大正・昭和期の眼科医学者 東京帝大名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
眼科学者。東京生まれ。1905年(明治38)東京帝国大学医科大学卒業、陸軍軍医を志願し、翌1906年陸軍二等軍医となる。1908年東京帝国大学大学院に入り、眼科学を専攻、1910年陸軍軍医学校教官となり、1912年(明治45)ドイツに留学、眼科学を研究し、1914年(大正3)に帰国。1916年学位を取得。1922年、陸軍一等軍医正のまま東京帝国大学教授となり、医学部眼科学教室を主宰、1940年(昭和15)退職。眼科学に関する多くの研究論文を発表したが、それらのなかでも色覚異常(色盲)に関する研究はもっとも優れており、「色覚検査表」は世界的に知られ、「石原表」と称されて広く使用されている。1941年には「色盲の研究」により帝国学士院賞を受け、1957年(昭和32)日本学士院会員に選ばれ、1961年文化功労者に推された。
[大鳥蘭三郎]
眼科学者。東京生れ。東京大学卒。軍医となったのち,1908年東大大学院に入り眼科学を専攻。ドイツに留学,陸軍一等軍医正(のち軍医少将)の資格のまま22年東大教授となり,在任18年に及び,その間医学部長にも就いた。選兵方法改善という自らの現実的な課題もあって,視力表と色盲表の研究にとり組み,〈日本視力表〉〈石原式色盲検査表〉を確立し,後者は1917年欧文でも公表され,国際的にも認められ,主として色覚検査のスクリーニングに用いられている。ほかに眼科学全般に及ぶ業績があり,その教科書は広く用いられた。朝日賞・学士院賞受賞,日本学士院会員,文化功労者。東京逓信病院院長,前橋医学専門学校校長などに就いたが,戦後は静岡県河津町で開業のかたわら,近視眼予防のための仮名文字の研究を続けた。物理学者石原純は弟にあたる。
執筆者:長門谷 洋治
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…この小体は,1907年にプロワツェクStanislaus Joseph Mathias von Prowazek(1875‐1915)らによって発見され,トラコーマの病原体であると推定されたものである。その後,この考えに疑義が出されたが,石原忍らは37‐41年に,プロワツェク小体によりトラコーマが生ずることを証明した。現在,プロワツェク小体はクラミディアの1種によるものとされている。…
※「石原忍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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