翻訳|fermentation
一般には微生物の作用によって有機物が分解的に変化して,なんらかの物質が生成する現象をいうが,その中でも腐敗に対立して,とくにその作用が人間にとって有用である場合に用いられる。微生物の一種である酵母の作用によって,糖からアルコールと炭酸ガスが生成するアルコール発酵はその代表例であるが,そのほかにも乳酸菌によって糖から乳酸が生成する乳酸発酵,酢酸菌によってエチルアルコールから酢酸が生成する酢酸発酵,ある種の細菌によって糖とアンモニアからグルタミン酸などのアミノ酸が生成するアミノ酸発酵など多様な発酵現象が知られている。以上の定義とは別に,酵母によるアルコール発酵の研究を通じて,それが生物学的には酸素の無い状態での糖(有機物)の分解によって生ずるエネルギーを,酵母(生物)の利用しうる形で取り出すための物質代謝過程として,全生物に共通のものとみなしうることが明らかになった。したがって生化学において発酵は,酸素を用いる有機物の分解過程からエネルギーを取り出す呼吸と,光エネルギーの固定を行う光合成とならんで,生物のエネルギー獲得代謝の三大型式の一つを表す言葉として用いられる。
古来からパンや酒,酢,みそ,しょうゆ,チーズ,乳酸飲料など各種の醸造食品の製造に,各種の微生物による発酵現象が利用されてきたが,その中でも酒造りにおける酵母によるアルコール発酵は人間の強い関心を引きつけた。発酵を表す英語ファーメンテーションfermentationは〈沸き立つ〉を意味するラテン語フェルウェレfervereに由来しているが,これはブドウ酒,ビールの醸造に際して発生する炭酸ガスが泡となって盛り上がる現象をさすものと思われる。雑多な微生物の混入,増殖を防ぎながら酵母を優占的に増殖させ,そのアルコール発酵によって良い酒をつくるためには,経験にもとづくそれなりに合理的な技術がつくり上げられていたが,その現象の本体は長い間とらえどころのない神秘なものとされていた。化学の父といわれるA.L.ラボアジエにはじまる定量的な化学分析によって,19世紀初頭にはこの発酵現象が,1分子のブドウ糖から2分子のエチルアルコールと2分子の炭酸ガスが生成する化学方程式で表されることが明らかになったが,このような化学変化が何によって起こるかについては多くの論争が繰り返された。19世紀前半にはJ.J.ベルセリウス,J.F.vonリービヒらの化学者による発酵を無生物の触媒作用と理解する考えが主流であったが,L.パスツールはアルコール発酵,乳酸発酵,酪酸発酵などさまざまな発酵現象の研究を通じて,それぞれの発酵が固有の微生物の作用によるものであることを疑問の余地なく証明した。パスツールによる発酵の研究を通じて現代の微生物学は誕生し,彼の〈発酵は酸素の無い状態での生命活動の帰結である〉という簡潔な言葉は,発酵の生物学的定義としてきわめて正確である。その後19世紀最後に,E.ブフナーがすりつぶした酵母抽出液でもアルコール発酵が起こることを見いだしたことによって,発酵が酵母細胞中にある酵素の触媒作用によることが実験的に示され,さらに20世紀前半に展開された生化学的研究によって,アルコール発酵の機構は細部に至るまで解明された。第2次大戦後,抗生物質,アミノ酸などの新しい有用物質をつくる各種の微生物が見いだされて巨大な発酵工業にまで発展し,今日では改めて多様な微生物による物質生産の手段としての発酵の意義が重要になりつつある。
酵母によるアルコール発酵は,筋肉における解糖現象と呼ばれる嫌気的なグルコース代謝とほとんど同一のエムデン=マイヤーホーフEmbden-Meyerhof経路によっている。この経路の中では,リン酸化された高エネルギーの中間体からのリン酸基の転移によってATPの形でエネルギーが生成する一方,経路上の中間体が酸化される際に生じた水素は,経路下流にある酸化型の中間体の還元に用いられることによって酸化,還元の平衡をとり,結果として酸素の無い状態で反応が進行してエチルアルコールが大量に蓄積される。アルコール発酵によってグルコース1分子から生成するエネルギーは,ATPの形で2分子に過ぎず,呼吸によって完全酸化される場合のATP38分子に比べてひじょうに少ない。生化学的には,ある物質の酸化によって生成する水素が,呼吸におけるように酸素に結びつけられる代りに代謝経路上の別の中間体の還元に用いられ,そのために無酸素状態で代謝が進行して,大量の代謝産物が蓄積すると同時にATPが生成する型式のエネルギー獲得代謝を発酵という。
無酸素状態で起こる典型的な発酵としては酵母によるアルコール発酵のほかに,乳酸菌による乳酸発酵,酪酸菌による酪酸発酵,同じ仲間の菌によるアセトンブタノール発酵,プロピオン酸菌によるプロピオン酸発酵,大腸菌による混合酸発酵などがある。一方,酢酸発酵は酢酸菌の酸化能によってエチルアルコールから酢酸が生成するもので,酸素の存在が必須であり,エネルギー獲得型式としての発酵の定義にはあてはまらないが,微生物の機能によって大量の物質が生成する点から同じように発酵と呼ばれ,とくに酸化発酵といわれたりすることがある。多くのカビが行う有機酸発酵やコリネ型細菌によるアミノ酸発酵も,それによってクエン酸,フマル酸などの有機酸やグルタミン酸などのアミノ酸の蓄積が起こるのには酸素が必要である。以上の発酵が,微生物の生命維持のために不可欠な代謝活動の結果として起こる物質の大量蓄積現象を意味しているのに対し,ペニシリン,ストレプトマイシンなどの抗生物質は,それらを生産する微生物自体にとっては必ずしも必要でない微量の二次代謝産物であるが,このようなものの微生物による生産も発酵生産という言葉で表現される。要するに,微生物の機能を物質生産に利用することを広く発酵ということが多く,石油などの炭化水素を分解して増殖する微生物を利用してなんらかの有用物質を生産しようとする場合には,生産物の名によらずに炭化水素発酵という語が用いられている。このような物質生産のための発酵においては,特定の機能をもった微生物の純粋培養に頼るのが通例であるが,醸造食品などにおいては,複数の微生物の増殖を人為的に制御しながら良質の風味を得るための発酵が行われている。日本酒醸造において,コウジカビのアミラーゼによってデンプンを糖化しながら,同時に生成する糖を酵母によってアルコールに変化させるのはその典型で,平行複式発酵といわれる。
→酵素
執筆者:別府 輝彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
微生物の作用によって有機物が分解され、より単純な物質に変化する反応のうち、無酸素的に行われるものをさしたのが、発酵の最初の定義であった。しかし、最近では酸素の存在下で進行する反応も発酵とよばれることがある。この定義に当てはまる反応をすべて発酵とよぶわけではなく、有害な反応である腐敗は除外し、とくにその作用が人間にとって有用である場合を発酵とよんでいる。代表的なものは、酵母の作用によって糖からアルコールと炭酸ガスが生じるアルコール発酵である。そのほか乳酸発酵、酢酸発酵、アミノ酸発酵など多くの発酵現象が知られている。また、複数の胃をもつウシやヒツジなど反芻(はんすう)動物の第一胃の中で、原虫や細菌の作用によって行われる発酵があり、これをルーメン発酵とよぶ。発酵は生化学的にみて、呼吸や光合成と並ぶ生物のエネルギー獲得の一形式と理解されるが、それは微生物のもつ酵素によって触媒される化学反応である。特殊な例としては、紅茶とウーロン茶がある。チャの葉に含まれる酵素の働きを十分に活用して製造したのが発酵茶(紅茶)であり、酵素の活性を途中で止めてつくるのが半発酵茶(ウーロン茶)である。
人類は古来、酒、酢、チーズ、乳酸飲料など醸造食品の製造に微生物の発酵現象を利用してきたが、発酵が何によっておこるかについては長い間不明で、神秘的なものとされてきた。発酵の学問は酒、とくにぶどう酒の研究から始まった。すなわち、経験を頼りに行われていたぶどう酒製造がヨーロッパで大きな産業に成長するとともに、発酵の原理を明らかにして、よりうまいぶどう酒を安定的に生産したいという要求が高まってきたのが、その動機であった。近代化学の父といわれるラボアジエに始まる定量的化学分析法が、まずアルコール発酵のベールの一枚をはがした。ラボアジエは、ブドウ糖がアルコールと炭酸ガスに分解する現象がアルコール発酵であることを発表し、19世紀の初期にはゲイ・リュサックやJ・B・A・デュマによって、1分子のブドウ糖から2分子のエチルアルコールと2分子の炭酸ガスが生成するアルコール発酵の化学方程式がつくられた。しかし、この化学変化が何によっておこるかはなお不明で、多くの学者の間で論争が繰り返された。この論争にくぎりをつけ、発酵は特殊な微生物の作用によっておこる現象であることを明らかにしたのは、パスツールである。彼はアルコール発酵、乳酸発酵、酢酸発酵などの研究を通じて、これらの発酵現象がそれぞれ固有の微生物の働きによることを疑問の余地なく証明し、発酵は無生物の触媒作用によっておこると主張していたベルツェリウスやリービヒら化学者の説を否定した。パスツールの死後、ブフナーは1897年、完全に擦りつぶした酵母の抽出液でもアルコール発酵がおこることを発見し、発酵が酵母細胞中にある酵素の触媒作用によることが実験的に示された。その後、20世紀初頭にかけて、ハーデン、S・ヤング、ノイベルクCarl Neuberg(1877―1956)ら多くの酵素化学者により酵母抽出液から発酵に関与する酵素や補酵素が次々と発見・分離され、それに伴ってアルコール発酵の機序が細部にわたって明らかになった。
[山口雅弘]
無酸素状態で進行する本来の意味の発酵としては、酵母によるアルコール発酵、乳酸菌による乳酸発酵、酪酸菌による酪酸発酵・アセトンブタノール発酵、プロピオン酸菌によるプロピオン酸発酵、メタン細菌によるメタン発酵、大腸菌による混合酸発酵がある。他方、酸素の存在を必要とするものとしては、酢酸菌の酸化能力によってアルコールから酢酸を生ずる酢酸発酵が代表的な例である。これはエネルギーの獲得形式からいうと狭義の発酵には当てはまらないが、微生物の働きによって大量の有用物質が生産されることから同様に発酵とよばれ、酸化発酵ともいわれる。また、コリネバクテリウムCorynebacteriumによるアミノ酸発酵や多くのカビによる有機酸発酵なども、酸素の存在が必要である。
以上が微生物の生命維持に不可欠な代謝活動の結果、大量の有用物質がつくられる発酵現象であるが、これに対してペニシリンやカナマイシンなど抗生物質は二次代謝産物であり、それらを生産する微生物にとって必要不可欠なものではない。しかし、これは産業上きわめて重要な意味をもち、発酵生産とよばれている。つまり、今日では微生物の力を借りて有用物質を生産することを広く発酵とよんでいるわけで、物質生産を目的とした発酵では特定の微生物を純粋培養して用いるのが普通である。醸造の場合は同じ発酵現象を利用するにしても、複数の微生物の増殖を人為的に制御して製品を得る点でほかと異なる。しかし、最近では醸造においてもバイオテクノロジーを利用して特定の微生物を改良したり、微生物を固定化した装置を用いるなどして生産の効率化、風味の向上を図る試みが盛んに行われており、発酵と醸造の厳密な意味での区別はなくなりつつある。
[山口雅弘]
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(垂水雄二 科学ジャーナリスト / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
微生物の行う化学反応を利用して物質生産を行う工程.本来は,炭水化物が微生物によって無酸素的に分解されることをさした.アルコール,酒類,みそ,しょう油,抗生物質,抗がん剤,有機酸,アミノ酸,酵素,生理活性物質,核酸関連物質などの製造に利用されている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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[人類と酵素の出会い]
酵素が上記のような物質であることは,今日誰でもよく知っている。酵素はその名が示すように,もともと発酵という自然現象と密接なかかわりをもっており,酵素の存在も,また実体も知られていなかった大昔に,すでに人類に日常利用されていたのである。酒,チーズ,みそ,しょうゆなどの各種発酵食品を製造するにあたり,材料としての米,麦,牛乳,大豆,あるいはブドウやリンゴなどの果実の品質の選定はもちろんのことながら,発酵に関与する微生物の菌株の選定,また発酵時の温度,水素イオン濃度(pH),酸素分圧などの諸条件の設定を,永年の経験から適切に行い,風味豊かな良質の食品や飲料を巧みに生産していたのは,まさに驚嘆に値する。…
※「発酵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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