狭義に解すれば,戦時にさいして国家がとる産業・経済への直接的統制を指す。史上,最初の総力戦となった第1次大戦において,まずヨーロッパでこのような統制経済が実施された。一方,より広義に理解すれば,資本主義の歴史的発展にそくして強化される資本主義の組織化の傾向自体が統制経済を意味する。国家による経済への介入が,資本蓄積様式の変化をもたらすほどに深化した現代資本主義は,基本的に統制経済にほかならないともいいうる。ただこれら両者の出現は,歴史的にはかならずしも画然たるものではない。加えて日本のような後発国の場合には,国家の産業・経済への干渉は,工場・鉱山の官営などが示すようにその初発から強力であった。また問題を資本の自主的統制への国家の介入に限定しても,日本では明治期にすでにそのような傾向がみられた。1884年(明治17)の同業組合準則の公布や,97年の重要輸出品同業組合法の制定など,主として中小企業関係にその先駆的形態がみられる。
ヨーロッパ各国で戦時統制経済が実施された第1次大戦において,日本では統制経済はほとんど実施されなかったが,戦争末期の1918年4月陸軍の要求によって軍需工業動員法が公布されている。それは実際には発動されなかったが,日本における戦時産業統制の最初の基本法規となった。その後,昭和恐慌下で国家の経済への介入は多分に不況対策的な契機によるものとなり,産業合理化運動のなかでも企業統制による一定の効果が期待された。1931年4月に制定された重要産業統制法は,この時期の典型的な統制法規であり,同時に制定された工業組合法とともに,強制カルテル化という独占的組織の強化によって不況の克服をはかろうとした。類似の立法はイタリアやドイツにもみられたが,日本はむしろその先駆をなし,このような企業統制の強化は,やがて半官半民の形態をとる多くの国策会社の設立にもつながる。1934年1月に設立された日本製鉄株式会社もその一つである。製鉄大合同案は当初は不況対策として出発したものであったが,それは同時に産業合理化の一環としての意義をもあわせになうものであった。電力の国家管理も,その成立自体は38年4月とややのちのことにぞくするが,やはり本来は不況対策に発して,さらに生産力の新たな展開に対応すべく構想されたものであった。また,二・二六事件(1936)以降は陸軍が独自に重要産業拡充などの機密計画を策定し,1937年5月には商工省に統制局が新設され,生産力拡充がスローガンとなり,同年6月には〈生産力の拡充〉〈国際収支の適合〉〈物資需給の調整〉の財政経済3原則が発表された。
日中戦争勃発(1937)以降は,本格的な戦時統制経済の時代にはいっていくことになる。まず,1937年9月に前述の軍需工業動員法が適用されて,工場事業場管理令が公布・施行されたのをはじめ,輸出入品等臨時措置法や臨時資金調整法などの戦時統制遂行のための重要法規がつぎつぎに公布された。この戦時統制に一つの画期をなしたのは,38年4月に公布された国家総動員法であった(国家総動員)。同法は労務・物資・資金・施設・事業・物価・出版の7部門における政府の広範な戦時統制権限を規定し,その具体的施行内容のすべてを勅令にゆだねるという包括的な委任立法であった。一方,1937年10月には企画院が設置され,総合的な物資需給対策が立案されて,翌38年からは毎年,物資動員計画が策定された。〈物の予算〉といわれ,これにもとづいてしだいに民需が抑制されていった。すべての物資に配給・消費規制が強化され,41年4月には生活必需物資統制令が総動員法にもとづく勅令をもって制定されるなど,国民生活への統制も強まった。また世界的な物価高騰に対しては1939年10月価格等統制令を公布して物価統制を図った。これは物価をすべて9月18日の水準に釘付けするというもので,賃金もこれに応じて凍結された。
このように進められてきた戦時統制経済の再編で最も論議をよんだのは〈経済新体制〉である。40年7月の基本国策要綱では計画経済を,40年10月の国家総動員法11条にもとづいて公布された会社経理統制令では〈会社は国家目的達成の為,国民経済に課せられたる責任を分担することを以て経営の本義〉(2条)とするなど,企業の経営に公益優先の論理を導入し,〈資本と経営の分離〉をねらった新体制の樹立を図った。そして40年11月,企画院は〈資本と経営の分離〉〈利潤制限〉〈産業別統制機構の整備〉などを主要内容とする経済新体制確立要綱の原案を閣議に提出したが,財界,旧既成政党,小林一三商相らの強硬な反対にあい,大修正を加えて経済団体にのみ指導者原理を導入するということで,12月に公布された。この経済新体制の発足に照応して,翌41年3月には国家総動員法が大幅に改正され,それにもとづいて同年8月には重要産業団体令が公布された。これは財界などの反対にあって骨抜きにされた経済新体制確立要綱原案の具体化として,国家総動員法18条にもとづく勅令である。この勅令によって翌42年にかけて22の産業別統制会が,また一定地区別に統制組合が結成されていった。これらは完全な強制カルテルであり,いわゆる指導者原理が導入されて,会長の権限とさらにその会長の任免権を掌握した主務大臣の権限がいちじるしく拡充された。そしてこの統制会の発足と符節を合わせるように太平洋戦争期に入り,統制経済もまたいちだんと強化された。しかし統制会の設立にもかかわらず兵器製造部門は,直接陸海軍省の管理下に残され,またさらに強力な統制形態としての各種の営団も組織されて,統制会の統制力をそぐ結果を招いた。43年10月には統制会の下部組織的な役割をになうべき統制会社令も公布・施行されたが,すでにその実際の運営は非能率性を露呈してきていた。また同年11月には軍需省が設置されて国家総動員業務を集約し,同時に軍需会社法が制定された。これにより企業経営の国家性の明確化や生産責任体制の確立などが,軍需関連企業に強制された。これは戦時下の企業統制の完成ともいうべき措置であった。一方,非軍需的企業については,その整理統合が企業整備の名のもとに強行された。1941年12月の企業許可令によって事業の全面的許可制が実施され,ついで42年5月の企業整備令によって企業の整理は法的強制力をもって促進された。このほか生産物資も生活必需物資も極度の統制下におかれるなど,統制経済は国民生活のすみずみにまで浸透したが,もはやすべてが有効に作用しえず,やがて敗戦を迎えた。敗戦後は戦時特有の直接的な統制はすべて撤廃された。
執筆者:高橋 衛
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一国の経済活動に国家が統制・干渉を行う経済体制をいう。社会主義的計画経済をも含める場合もあるが、通常は資本主義体制の枠内で行われるものをさす。後者でもさらに、間接的な関税、補助金、租税などのほか、通貨、金融、貿易、外国為替(かわせ)などの管理や経済計画策定などによって経済を誘導する場合をも含める場合と、物資の配給制、公定価格制、業種別の企業整備などの直接的・強制的規制の場合のみをさす場合とがあるが、後者に限定するのが通説である。
統制経済という語が用いられるようになったのは、1930年代の大恐慌以降で、失業、生産縮小、物価暴落、社会不安増大のなかで資本主義を救うための措置が、統制経済という形をとったからである。それはアメリカのニューディール政策にみられるような経済・社会改革による景気回復を目ざす統制と、日本やドイツのような軍国主義化、戦時経済化を目ざす統制に分かれた。わが国では日中戦争中の1938年(昭和13)の「物品販売価格取締規則」による価格統制に始まり、39年の「国家総動員法」を基本法とし、太平洋戦争に入って42年の「企業整備令」による中小企業の強権的整備統合などの段階を経て、各種の営団・統制会などが設けられ、公定価格、物資・労働力の割当て制などが強力に遂行された。
第二次世界大戦後は、石油ショック(1973)による世界的インフレ不況のなかで、先進諸国において一時的に統制的経済運営が行われたことはあったが、統制経済復帰への傾向はまったくみられない。
[一杉哲也]
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…そしてこの新しい傾向は,欧米帝国主義国との緊張関係を増幅した。
【第2次大戦と戦後改革】
[戦時経済統制]
第2次大戦における日本の総力戦体制,統制経済の展開には,日本資本主義の特徴,矛盾が如実に現れた。第1に,日本資本主義の対外依存性と重化学工業の一般的低位性のために,外国貿易とくに外貨不足問題がつねに重要な意味をもったことである。…
※「統制経済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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