中国に起源する刻石の一種。人の事績を顕彰し、後世に残すために石に刻して立てた「いしぶみ」をいう。碑は一定の形制を備えた方形板状の刻石をいい、碣は碑形をなさない刻石で、円形や自然石に近いものをいうことが多いが、広義にはこのほか摩崖(まがい)、造像、題名、墓誌などを総称して碑といい、また碑碣と総称することもある。碣の出現は碑よりも先行し、戦国・秦(しん)時代とみられ、戦国末期の『石鼓』や秦の始皇帝の刻石などは碣の類である。
碑の起源については、確かなことは知られていない。文献によれば、〔1〕宗廟(びょう)の門内に立てて犠牲(いけにえ)をつなぐもの、〔2〕墓穴のわきに立てて棺(ひつぎ)を下ろすのに使う柱、〔3〕宮中や学校に立てて日影を測る日時計、の3説があるが、碑に文章を刻するようになったのは漢代になってからといわれ、現存するもっとも古い碑と考えられているのは137年(永和2)の『敦煌太守裴岑紀功(とんこうたいしゅはいしんきこう)碑』で、後漢(ごかん)の『北海相景君碑』(143)がこれに次ぐ。漢碑(かんぴ)の形制は、碑身の首部(碑首)が三角形のもの(圭首(けいしゅ)または尖首(せんしゅ))と円いもの(円首)の2種があり、碑身の上部には穿(せん)とよぶ孔(あな)があって、碑身は方趺(ほうふ)という方形の台石の上に立っている。碑首には篆書(てんしょ)で書かれた題字(篆額)があるのが普通である。円首の碑には、碑首に三筋ほどの虹(にじ)形の溝が彫ってあり、これを暈(うん)とよぶ。穿は犠牲をつないだ孔、あるいは棺を下ろすときに滑車の軸を通した孔の名残(なごり)で、暈は滑車を滑る縄の形をなぞったものと推測されているが、いずれも詳細は不明である。碑の裏面(碑陰)には、立碑の際に費用を出し合った人々の名を刻することが多い。
漢末から魏晋(ぎしん)にかけ、厚葬の取締りに伴い立碑は禁じられたが、南北朝時代になると圭首はなくなり、穿もほとんどみられなくなる。また、円首の暈も一対の螭(みずち)という竜に変わって、これを螭首(ちしゅ)といい、台石は亀(かめ)の形をかたどった亀趺(きふ)が現れる。唐代には碑はますます盛んとなり、巨大なものがつくられるとともに、碑側や方趺に豊麗細密な浮彫りが施され、宋元(そうげん)以降は螭首亀趺の碑が典型とされた。碑の文字は中国の各時代にもっとも荘重に書かれた正式書体であり、書学の根本資料であるが、またその文章も歴史学、文学、経学などの重要な基礎資料である。
[筒井茂徳]
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中国で文章を刻して記念とする立石の2形式。碣の方が古く,断面が円みを帯び上部に比べて下部の太い石を立て,その表面に文章を刻した。秦の始皇帝の刻石や高句麗の好太王陵の刻石がその実例。碑は廟門の前に立て犠牲獣をつないだ石,または墓に立て棺を地下に降ろすのに用い石に文章を刻したのが起源だといわれ,断面は長方形である。後漢の中ごろから始まり隋・唐時代に極盛に達し,螭首(ちしゆ)(碑の頭部に向かいあった一対の竜を刻す)亀趺(きふ)(亀の台座)を備えるのが後世の定形となった。
執筆者:日比野 丈夫
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