田中丘隅(読み)たなかきゅうぐ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中丘隅」の意味・わかりやすい解説

田中丘隅
たなかきゅうぐ
(1662―1729)

江戸中期の農政家。武蔵(むさし)国多摩郡平沢村(東京都あきる野市)に生まれる。本姓窪島氏。諱(いみな)は喜古(よしひさ)。休愚(きゅうぐ)、休愚右衛門(きゅうぐえもん)と称した。幼少のころより農業のかたわら、絹織物行商をしながら見聞を広め、のち東海道川崎宿の本陣田中兵庫(ひょうご)の養子となり、1705年(宝永2)に名主問屋役も兼帯する。08年川崎宿の財政立て直しのため、六郷(ろくごう)川渡船権の取扱いを関東郡代伊奈氏に上申し、翌年許され、川崎宿繁栄の基礎を築く。1721年(享保6)に農政およびその意見書である『民間省要(せいよう)』3巻77項目を脱稿、師の成島道筑(なるしまどうちく)により大岡忠相(ただすけ)を通じ将軍徳川吉宗(よしむね)に献上された。これらの実績により23年に川方御普請(かわかたごふしん)御用を命ぜられ、武蔵国荒川・多摩川治水二ヶ領用水大丸(おおまる)用水の改修工事を行い、相模(さがみ)国酒匂(さかわ)川の治水のため文命堤(ぶんめいてい)を築いた。29年三十人扶持(ぶち)支配勘定格となり、大岡配下で3万石を支配したが、同年12月22日、江戸において68歳で没した。

村上 直]

『石井光太郎「田中休愚右衛門年譜稿」(『川崎市文化財調査集録』6所収・1970・川崎市)』『村上直著『江戸幕府の代官』(1983・国書刊行会)』

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朝日日本歴史人物事典 「田中丘隅」の解説

田中丘隅

没年:享保14.12.22(1730.2.9)
生年:寛文2.3.15(1662.5.3)
江戸中期の農政家。名は喜古,通称は丘隅,のち休愚,休愚右衛門と称した。号は冠帯老人,武陽散民。武蔵国多摩郡平沢村(東京都秋川市)の名主窪島八郎左衛門の次男。幼年のころ八王子の大善寺で学び,のち絹織物を行商し見聞を広めた。東海道・川崎宿の本陣田中兵庫の養子となり,宝永1(1704)年家督を継ぎ,本陣,名主,問屋を兼帯する。同6年には川崎宿の復旧のため六郷川渡船権の許可を得て活躍。正徳1(1711)年,50歳のとき隠居し,江戸に遊学して荻生徂徠や成島道筑に師事。西国方面を旅行し,享保6(1721)年60歳のとき,自らの経験に基づき,民政の意見書『民間省要』(3編15巻)を完成。翌7年に成島道筑を通じ将軍徳川吉宗に献上した。その内容が評価されてか,同8年荒川,多摩川,六郷・二ケ領用水の川除御普請御用を命ぜられ,11年相模国(神奈川県)酒匂川の治水工事を婿の蓑正高と共に行い,文命堤の築造など事績をあげる。同14年には新田開発と用水管理の功により,町奉行大岡忠相配下の支配勘定格となり3万石を管轄したが,5カ月後に江戸の役宅で急逝した。<著作>『走庭記』『玉川堂稿』『続夢評』『治水要方』『冠帯筆記』<参考文献>村上直『江戸幕府の代官』,『神奈川県史/各論編』3巻

(村上直)

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改訂新版 世界大百科事典 「田中丘隅」の意味・わかりやすい解説

田中丘隅 (たなかきゅうぐ)
生没年:1662-1729(寛文2-享保14)

江戸中期の農政家。武蔵国多摩郡平沢村(現,東京都あきる野市)に生まれる。諱(いみな)は喜古(よしひさ)。休愚,丘隅右衛門とも称した。絹物の行商をして見聞を広め,東海道川崎宿の本陣田中兵庫の養子となり,名主,問屋役を兼帯した。川崎宿の復興と繁栄をもたらし,1721年(享保6)幕府の民政に対する意見を述べた《民間省要》3巻77項目を脱稿し,師の成島道筑を通じ献上した。23年川方御普請御用を命ぜられ,荒川・多摩川の治水,二ヶ領用水・大丸用水の改修工事,26年相模国酒匂川の補修を行い,文命堤を築いた。29年三十人扶持,支配勘定格となり武蔵国多摩・埼玉両郡3万石を支配したが,5ヵ月後に没した。
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百科事典マイペディア 「田中丘隅」の意味・わかりやすい解説

田中丘隅【たなかきゅうぐ】

江戸中期の代官,民政家。武州多摩郡平沢村に生まれ,都筑(つづき)郡川崎宿の名主として同宿の復興に尽力した。この治績で1723年将軍徳川吉宗に召され,荒川・多摩川の治水,酒匂(さかわ)川の築堤を行った。主著《民間省要(せいよう)》。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「田中丘隅」の解説

田中丘隅
たなかきゅうぐ

?~1729.12.22

江戸中期の代官・農政家。諱は喜古(よしひさ)。みずから休愚・丘愚右衛門と称し,冠帯老人・武陽散民などとも号した。武蔵国多摩郡平沢村(現,東京都あきる野市)の農家に生まれ,同国川崎宿の本陣田中兵庫の養子となり,跡を継ぎ名主も兼任。農政や治水に通じ,1721年(享保6)自身の体験や見聞をもとに「民間省要」を著し,師の成島道筑を介して幕府に献上した。29年7月支配勘定並に登用され,武蔵国多摩・埼玉2郡で3万石を支配したが,同年病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中丘隅」の解説

田中丘隅 たなか-きゅうぐ

1662-1730* 江戸時代中期の農政家。
寛文2年3月15日生まれ。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)の人。東海道川崎宿の本陣田中家をつぎ,名主をかねる。50歳をすぎてから,江戸で荻生徂徠(おぎゅう-そらい)に師事。民政に関する意見書「民間省要」を幕府に提出。幕命で荒川,多摩川,酒匂(さかわ)川の治水工事にあたった。享保(きょうほう)14年12月22日死去。68歳。本姓は窪島。名は喜古(よしひさ)。通称は兵庫。

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旺文社日本史事典 三訂版 「田中丘隅」の解説

田中丘隅
たなかきゅうぐ

1662〜1729
江戸中期の農政家
武蔵(東京都)八王子の人。川崎の村役人田中兵庫の養子となった。江戸で荻生徂徠 (おぎゆうそらい) に学び,1723年将軍徳川吉宗に登用され,多摩川・荒川・酒匂 (さかわ) 川の治水策など民政で大きな功績をあげ,'29年代官となった。著書『民間省要』は農民支配について記したものであるが,江戸周辺の農村の実状を知るうえでの好史料。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中丘隅」の意味・わかりやすい解説

田中丘隅
たなかきゅうぐう

[生]寛文3(1663).武蔵
[没]享保14(1729).12.14. 武蔵
江戸時代中期の民政家,幕吏。川崎宿役人田中兵庫の養子となり江戸で荻生徂徠に学んだ。治水,民政に功績があり,享保8 (1723) 年支配勘定並に抜擢された。民政上の意見を述べた著書『民間省要』は有名。

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367日誕生日大事典 「田中丘隅」の解説

田中丘隅 (たなかきゅうぐ)

生年月日:1662年3月15日
江戸時代中期の農政家
1730年没

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世界大百科事典(旧版)内の田中丘隅の言及

【川崎[市]】より

…また大師河原村周辺に塩田が開かれた。川崎宿は財政窮乏化したが,本陣,問屋,名主を勤めた田中丘隅により1709年(宝永6)より川崎宿に渡船請負権が許可され,宿駅の財政維持に大きな役割を果たした。丘隅はのち民政の書である《民間省要》を将軍吉宗に献上し,支配勘定格となり約3万石を支配し治水,改修工事などに参画した。…

【六郷渡】より

…1688年(元禄1)多摩川の下流六郷川の木橋が洪水で流失したのち渡船(とせん)となる。当初は江戸町人や八幡塚村が請け負ったが,1709年(宝永6)より宿本陣,名主,問屋兼帯の田中丘隅(休愚)(きゆうぐ)の上申が認められ,川崎宿の永代渡船請負権が許可された。渡船場には馬船8艘,歩行船6艘と16人の船頭が常備され,交通量の増加には付近の村の雇舟(やといぶね)を仕立てた。…

※「田中丘隅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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