西の
昭和一八年(一九四三)に軍需工場建設の土取工事によって発見された。主要な発掘調査は同二二年の登呂遺跡調査会、同二三年・二四年・二五年の日本考古学協会登呂遺跡調査特別委員会、同四〇年の県教育委員会・静岡市教育委員会によるものなど、遺跡公園内で六回実施されており、遺跡整備のための発掘調査が現在も進められているほか、公園外でも数回の調査が行われた。最初の発見時の調査は戦時中のことであるが、すでに水田跡の存在が指摘されている。昭和二二年から同二五年の発掘は敗戦直後の調査であったが、考古学・地理学・土木学・動物学・植物学・農政学・建築史の第一線の研究者が学際的な組織を構成、調査補助の学生も各大学から参加し、地元からの積極的な援助もみられるなど、調査態勢そのものも戦後の学界の一つの画期をなした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
静岡市駿河(するが)区登呂5丁目にある弥生(やよい)時代後期の農業村落址(し)。1943年(昭和18)軍需工場建設工事の際に偶然発見され、同年および1947~1950年と1965年に発掘調査が行われた。遺跡は、沖積地の自然堤防上に立地する集落址と、後背低湿地の微高地を利用した水田址、さらに森林址とから成り立っていた。住居址は平地住居で、12軒が完全な形で発掘された。平面形態は小判形を呈し、周囲に羽目(はめ)板で土留めをした土手を巡らしていた。倉庫は住居址群のなかに4本柱のもの2棟が存在した。その形態は、残存していた木材や銅鐸(どうたく)絵画などから、高床(たかゆか)式の切妻(きりづま)造りと推定され、一木造りの梯子(はしご)や鼠返(ねずみがえ)しなどが備え付けられていた。水田址は集落の南東に接する低湿地に存在し、7万5000余平方メートルにわたって広がっていた。木杭、矢板などを並べてつくった畔(あぜ)により区画され、堰(せき)を設けた水路が南北に走っていた。遺跡からは、丸木弓(まるきゆみ)、鹿角(ろっかく)製釣針(つりばり)などの狩猟・漁労具をはじめ、木製の剣・鍬(くわ)・鋤(すき)・田下駄(たげた)、石包丁、双手槽(もろたぶね)、丸木舟、臼(うす)、竪杵(たてぎね)、砧(きぬた)などの農具、建築用材、織機、五弦琴、土器、指輪形・腕輪形銅製品などの装飾品など、登呂の人々の日常生活をかいまみるような貴重な遺物が多数出土した。
登呂遺跡は、敗戦直後の日本では異例の大規模かつ組織的な調査がなされ、これを契機として考古学者の組織である日本考古学協会が設立されるなど、学史的意義が大きい。弥生時代の東国の農耕形態を解明するうえで、奈良県唐古(からこ)遺跡、佐賀県吉野ヶ里(よしのがり)遺跡とともにもっとも重要な遺跡である。1953年特別史跡に指定された。1972年市立登呂博物館が開館、復原住居・倉庫もある。
[大塚初重]
『日本考古学協会編『登呂』(1954・毎日新聞社)』▽『大塚初重・森浩一編『登呂遺跡と弥生文化』(1985・小学館)』
静岡市駿河区登呂に広がる弥生後期の農業集落遺跡。遺跡のある静岡平野の西側一帯は安倍川の扇状地が形成され,先端部の各所に発達した微高地に面する低地は湧水帯をなす。登呂遺跡はこの地形的特徴を利用して,微高地上を居住域,低地を水田とした遺跡。第2次大戦中の1943年(昭和18)軍需工場建設にともなう工事でおびただしい数の矢板や杭列が発見され,大量の遺物が出土。この年の緊急調査で弥生後期の集落および水田跡であることが判明。戦時下で十分な調査はできず,本格的調査は戦後にもちこされた。47年,登呂遺跡調査会が組織され,考古学・民俗学・社会学・地理学・建築学・動植物学・古代史・農学など各分野の研究者によって学際的な総合調査が行われた。学史的にも重要な遺跡。これまで6回にわたる調査では,遺跡北西に弥生後期の住居跡12軒,倉庫跡2棟が検出され,南東部に水田跡が展開していることが明らかになった。住居は楕円形平地式で,周囲に幅2mほどの周堤をめぐらし,この内側に土留め板,外側に杭が打ちこまれていた。住居内からは炉跡と4本の柱穴が確認され,柱穴内に礎板をおく。倉庫跡は1間×1間の高床式の掘立柱建物で,鼠返しや梯子などを検出。第1次調査では,集落の南西部から森林跡が発見され,そこに高床式倉庫があったとされるが,これが集落と同時期のものかは不明。水田遺構は畦畔(けいはん)・水路によって区画され,約49面以上とされる。水田面積は最大2396m2,最小375m2で,この時期の全国の水田例とくらべ,かけはなれて広い。水路跡では堰(せき)や樋などの施設が確認され,当時の灌漑技術の高さを示す。遺物は土器・木器・石器・金属器・骨角器・織物・玉類など膨大な量にのぼるが,とくに木製品は鉢・高坏(たかつき)・盤・椀などの容器類,杓・匙(さじ)・腰掛・下駄・発火具・機織具などの日用品,弓・木刀・木剣など武器または祭祀用具,平鍬・馬鍬・鋤・臼・杵・田下駄・田舟など農耕具,柱・板・鼠返しなど建築材など種類が豊富で,弥生時代の生活を復原するに十分な内容をもつ。出土土器は登呂式土器と命名され,弥生後期前葉の標式とされる。国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
JR静岡駅の南東2.5km,安倍川扇状地の末端,静岡市駿河区登呂に立地する弥生時代後期(3世紀前半)の遺跡。1943年軍需工場の建設工事中に発見され,戦後学界をあげてこの遺跡の調査に取り組む気運が生まれ,47年から50年にかけて歴史に残る一大発掘調査が行われた。その成果は,報道,教科書,各種出版物等を通じて,国民に広く浸透していった。その後65年に東名高速道路建設工事のため,遺跡の南縁が調査された。登呂遺跡の特徴は,まず杭列や矢板列によって区画された水田跡の発見である。東西250m,南北400mの範囲で,南北の水路の両側に約40面の水田区画が確認された。水田跡の北西側には,住居跡12棟分,高床倉庫跡2棟分,それに森や井戸跡も見つかった。また,農具をはじめとする木製品の出土も特徴のひとつである。これらが全体として当時の農村の実態を如実に示すものとして,1952年特別史跡に指定された。
執筆者:向坂 鋼二
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…市街地南方の高松低地は,沿岸の砂礫州と扇状地との間の閉塞された低湿地で,かつては潟湖状の地形であった。ここに位置する弥生後期の登呂遺跡(特史)は水田遺構で有名であるが,約2000年前に安倍川の洪水によって集落が放棄されたと考えられている。 江戸初期,駿府(すんぷ)の街づくりの際,安倍川のはんらんから守るため,甲州流の霞堤とよばれる方式で築堤された薩摩土手は今も川の東岸に残っている。…
…遺跡以外の上屋の復原資料も少なく,外観を示すものとして奈良県佐味田宝塚古墳出土の〈家屋文鏡〉と呼ばれる銅鏡の背面彫刻と,奈良県東大寺山古墳出土の鉄刀環頭柄頭の彫刻だけしかない。関野克は中国地方の製鉄場として伝承される高殿(たたら)の構造が,竪穴住居の平面や外観と合致しているところから,高殿の形式を参考にして登呂遺跡の住居を復元した。その上屋は,4本の掘立柱の上部に梁(はり)を置き,その上に斜めに扠首(さす)を組んで棟木を支え,棟木と梁から周囲の地面に向けて垂木(たるき)を渡し,これを骨組みにして,上に茅の屋根を葺くという構法である。…
…それらに近い条件の山間の小谷も古くより田として利用された可能性がある。第2次大戦後,登呂遺跡をはじめ多くの水田遺構が発見されている。登呂の水田遺構は周辺の低湿地より高い所にあり,田の区画は多数の杉の割板を打ってあぜを作り,人工の水路をせきとめて灌水する形式となっている。…
※「登呂遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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