日本を代表する自然科学の研究機関で、埼玉県和光市に本部を置き、職員は約3500人。このうち任期制の研究者が約2700人を占める。年間予算は800億円程度で、ほとんどが国の税金で運営されている。和光市のほか、神戸市や横浜市、茨城県つくば市などに研究拠点がある。1917年に政財官界と研究者が一体となって創設。2003年に独立行政法人となり、ノーベル賞受賞者の
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物理学と化学の研究を目的に設立された日本の代表的な科学研究所。「理研」と略称される。1913年(大正2)高峰譲吉(たかみねじょうきち)が国民科学研究所の設立を提唱し、渋沢栄一らが中心となって設立運動を始めた。1914年、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)により化学製品が輸入困難になったこともあり、1917年6月、民間からの寄付、国庫補助、皇室下賜金を資金に、財団法人理化学研究所が設立された。「理化学研究所ノ事業ト産業界」と題された小冊子には、その目的が「物理学及(および)化学ニ関スル独創的研究ヲ為(な)シ又之(これ)ヲ奨励シ以(もっ)テ工業其(その)他一般産業ノ発達ニ資セムコトヲ期ス」とあり、基礎的研究、基礎と応用の統一的研究、依頼研究、他の研究所との連携、研究者の養成、研究の表彰と補助、発明考案の完成、研究成果の公表などを行うとした。研究所建物は現在の東京都文京区駒込(こまごめ)に建てられた(1918~1925)。所長は初代が菊池大麓(きくちだいろく)、2代が古市公威(ふるいちきみたけ)、3代が大河内正敏(おおこうちまさとし)と続く。理研には長岡半太郎、本多光太郎(ほんだこうたろう)、池田菊苗(いけだきくなえ)、鈴木梅太郎ら第一級の科学者が名を連ね、仁科芳雄(にしなよしお)も原子核研究で活躍。大河内は研究室制度を導入する一方、研究成果の製品化・商品化を図って、いわゆる理研コンツェルンをつくり、研究費を充実させた。
第二次世界大戦後、コンツェルン、理研とも解体させられ株式会社科学研究所となったが、1958年(昭和33)に特殊法人として再生。2003年(平成15)10月、新たに独立行政法人として発足。初代理事長は野依良治(のよりりょうじ)。2015年4月、国立研究開発法人に移行した。初代理事長は松本紘(まつもとひろし)(1942― )。茨城県つくば市、兵庫県神戸市などに研究所をもち、本所は埼玉県和光市に置いている。
[栗原 裕 2017年11月17日]
理研と略称される。日本を代表する総合的な科学研究所。半官半民の特殊法人で,2003年に独立行政法人となった。埼玉県和光市に本拠を置く。前身は1917年に設立された財団法人理化学研究所で,これが第2次大戦後解体され,株式会社科学研究所を経て,現在の組織となった。
日本が欧米列強と伍していくには,科学技術力の育成が不可欠であり,そのために科学研究所を設立すべきであるとの論議が,20世紀初頭以来,一部の識者の間で唱えられ始めた。例えば,1913年,高峰譲吉は国民科学研究所の設立を提案し,政・財界の有力者に働きかけた。このような運動を基盤に,17年,〈物理学及化学に関する独創的研究を為し,之を奨励し,以て工業其他一般産業の発達に資〉すことを目的にして財団法人理化学研究所が設立され,最新の設備をもつ建物が18-25年にかけて,東京文京区駒込に完成。初代所長は菊池大麓,次長は桜井錠二,化学部長池田菊苗,物理部長長岡半太郎という錚々(そうそう)たる陣容であった。こうして,学界はじめ各界の大きな期待を担って発足した理研ではあったが,第1次大戦後の経済不況のために,財界からの寄付金が予定通り集まらず,設立後数年を経ずして財政的に行き詰まってしまった。財政危機に直面した第3代所長大河内正敏は,主任研究員にテーマ・予算・人事などについて大幅な自由裁量を認める〈研究室制度〉を導入して,研究の活性化を図る一方で,〈科学主義工業〉の理念を掲げて,理研における研究成果の工業化・商品化によって財政基盤の強化に努めた。そのため,理研の発明・特許を利用した医薬品(ビタミン剤など),食料品(合成酒など)および機械類を製造販売する企業が次々と設立された。最盛期には60社にも達したこれら企業群は,いわゆる理研コンツェルンを構成し,その利益の一部は特許料などの形で理研に還元されて,理研の財政を大いに潤した。理研では,このような事情から,実用化・工業化の可能性をもつ研究が奨励されたが,一方では基礎的な研究にも力が入れられていた。例えば,仁科芳雄の研究室は,後年ノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎をはじめ,多くの若き俊秀を擁して,日本における原子物理学および量子力学研究のメッカになった。このようにして,大河内所長の指導のもと,理研の経営と研究活動は軌道に乗り,日本の科学界で重きをなすに至ったのである。
しかし,第2次大戦における日本の敗北によって,理研コンツェルンおよび理研は解体を余儀なくされた。また占領下の混乱の中で,前記仁科研究室が総力をあげて製作した研究用サイクロトロンが占領軍の手で海中に投棄されるという悲劇も生じた。このような苦難の時期を経て,58年,理研は特殊法人として再生したのである。現在,理研は40余の研究室を有する大研究所となり,その研究業績はもとより,ユニークで柔軟な研究体制,大学との活発な情報・人事交流などを通じて,再び日本の科学界で重要な地歩を占めるに至った。
執筆者:成定 薫
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日本を代表する自然科学の総合研究所。1917年(大正6)財界からの寄付金と国庫補助,皇室下賜金とで財団法人として設立。21年3代目所長に大河内正敏が就任し,同所の発明を工業化する理研コンツェルンを創立。利益の一部を還元することに成功してから業容を拡大,40年(昭和15)3月現在主任研究員33人,研究員42人,総勢1858人の世界有数の大研究所に発展した。48年法律により株式会社科学研究所に改組され(社長仁科芳雄),50年生産部門を科研化学として分離独立。55年政府半額出資の特殊法人となり,58年の理化学研究所法で特殊法人へと改組,さらに2003年(平成15)に独立行政法人となった。
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…千葉県の旧大多喜藩主の家に生まれ,東京帝国大学工科造兵学科を卒業。母校の教授となったが,1921年理化学研究所の所長に就任した。同研究所は27年みずからの所有する特許を企業化するために理化学興業を設立し,その後も特許にもとづく企業の設立が相次ぎ,機械・金属・化学工業を中心とするいわゆる理研コンツェルンが形成されるが,大河内は46年まで所長としてその指導にあたった。…
…科学関係では,アカデミーとしての帝国学士院の発足(1906),文部省の学術研究会議の設置(1919),また32年には研究の援助奨励を行う財団法人日本学術振興会が発足している。またはじめての民間総合研究機関として財団法人理化学研究所が政府・民間の援助のもとに1917年に発足した。満州事変以後戦時色がしだいに濃くなり国防力強化を目ざして技術振興がとりあげられ,重工業に対する各種の育成措置がとられた。…
…昭和初期に台頭した新興コンツェルンの一つで,財団法人理化学研究所(略称理研)の成果を工業化することにより発展し,理研産業団ともよばれた。理研は,1917年に〈産業の発達に資するため理化学を研究し,その成績の応用を図る〉目的で,政府助成のもとに設立され,以来,理研がもつ特許は年々増加していった。…
※「理化学研究所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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