中国,周代の嬴(えい)姓の諸侯。戦国七雄の一つ。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。また秦は法律による統治を理想として,法家思想に基づく信賞必罰主義をとった。急激な変革,厳しい法による人民支配の強化から,2代目皇帝胡亥即位の翌年(前209)早くも農民反乱(陳勝・呉広の乱)を招いた。やがてその反乱は全国各地に波及し,項羽,劉邦(漢高祖)の挙兵につながり,最終的には前207年,統一後わずか10余年で滅亡した。
伝説では,秦の先祖は顓頊(せんぎよく)の子孫で,舜に嬴という姓を賜り,周の孝王(前900前後)のとき,一族の非子が秦の地(甘粛省清水県秦亭付近)を与えられたという。ただ周以前の嬴秦一族の来源については,その祖先が西方異民族であったとする説と,最初は山東省付近にいてやがて西へと移住していったという説の2説がある。前770に周の平王が,周室を助けたという功績により,秦の襄公(前777-前766)に岐山以西の土地を与えて封建したことでもって周王朝下の諸侯の一員となる。文公(前765-前716)のときには,汧水(けんすい)と渭水が合流する付近に都を置いたが,勢力の拡大とともに春秋時代には平陽(陝西省岐山県南西),雍(よう)(陝西省鳳翔県南)に置かれた。なお首都はその後,涇陽(けいよう)(陝西省涇陽県),櫟陽(れきよう)(陝西省臨潼県付近)と移り,最終的には前350年(孝公12)に咸陽を都と定め,これが秦滅亡まで首都となる。
春秋時代における秦は,他の中原の諸侯国に比べて後進国に属していたが,それが飛躍的に発展拡大したのが9代目の君主穆(ぼく)公(前659-前621)のときである。穆公は百里奚(ひやくりけい),蹇叔(けんしゆく)などの賢臣を任用して国政を整えるとともに,東方では晋の内乱に乗じて河西の地を奪い,領土は黄河沿岸に達した。一方,西方においては西戎を討ち領土拡大につとめ,中原の諸侯に匹敵する力をもつに至る。その後,秦の発展は小休止するが,戦国時代に入り,前361年に孝公が即位すると秦は再び国力を充実し,強大国へと発展した。その発展に寄与したのが,衛出身者の商鞅(しようおう)である。孝公によって任用された彼は,世に〈商鞅変法〉と称される内政の大改革を断行した。その内容は,軍功に照らして爵位を賜与し,爵位に従って田宅を分与するという富国強兵政策である。従来の血縁的結合を分断して分家を強制するとともに父子兄弟の同居を禁止し,新たに連座制のうえにたつ五人組を編成するという人民の個別的支配の確立,さらには土地区画を整理し,県制を施行して県令・丞を設置するという中央集権体制の設置などである。これらの改革がはたしてその通りの内容をもって実行されたかどうかは疑わしく,多分に統一後の政策に仮託された部分があるにちがいないが,商鞅が行った富国強兵政策により,秦が急速に国力を充実し,戦国七雄にのしあがったことは確かである。その後,蘇秦,張儀などが提唱した〈合従連衡(がつしようれんこう)策〉は,この強国秦に対応する中原六国の防衛手段にほかならない。
春秋時代末期から戦国時代にかけての秦の発展の要因として,一つには,秦が騎馬戦術をいちはやく導入したことがあげられる。騎馬戦術は元来,中国にはなかったもので,それは西方異民族の戦術であった。秦は建国当初から西方に位置し,また異民族との交戦を経ることにより,中原諸国に先んじてこの軽装騎兵による戦闘方法を輸入したのである。近年,始皇帝陵の東,臨潼県で発掘された秦の軍団(兵馬俑)は,軽装騎馬の軍隊を如実に物語っている。第2は,秦が積極的に他国から移ってきた者をうけ入れ,彼らを利用して内治外交に利用したことである。百里奚,蹇叔,商鞅はすべて他国出身者であり,また統一直前に懸案となる外国人追放令(逐客令)に反対した李斯(りし)の意見書には,秦が他国出身者の功績でいかに発展してきたかが詳しく述べられている。
第3は,秦が春秋時代から戦国時代にかけての社会変動のなかで,いちはやく旧体制から脱皮して新しい国家体制を築きあげたことである。周王朝は一族・功臣を諸侯として各地に分封し,その地域の氏族の支配を世襲的に行わせるいわゆる封建制という支配体制をとっていた。それは,血縁関係によって結ばれた集団(氏族集団)のうえにたち,支配者のみならず被支配者も氏族制を基盤とする。ところが春秋時代から戦国時代にかけてこの氏族制が大きく動揺しはじめたのである。春秋時代以前においては,農民は耕作地の限定,農具の未発達から氏族集団内での生活を余儀なくされていたが,春秋末期から鉄製農具の出現,牛耕の発達により開墾地が拡大し小家族単位の農業が可能になるにしたがって,氏族制による共同体から離脱しはじめた。一方,支配者である諸侯,およびその臣下においても,春秋期から始まった抗争によって彼らが基盤とした氏族結合が解体され,氏族構成員は拡散して有力者(のちの戦国七雄)のもとに賓客として身を寄せることになる。有力者はこれらの賓客に軍隊の指揮,地方の統治を任せ,新しい開拓地を建設する一方,氏族結合から離脱してきた農民に農具を支給し,また彼らを軍隊に編制した。そこに新しい官僚群のうえにたつ,強権をもった君主が登場し,これまでの封建諸侯国とは異質の中央集権国家が誕生することになるのである。
商鞅が行った改革は,まさにこの氏族制,封建制からの脱皮であり,秦がかかえた亡命者とは,氏族構成員から離脱してきた者にほかならない。氏族制解体の変動期において,各諸侯国はそれぞれに自己改革を進めたのであるが,なかでも秦は最もはやく,また最も徹底して氏族制度からの脱皮を成し遂げたことが統一秦帝国を生む大きな要因となったのである。なおその場合,秦が他の有力諸侯国に比べて文化的には後進国であったことが逆に改革を速やかにさせ,その改革のイデオロギーとなった後述の法家思想の運用を容易にさせたといえる。
前246,父の荘襄王を継いでわずか13歳の秦王政が即位した。一説には政は,荘襄王即位を画策し即位とともに丞相となった呂不韋の子であるともいう。即位後,政は嫪(ろうあい)の乱(前238)を平定し,前235年にはその主謀者であった呂不韋を自殺に追い込み,実権を一手に握って各国攻略に力を注ぐ。前230年に韓,前228年に趙,前225年に魏,前223年に楚,前222年に燕とつぎつぎに滅ぼし,前221年の斉の滅亡で秦の中国統一が完成した。
統一後,秦王政がまず最初にしたことは,君主の新しい称号の制定である。これまで君主は王,天子などと呼ばれ,それは天帝の命をうけて人民を統治するものという意味であった。しかるに秦王政は新しく〈皇帝〉という称号を定めたのである。煌煌たる上帝(光り輝く絶対神)という意味をもつこの皇帝は,つまり天帝そのものであり,地上における絶対者にほかならない。以後,皇帝は君主の称号として清王朝まで続くことになる。また秦王政は初代皇帝として諡法(しほう)を廃して始皇帝となったのである。
自己の地位を明確にした始皇帝は,中央集権体制の確立のため諸々の政策を実施するが,その中で最初にあげねばならないのは〈郡県制〉の制定である。全国を36の郡に分け,それぞれの郡には守(長官),丞(副長官),尉(軍指揮官),監(監察官)などの官吏を中央から派遣し,郡の下には県を置いて同様に中央派遣の県令(大県)もしくは県長(小県)を長官としておいた。この郡県制の設置は,周から続いてきた封建制と決別したことを意味する。中央官制としては,丞相,太尉,御史大夫という三公の下に官僚体系を整備して中央集権国家体制を完成させ,この体制が次の漢王朝に引き継がれることになる。この他,始皇帝がなした統一事業としては,度量衡の統一,貨幣の統一(半両銭すなわち約8gの円形方孔の青銅貨の制定),文字の統一(篆(てん)書という書体への統一),交通網の整備,民間からの武器の没収などがあり,これらの諸政策は丞相となった李斯を中心として,法家思想に基づいて進められたのである。外政に関しては,前215年に蒙恬(もうてん)を将軍として匈奴を討ち,万里の長城を築いて異民族の侵入を防ぎ,南は華南一帯を領土に収め,また東方の朝鮮にも軍隊を進めて東アジアにおける最初の大帝国を築きあげた。秦帝国を完成した始皇帝が,皇帝としての威厳の象徴として造営したのが〈阿房宮〉と〈驪山陵(りざんりよう)〉である。1万人が座ることができるとされた広大な規模の阿房宮前殿は,現在長安の北西にその土壇の遺跡をとどめ,また長安の東,臨潼県付近には,始皇帝の陵墓である驪山陵が残っており,ともに空前の大土木工事のよすがをとどめる。
前210年に始皇帝が没すると,二世皇帝として,宦官趙高に擁立された胡亥が即位する。この時期から国内では,大土木工事,対外戦争などにおける人民の動員,農民負担の強化などが招いた農民反乱が激化しだした。前209年の陳勝・呉広の乱を最初とし,やがてそれは全国に波及して項羽と劉邦の挙兵へとつながり,秦帝国は,統一後わずか15年で滅亡したのである(前207)。秦の滅亡は,農民の抵抗が発端となったのであるが,農民反乱の背後には,戦国時代の東方6国を中心とした封建制維持を指向する残存氏族集団の抵抗が存在していた。たしかに氏族制の解体は春秋時代から進んでおり,秦による統一はそのような社会変動が生み出したものであったが,新たに生まれた中央集権的専制体制を秦はあまりに早急にまた徹底的に推し進めたため,旧体制維持勢力の結集をまねき滅亡を早めたといえる。中央集権的専制国家の定着は,次の漢王朝にまたねばならなかったのである。
始皇帝が推進した統一事業は,法家の思想でもって遂行された。法家思想とは,儒家の徳治主義に対し,法律による統治を根本手段とする思想である。儒家思想は血縁関係をその基盤とし,氏族制維持の方向にあるが,信賞必罰主義に立ち,その権勢を君主の一身に集めることを主張する法家思想は,封建制,氏族制をむしろ否定する。孝公に仕えた商鞅は,この法家思想のうえに立ち,また始皇帝に仕えた李斯は,法家思想の大成者韓非子とともに荀子のもとで学んだ法家の学の信奉者であった。その李斯によって行われたとされる思想統制〈焚書坑儒〉は,儒者が封建制復活を主張したことに端を発したのであり,旧体制への逆行を阻止するものであった。
従来,秦帝国は法家思想に基づき厳刑主義を採用したとされているが,秦の法律の内容について残されている史料はほとんどなかった。ところが1975年に湖北省雲夢県睡虎地から統一秦直前の時期のものと推定される竹簡〈雲夢(うんぼう)秦簡〉が1000枚以上発見され,秦律の実態の一部が明らかとなった(睡虎地秦墓)。たとえば,これまで秦の法律は,商鞅が魏の李悝(りかい)が作った《法経》6編を基にして〈六律〉を作り,それが漢の〈九章律〉に吸収されたといわれてきたが,雲夢秦簡には二十数種の律名が明記されており,六律のほかに付加法としての律の存在を認めねばならなくなった。ただし秦律が戦国時代の諸国法,とくに魏の法律の影響を受けていることは,竹簡中に魏律が引用されていることから疑いない。また雲夢秦簡には,各種の刑罰およびその適用,密告に関する褒賞規定などが詳細に記され,秦の厳刑主義,信賞必罰の実態を如実に物語っている。雲夢秦簡がもたらしたいま一つの成果は,漢の法律制度とのつながりである。従来,漢律は秦律を継承したものとされていたが,竹簡の発見により具体的な各種刑罰,刑罰適用理念が漢にどのように受け継がれていったのかを知る格好の史料を提供したのである。ただこの竹簡は,発見されて日も浅く,その研究も初期の段階であり,研究者の見解も一致していない。今後に研究の成果がまたれる。
清に至る歴代の各王朝は,一貫して秦に厳しい評価を下しつづけてきた。始皇帝に対しても,それは暴君の典型だとされてきたのである。その原因の一つは,秦に関する史料の性格に由来する。秦帝国について記述した歴史書の中で第一級の史料は《史記》および《漢書》であるが,この二つの正史はともに漢人である司馬遷,班固によって書かれたものである。漢は秦帝国の暴政を打倒することを大義名分として成立した王朝であるから,秦に対する評価は,当然厳しいものがある。前漢の人,賈誼(かぎ)が書いた〈過秦論〉はその代表であるが,このような漢人の秦に対する酷評が司馬遷,班固にもみられ,秦に関する記述をことさらに厳しく,またときには誇張して書かれたことは否めない。たとえば,中国では五行思想により各王朝が五行(木火土金水)の一つを自己のよってたつ基本として,それに相応する制度を採用する。秦の場合は,始皇帝が水徳を採ったと《史記》では記す。しかしこれは,水=陰=刑罰から導き出された漢代の説であって,厳刑主義をとった秦を非難する意味がそこに込められ,司馬遷もその影響を受けて秦水徳説を記述したのである。秦に対する酷評のいま一つの原因は,儒家の立場から導き出されたものである。漢になると儒学が国家の認めた学問として制度化され,以後中国では清に至るまで儒家思想が勢力をもちつづける。秦が採用した法家は,表面上は儒家とまっこうから対立し,儒学が中心となる中国の各王朝は,そのことより秦に対して厳しい評価を下してきたわけである。
秦帝国が果たした中国史上の役割を,こういった制約から離れてみてみると,やはり中国最初の統一王朝であり,それまでの封建制社会に終止符を打ち新しい中央集権国家を築いたこと,および秦が採用した各制度がモデルとなって各王朝に継承されたことは認めねばならない。秦に続く漢王朝が採った政策は,ほぼ秦の制度の踏襲であった。たとえば漢は〈郡国制〉を定めるが,これは秦の郡県制に王国という封建制の名残を加えたものにほかならず,その骨子は郡県制と変わらない。また漢も秦と同じく三公の下に官僚体系を設けるが,その構造および個々の官職は秦のそれとほとんど変わらない。さらに漢において非難された刑罰についても,漢で採用された律文,刑罰名等々は秦の制度を踏まえたものであった。漢以後の歴代王朝は,漢を模範としそれを継承することをたてまえとした。ところがその漢の制度は,ほぼ秦の制度を継承したものであり,その意味で秦が成し遂げた中央集権的国家体制は,後につづく各王朝に少なからず影響を与えたわけである。
執筆者:冨谷 至
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中国、周代の侯国の一つで、のち中国最初の統一王朝(?~前207)。
[好並隆司]
神話伝説から歴史事実とみられる移行期は非子の記載のあるころとみられる。周の孝王は大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、嬴(えい)氏を名のらせた。襄公(じょうこう)は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山(きざん)(陝西(せんせい)省岐山県北東)以西の地を与え秦公とした(前771)。このとき犠牲を用いて上帝を祀(まつ)ったが、これは西戎(せいじゅう)の習俗に由来する。文公のとき、渭水(いすい)と水(けんすい)の合流点あたりに都を移し「三族の罪」を決めた。人が罪を犯したとき父母、妻子、兄弟まで連座する法律である。君主権の伸長を示すとともに戎翟(じゅうてき)の慣習を法制化した面もある。寧公2年(前714)には都を平陽(陝西省鳳翔(ほうしょう)県南西)に移した。そののち武公10年(前688)に邽(けい)、冀(き)の戎を討伐し、ここに初めて県を置き、杜(と)、鄭(てい)を県としている。徳公のとき雍(よう)(陝西省鳳翔県)に都したが、繆公(穆公)(ぼくこう)のときに飛躍的にその勢力を強めた。繆公は百里奚(ひゃくりけい)や由余を登用し、秦の進むべき道を指し示した。百里奚はもと虞(ぐ)の大夫であり、繆公の招請によって臣下となった。由余は晋(しん)の人であるが、当時、戎王の下にいたのを策略をもって臣従させた。このように客臣を用いて君主の指導力を強める方針は秦の伝統となった。由余は礼楽法度(れいがくほうど)を退けて上下一体の戎翟の社会をモデルにするよう繆公に勧めている。君主権を抑制する宗族(そうぞく)や貴族の勢力を削減する道である。このなかで強大となった秦は河西の地を占め西戎の地を伐(う)ったので、その領土は方千里に達したという。繆公は死んだとき多くの殉死者を得たが、それは生前、臣下と約束していたからである。つまり、君主が部下を私臣として自由に扱うということで、秦の君子たちの非難を受けているが、これも君主権伸長の一標識である。
[好並隆司]
秦はその後、国内で争いを起こし東方発展の力はなかった。しかし、紀元前403年、晋が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)に分裂したので、献公は櫟陽(やくよう)(陝西省臨潼(りんとう)県東)に都を東遷して、東方経略を図った。その子、孝公は、諸侯でありながら戎狄(じゅうてき)と蔑視(べっし)されて東方の会盟に加わることができなかったので憤りを感じ、自国を強化して東方諸侯に力を示そうと考えた。そこで広く人材を求め、富国強兵を実現しようとした。魏から衛の公族出身の公孫鞅(おう)(後の商鞅)が来朝して、帝王の道、王道、覇道という順序で孝公に自説を述べている。前二者は回りくどいという点で孝公は用いなかったが、覇道は孝公を感銘させた。商鞅は覇道を実行することがやがて帝王の道(尭(ぎょう)の統治)に至る道程と考えていた。孝公に抜擢(ばってき)された商鞅は信賞必罰を核として、農業、戦闘の成果を計って授爵し、有爵者だけが評価される身分制社会をつくりだした。そして隣=伍家(ごか)という共同体(小宗族的)単位を基礎として国家に協力するという体制を什伍(じゅうご)制として施行した。これは君主が「伍」を把握するもので、中間的勢力を抑制して家父長的権力の伸長を計るものであった。その「伍」を単位として「聚(じゅ)」がつくられ、その上に「郷」「県」が行政単位として成立する。後の郡県制につながる県制は商鞅によって初めて設定された。阡陌(せんぱく)制を開いたのも彼であるが、これは小型家族の創設政策である「分異法」によって析出され、野を開拓した子弟の土地を整理するために設けられた東西の土地区画線と考えられるが、諸説あってなお定説はない。商鞅変法は第一次、第二次と施行されるが、この第二次変法は都を咸陽(かんよう)に移してのち行われている。咸陽はそれ以後、秦の滅亡するまで首都であった。
孝公は変法で強力となった国力で東征を展開し、河西の地を魏から奪回した。魏はこの敗戦の結果、都を安邑(あんゆう)(山西省候馬(こうま))から大梁(たいりょう)(河南省開封)に移さざるをえなかった(前340)。この秦の東征は東方諸国に大きな脅威を与えた。蘇秦(そしん)、張儀(ちょうぎ)らの有名な合従連衡(がっしょうれんこう)などの妥協策や対抗策はすべて秦を中心に考えられた外交政策である。孝公の死後、秦では恵文王が継ぎ、もともと仲のよくなかった商鞅を誅殺(ちゅうさつ)するが、政策の基本である君主権の伸長という方針はこれを踏襲した。そして、ただちに中原(ちゅうげん)に覇を唱えるのでなく、なおいっそう国力の基礎を強固にするため、巴蜀(はしょく)(四川(しせん)省)を制圧し、楚(そ)に属していた漢中を領有した(前312)。さらに昭王の時代には揚子江(ようすこう)を南渡し、将軍白起(はくき)は楚の首都郢(えい)(湖北省江陵県)を陥落させた。東方では魏の河東地方を併合し、范雎(はんしょ)を用いて遠交近攻策を駆使しつつ、長平において趙国に致命的な打撃を与えた(前260)。昭王はやがて西周を滅ぼし、東周君も秦の荘襄王(そうじょうおう)子楚(しそ)によって滅ぼされ、周王朝はここに形式上も終焉(しゅうえん)した(前249)。
[好並隆司]
荘襄王子楚の子が秦王政である。彼は年少で王位についたので、太后や丞相(じょうしょう)呂不韋(りょふい)らが政治権力を握っていた。しかし、太后の愛人、嫪(ろうあい)を誅(ちゅう)し(前238)、を太后に推薦したことによって呂不韋も政権の座から追放して、ついに秦王政が親政することになった。それ以後、彼は丞相に李斯(りし)を用い、法家主義的政策を採用して、宗室、貴族の勢力を抑制しつつ、専制的皇帝権力を樹立した。その間、王翦(おうせん)らの将軍を派遣して各国を征服し続けた。韓王国の滅びたのは前230年であるが、以後、10年間に他の5国も次々と秦国の力の前に屈服した。そして中国全土を統一の権力が制覇することとなった(前221)。これが秦帝国である。彼は秦帝国の永遠なることを希望して始皇帝と称し、万世に至らんと願った。彼は丞相、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)を配置して、行政、軍事両面における皇帝の補佐役とした。地方統治形態は封建制でなく、商鞅以来の郡県制をとり、全国を36郡に分け、郡には守、尉、監を、県には令、長などを置き、軍事は県尉にゆだねられた。全国を集権化する必要上、度量衡、貨幣、文章書体などを一定にする措置がとられた。そして、反乱を防ぐため武器を集めて溶融し「金人」としたという。北は匈奴(きょうど)防衛のため長城を設け、南は華南、東は朝鮮までもその勢力範囲を伸長した。イデオロギー統制にも力を入れた。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は著名な事件であるが、農芸、医薬、卜占(ぼくせん)などを除くすべての書籍を焼いたようにいわれている。しかし、官庁に保管していた儒家の経典など諸子百家の文献は残されていた。それらを私的にもち流布させることによって秦朝の諸政策を非難する動きを抑制するのが焚書のおもなねらいであった。坑儒も始皇帝を誹謗(ひぼう)した方士たちと、それに関連した儒者が処罰されたのであって、儒家の抹殺という徹底したものでなかったことは注意を払っておく必要があろう。
この壮大な帝国はアジア世界において最初の大規模な領域をもち、秦の名は遠く西方世界にまで伝播(でんぱ)された。支那(しな)(チャイナ)の名称の起源は秦(チン)にあるという説があったのもそこに由来するであろう。しかし、秦の法家的威圧は、なお強い勢力をもつ貴族や小宗族を基礎とする農民各層の反発を招かざるをえなかった。しかも、皇帝権力の威を示すための陵や宮殿の造築に要した労働力は莫大(ばくだい)なもので、負担は庶民に重くのしかかった。二世皇帝胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)を用いて同様の政策をとった。趙高は身分制を撤廃して君権強化を計っているが、現実との背反は激しくなるばかりであった。このころ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)らの農民反乱が起こり、それに触発されて貴族、豪傑らも反秦の旗を翻した。胡亥の後継の公子嬰(しえい)が項羽(こうう)の部将であった漢の劉邦(りゅうほう)に降(くだ)り、伝国の玉璽(ぎょくじ)を捧呈(ほうてい)して秦帝国は滅んだ(前207)。天下統一後、3代15年の治世であった。
[好並隆司]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』
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①?~前206 中国最初の統一王朝。初め甘粛東部にあり,前8世紀に周の諸侯となり,渭水(いすい)に沿って東進し,前4世紀の孝公以来急速に発展した。前256年周王室を滅ぼし,秦王政(始皇帝)のとき韓,趙(ちょう),魏,楚(そ),燕,斉の順に6国を滅ぼし,前221年天下を統一した。始皇帝は法治集権の統一国家体制をとって諸政を一新した。中央に丞相(じょうしょう)(行政),太尉(軍事),御史大夫(ぎょしたいふ)(司法)の3長官を置き,地方には封建制を廃して郡県制をしいた。思想統一(焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)),文字・度量衡・貨幣の統一を行い,北は匈奴(きょうど)を討って万里の長城を築き,南は閩越(びんえつ),南越を併せた。しかし始皇帝が死ぬと,各地に反乱が起こり秦は瓦解した。秦の版図は今日までの中国の範域をほぼ規定した。その中央集権的専制政治は歴代王朝の政治形態となった。都は前350年以降咸陽(かんよう)。
②〔五胡十六国〕五胡十六国の王朝で,前秦,後秦,西秦がある。(1)前秦(351~394)氐(てい)族の苻建(ふけん)が長安を都として建てた王朝。苻堅(ふけん)のとき一時華北を統一したが,淝水(ひすい)の戦いで敗れて崩壊した。(2)後秦(384~417)羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)が長安を都として建てた王朝。一時華北の大半を領有したが,東晋の劉裕(りゅうゆう)の北伐で滅んだ。(3)西秦(385~431)鮮卑(せんぴ)の乞伏国仁(きっぷくこくじん)が建てた王朝で,金城(甘粛)を都としたが,夏に滅ぼされた。
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中国最初の統一王朝(前221~前207)。もと周とは異なる西方の民族らしいが,前8世紀には周王朝の混乱に乗じて陝西(せんせい)一帯に勢力をのばし,周の洛邑(らくゆう)遷都を決定づけた。以後周王朝の諸侯となり,前324年に王を称し,前221年には全国を統一し皇帝を称した。その過程で東方6国に対抗し官僚制と法体系としての律を整備。これらは以後継承され発展して,唐代に日本にもたらされた。近年出土の秦律や漢律は,その継承発展の過程を具体的に明らかにする。始皇帝の命により徐福(じょふく)らが仙薬を求めた話は徐福東渡の伝説をうみ,日本にも熊野や佐賀などに伝承されている。
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…中国,戦国時代の7強国のことで戦国の七雄といい,秦,楚,斉,燕,韓,魏,趙を指す。中原の大国晋が卿(けい)(重臣)によって韓,魏,趙の3国に分割された紀元前5世紀後半になると,東方では権臣田氏が実権を握る斉,北方には旧大国の燕,西方には発展途上の秦,南方には広大な領土を誇る楚の7ヵ国が成立し終わり,世は戦国時代に入る。…
…中国,古代の時代名。周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。…
…中国の黄河中流域に位置する行政区画。戦国時代には秦の領域だったので別名を秦という。面積20万5603km2,人口3543万(1996)。…
…中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。…
…中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。…
※「秦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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