響を強く受けているといわれるが、当然のことながら、そのなかには普通選挙制の実施が掲げられている。ともあれ、市民革命以来の長年にわたる民主主義の伝統をもつイギリスでは、ペインやベンサムの努力もあって1832年に第一次選挙法改正が実現するが、それはなお普通選挙制とはほど遠いものであった。同じころ、『アメリカにおけるデモクラシー』2巻(1835、40)を書いたフランスのトックビルが、アメリカの民主政治を考察して、いまや平等化の波を押しとどめることはできないと述べつつも、平等の台頭が個人自由を侵害するのではないかという危惧(きぐ)の念を早くも表明しているのは、19世紀後半以降、自由と平等の関係をどう扱うかという民主主義の根本問題を示唆しているものとして興味深い。なおフランスでは、民主主義のさらなる前進は、1870年の第三共和政の成立まで待たなければならなかった。
他方、フランス革命の衝撃(インパクト)を受けたドイツでも近代国家の形成を目ざす運動が始まった。当時のドイツは300以上の領邦国家に分かれ、イギリス、フランスのような統一国家の形成はかならずしも容易なことではなかった。結局ドイツでは、プロシアの近代化を先頭にしてドイツ帝国の統一を図る方向が模索された。しかしプロシアでは市民階級の力がきわめて弱かったので、「上からの近代化」の道をとらざるをえず、このため個人自由の尊重や民主的な政治制度の確立によって国民的統一を図り、国力を増大させるということよりも、君権中心の官僚指導型の近代化という方向をとることになった。こうしてドイツでは、「国家の個人に対する優位」という思想が国民のレベルにまで広く受容されたが、このような政治思想を理論化したのがヘーゲルであった。そして、近代国家の形成期において、自然権や自然法思想の重要性が十分に国民の間に浸透・定着せず、民主的な政治制度が確立されなかったことは、ドイツが20世紀に入って独裁的・非民主的なナチズムを生み出す要因となったことは指摘するまでもないであろう。
[田中 浩]
19世紀中葉以降、民主主義の課題は、いよいよ経済的不平等の是正、社会的弱者の救済という方向に、その重点を移していった。この時期になると、イギリスをはじめとする2、3の先進資本主義国家においては貧困・失業などの社会・労働問題が顕在化した。それまで各国は、経済の分野については、個人の自由な経済活動に任せ(自由放任主義(レッセ・フェール))、政府の役割は、対内的には、最小限の治安維持と公共政策の実施にとどめ、対外的には外敵からの侵略を防ぐことをもってよしとする「夜警国家」の立場をとってきた。しかし、社会・労働問題が顕在化してきたこの時期になると、公共の福祉のためには、個人の自由をある程度制限してもやむをえないという考え方に転換せざるをえなくなった。たとえば、従来、雇用・労働条件については、「契約自由の原則」により労使間の自由な契約に任されていたが、これでは、恐慌その他の経済的危機に際して労働者がなんの保障もなく路上に放置される危険性が高まったため、労働者に「団結の自由」という権利を与え、労働者自らがその地位の保障を確保し、劣悪な労働条件を改善することができるようにすべきであるという新しい労働基本権的な考え方が登場してきた。J・S・ミルが『自由論』(1859)のなかで、人身の自由、宗教・思想の自由、財産権の保障などの自由権思想と並んで「団結の自由」を新しい自由の目録(カタログ)のなかに加えているのは注目すべきである。なお、イギリスでは1867年には、都市労働者階級に選挙権を与える第二次選挙法改正が実施されたが、ミルは、普通選挙制や女性参政権を主張している。
ところで近代民主主義思想のもう一つの柱である「私有財産の不可侵」という原則も修正・転換を迫られた。それは具体的には、貧困者の子弟のための公立学校を整備したり、社会福祉や社会保障制度を拡充するために、当時、有産階級のみが負担していた税金の一部をその財源として回すことの可否をめぐって長らく論争が続いた。有産階級は当然に、そのようなことは「私有財産の不可侵」という自由主義や民主主義の精神に反するものとして反対論を唱えた。この問題に関して民主主義思想の転換を論理化したのがT・H・グリーンであった。彼は、人間にとって最高の価値は「人格の成長」(人間らしく生きること)にあるとし、自由は目的ではなく手段であると述べ、公共の福祉のためには個人の自由を制限することもやむなしとする「強制的自由」「積極的自由」という考えを提起した。この理論に基づき、以後イギリスは保守党・自由党を問わず福祉国家の方向へと大きくその政策を転換させることが可能となった。これと思想・方法に関してはかなり異なるが、ドイツでもビスマルクによって、一方では労働運動や社会主義運動を厳しく鎮圧しながら、他方では社会保険制度を設けて弱者を救済するという「アメとムチの政策」がとられている。いずれにせよ、この時期以後、資本主義国家は、自らの存命を図るためにも、弱者救済と不平等是正を掲げる福祉国家政策の採用を迫られることになったのである。
こうした資本主義国家の自己修正に対して、民主主義の徹底化を唱えて登場したのが、『共産党宣言』(1848)の起草者マルクス、エンゲルスらの社会主義・共産主義の思想であった。社会主義・共産主義は、資本主義に内在する社会・労働問題などの矛盾を指摘し、また資本主義国家が植民地を獲得し植民地人を収奪することによって資本主義の存命を図ろうとしている帝国主義的政策にも反対し、資本主義制度それ自体を廃絶することによって、地上のすべての国民・民族に完全な平等を実現しようとする国際的な性格をもった思想・運動であった。この意味で、社会主義は民主主義を発展させた一形態であるといえよう。社会主義に基づく国家としては、第一次世界大戦後にソ連が現出し(1917)、第二次世界大戦後においては、東欧やアジアにおいて10か国近い国々が社会主義国家となり、一大勢力を形成した。しかし、1989年の「冷戦終結宣言」後、東欧諸国やソ連が社会主義体制を放棄したため、現在では中国、ベトナム、北朝鮮、キューバの4か国のみが社会主義国家として現存している。
これに対し、20世紀前半には、社会主義に対抗して、ファシズム思想が一時期台頭した。すなわち、1920、30年代から第二次世界大戦終結に至るまでの時期に、ドイツ、イタリア、日本に発生したファシズムの政治形態は、欧米列強に対抗するという理由で、内においては個人の自由や権利を抑圧する独裁政治を敷き、外に対しては帝国主義的侵略を行ったから、民主主義に敵対するものであった。第二次世界大戦は、基本的には帝国主義諸国家間の戦争という性格をもちながらも、他面では民主主義とファシズムの闘いとしてとらえられるのは、この理由による。しかし、これらの国々のファシズムも第二次世界大戦後、敗戦により消滅した。
[田中 浩]
第二次大戦後、世界の民主主義は決定的ともいえるほど大きく前進した。それを象徴するものとしては、1948年の第3回国連総会において採択された「世界人権宣言」がある。なぜなら、この宣言では、人権保障の観念が希薄であったファシズム国家が対外侵略によって戦争を引き起こしたとの認識にたって、政治・経済・社会体制やイデオロギーの違いを超えて世界のほとんどの国々が、自由権・参政権・社会権を内容とする人権保障のカタログを民主主義の基本原則として確認しているからである。
ところで、日本は、明治維新によって近代国家を形成したが、欧米先進諸国に追いつき、それを追い越すことを目標として、当初から「富国強兵」策をとった。それによって日本は、わずか半世紀という超スピードで欧米列強と肩を並べるほどの資本主義国家を形成できた。しかし、日本は欧米流の民主主義国家を形成することには失敗した。なぜなら、維新期から自由民権期に至るわずか十数年間、日本でも民主政治への模索がなされる動きがあったが、「富国強兵」策がそれに優位したために、明治10年代の後半からプロシア憲法に範をとる大日本帝国憲法制定への方向をとったからである。こうして日本は、肉体はりっぱな資本主義国家となったが、精神は国家主義や軍国主義の支配するきわめて封建的・反動的な体質をもついびつな国家に成長してしまった。こうした体制に反対して、第一次大戦後、「大正デモクラシー運動」が起こったが、昭和期に入って軍部が台頭し、押しつぶされてしまった。敗戦により「ポツダム宣言」を受諾した日本は、基本的人権の尊重と民主的な政府の設立、国家主義・軍国主義の排除による平和国家の確立を連合国から要求され、それに基づいて、国民主権主義、平和主義、基本的人権の尊重の三原則を基調とする日本国憲法を制定(1946)し、民主主義国家への道を歩むことになった。戦後50年以上を経過した現在、確かに日本の民主主義は大きく前進した。しかし、現時点においてもなおロッキード事件、リクルート事件、佐川急便事件、あるいは政・官・財の構造汚職に象徴されるような金権政治が横行し、また経済大国にはなったけれども国際理解の不十分さによって世界の他の国々と貿易摩擦を引き起こし、さらには最近の日米安保体制のますますの強化によってアジア近隣諸国から不信感が表明されているような事態を考えるとき、日本の民主主義の抱えている問題には容易ならざるものがあるといわざるをえない。
また目を世界に転じるとき、東西両陣営の対立は「冷戦終結宣言」(1989)以後、鎮静化されたが、先進諸国とアジア・アフリカをはじめとする旧植民地などの発展途上国との経済格差はいっこうに縮まらず、さらには政治的・経済的・宗教的・イデオロギー的対立を要因とする局地的戦争や民族紛争が依然として世界の各地で発生していることも、国際平和を脅かす大きな要因となっている。
以上のことを考えると、現代の民主主義は、まずは、国際平和の確立を緊急の課題としている、といえる。今日、この地球上には200か国近い主権国家が共在し相互に関係しあっている。とすれば、各国がそれぞれに民主主義の実現に努力すべきことはいうまでもないが、しかしそれだけではかならずしも十分なものとはいえず、国際的連帯と協力による国際平和の確立なしには、一国における民主主義の実現さえもおぼつかないであろう。「平和権」が新しい民主主義のカタログに加えられる必要性がますます高まってきている、というのが現代の特徴といえよう。
[田中 浩]
『田中浩著『ホッブズ研究序説』(1982・御茶の水書房)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』▽『福田歓一著『現代政治と民主主義の原理』(1972・岩波書店)』▽『ブライス著、松山武訳『近代民主政治』全4巻(岩波文庫)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
語源となったdemokratiaはギリシア語のdemo(人民)とkratia(権力)をつないだもの。すなわち権力が一人や少数にある君主政や貴族政とは異なり,広く人民のもとにあることをさした。ただし古代ギリシア,ローマまた中世の都市国家においては,「人民」の範囲は身分や財産などによって制限され,女性は含まれていなかった。その制限を広げて,民主主義の内実化が図られたのは,近代ヨーロッパにおいてであった。そのためには,基本的人権を主張する自然権思想を基礎にして,統治に関する社会契約説,さらには三権分立論などが出現するのを待たねばならず,アメリカの独立,フランス革命はそうした思想を武器に民主主義の実現をめざした。この成果を受けて統治形態においても君主政から主権在民の共和政への転換が生まれ,また君主政を維持した国においては国民主権を機能させるために,立憲君主制(政)のもとで議院内閣制がつくられた。これらいずれにおいても議会制度が民主主義の根幹におかれたが,議員選挙による間接民主主義のもつ限界を批判して,直接参加型の民主主義の主張も強くなっている。ただし,直接参加型民主主義は地域社会を単位とするものに限られているのが現状である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…国民全体の主体的な政治参加を前提とする政治体制を意味するが,現実に全員の政治参加を得て,秩序を形成することは不可能である。したがって,民主制の理念はつねに象徴として機能する。歴史的には,古代ギリシアにおいて君主制,貴族制にならぶ政体の一つとされ,多数者による支配を意味したが,極端過激な民主制はかえって無秩序を招き人びとに軽蔑された(アリストテレス《政治学》)。その後,民主制は現実の政治形態としてはあまり注意されないままにきた。…
…なお,このような身分代表から国民代表への代表観念の転換は,同時にかつては諮問的合議体であった議会が,課税同意権を〈てこ〉として立法権を手中にし,ひとつの国家意思を形成するものとなったことにも対応している。
【議会制民主主義の成立】
身分制議会との対比において上のような特徴をもつ近代議会は,しかし,近代初期と,のちに普通選挙制が成立する段階になってからとでは,その理念が同じでない。近代初期の議会のありかたを実定法化した一典型といえる1791年フランス憲法は,〈国民主権〉の原理を掲げるとともに,その〈国民〉から独立し,〈国民〉にかわって〈国民〉意思を形成する〈代表者〉として,議会(および国王)を位置づけた。…
…第2の経済福祉体系の閉鎖性については,戦後賠償問題の処理の過程で,戦敗国ドイツ,戦勝国イギリス,フランスおよびアメリカを結びつける個別国家をこえた金融の流れが,経済復興と不可分であることが実証された。第3の価値体系の排他性についても,民主主義,民族自決主義が西ヨーロッパとアメリカに共通の原則として受容される反面,ボリシェビズムを共通の敵として国際的反共主義が共有されることになった。 こうした古典的主権国家体系の変容は,第2次世界大戦後,さらに一段と深まることになった。…
※「民主主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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