平安後期の歌人。父は大納言経信(つねのぶ)。右近衛(うこんえ)少将、左京権大夫(ごんのだいぶ)を経て従(じゅ)四位上木工権頭(もくのごんのかみ)に終わる。幼時、橘俊綱(たちばなのとしつな)に養育された。父経信から音楽(篳篥(ひちりき))の才芸と和歌の家学を継承、堀河(ほりかわ)朝で帝側近の楽人・歌人として頭角を現し、父の死後は歌壇の指導者として活躍した。ことに『宰相中将国信卿家歌合(くにざねきょうのいえのうたあわせ)』や、『堀河百首』の企画などを通じて、『古今集』以来の優美な表現系列のほかに、『万葉集』好尚を中心とする新奇・卑俗・滑稽(こっけい)な歌境・歌語を導入し、また清新な叙景歌を生むなど、末代和歌の行き詰まりを打開すべく、大胆な新風を開拓した。老年期には退官、田上(たのかみ)別荘への隠棲(いんせい)と、打ち続く不遇感にとらわれていたが、そのなかで、白河(しらかわ)院の院宣を受け、『金葉和歌集』を撰進(せんしん)、また長大な歌論書『俊頼髄脳』を完成させ、ついで最晩年には自詠を部類した全歌集『散木(さんぼく)奇歌集』を編纂(へんさん)、巨匠の生涯を飾った。
[近藤潤一]
うかりける人を初瀬の山おろしはげしかれとは祈らぬものを
『橋本不美男著『院政期の歌壇史研究』(1966・武蔵野書院)』▽『関根慶子著『源俊頼』(『和歌文学講座6 王朝の歌人』所収・1970・桜楓社)』▽『池田富蔵著『源俊頼の研究』(1973・桜楓社)』
(田仲洋己)
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平安後期の歌人。官人としては従四位上木工権頭まで進んだ。大納言経信の子,橘俊綱の養子。父の薫陶を得て歌才,楽才を発揮,はじめ堀河院内裏歌壇で中心的役割を果たし,組題百首の嚆矢《堀河百首》の企画を成功させ,諸歌合で作者,判者として活躍。鳥羽朝以後は藤原基俊とともに歌壇の指導者として精力的な歌壇活動を展開,歌道の文芸意識,批評意識を高めて,一時代を画した。ことに俊頼は,末代の和歌が枯渇しつつあると観察,万葉好尚の機運を作る一方,詩情・表現の〈珍しき節(ふし)〉を求め,大胆に歌詞,題材の拡充をはかり,たえず新奇な歌境の拡大を念じて卑俗な田園趣味も摂取,新風和歌を開拓して,王朝和歌に新展開をもたらした。晩年,白河院の下命により,3度の改撰を経て《金葉和歌集》(1124-27)を奏覧,また多様な詠作を収めた《散木(さんぼく)奇歌集》(1128ころ)を自撰,歌論書《俊頼髄脳(としよりずいのう)》(1112ころ)も述作した。〈鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮〉(《金葉集》巻三),〈うかりける人を初瀬の山おろし激しかれとは祈らぬものを〉(《千載集》巻十二,《小倉百人一首》にも入る)などが代表作。俊頼筆と伝える筆蹟は数多いが,京極関白集切,御堂関白集切,粽切(ちまきぎれ)《後拾遺集》の類,《古今集》巻子本,元永本《古今集》,《古今集》筋切などの類も,真蹟の確証はないとされている。
執筆者:近藤 潤一
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…歌を様式面から10種に分類把握する歌論書である(和歌十体(じつてい))。《俊頼髄脳(としよりずいのう)》は12世紀初頭に成立した歌論書で,源俊頼が関白藤原忠実の娘泰子(高陽院)の作歌参考のために書いた実用向けの歌論である。〈心〉の重視を言いつつ,〈詞をかざり詠むべきなり〉とも言って,〈言葉〉の尊重,言語世界の自立をも示唆している点が斬新であった。…
…勅撰和歌集の第5番目。源俊頼撰。10巻。…
…平安後期の歌人源俊頼の家集。10巻。…
…源俊頼が関白藤原忠実の娘高陽院(かやのいん)泰子に献呈した歌学書。1111‐13年(天永2‐永久1)ころの著作。…
※「源俊頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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