観客を集め,また多くは入場料をとって,演劇(芸能),音楽,映画,スポーツなどの催しを行うこと。以下,その代表的存在といえる演劇興行について記述する。なお,映画の興行・配給システム等に関しては〈映画〉の項を,落語,講談等の諸種演芸の興行に関しては〈寄席〉の項をそれぞれ参照されたい。
ギリシア・ローマ時代にあっては,演劇興行は〈国家〉的規模での祭典・祭礼と密接に結びついており,その意味では上演の主体は〈国家〉といってよく,職業的な演劇人もいなかったし,入場料制も存在しなかった。この演劇興行における,主体あるいは庇護者あるいは協力者としての〈宗教〉(祭礼)と〈国家〉の存在は,ヨーロッパ,そして部分的には日本においても共通の,伝統的な一つの系譜であり,たとえばヨーロッパ中世における初期の教会劇(宗教劇)や,ルネサンス以後にあらわれる多くのいわゆる宮廷劇場,国立劇場などは,それぞれその典型例であるが,それらの流れについては,おのおのの項に譲ることとして,ここでは私的,職業的な興行形態の発生・変遷を軸にして考えていくこととする。
さてギリシア・ローマの時代を経て,中世も時代が進み商・工業社会が進展すると,とりわけイギリスとフランスにおいて,演劇興行のパトロンは,教会からしだいに都市の同業組合(ギルド)に移り,それらの主導権あるいは競合によって主として宗教劇が上演されたが,フランスでは15世紀初頭に,それらのギルドから,やがてパリの興行権を独占することになる〈受難劇組合〉のような今日の劇団の萌芽をなす興行グループが発生した。そしてルネサンスを迎えると,イタリアに〈コメディア・デラルテ〉が登場,本格的に専門・職業的な劇団活動を開始した。またイギリスではエリザベス朝の演劇の隆盛期,流浪する俳優たちが集められて常設劇場創設ブームとなり,夜間興行が行われたが,そのような過程で入場料も高くなり,専門的な興行師の登場をみるにいたった。こうして,17~18世紀に入り,演劇が一種の営利的行為となると,ピューリタン共和政府の演劇禁圧後,王政復古時代に国王によってロンドンにおける興行のライセンスは2人の廷臣=興行師に与えられ,この体制は19世紀まで存続した。他方フランスではギルドの独占権は16世紀中も続いたが,同世紀末には,自由な競争を妨げるものとして崩れ,その権利は株主権,すなわち小屋貸し権にとってかわられた。このようななかで劇団も数多くあらわれたが,17世紀も進むとルイ14世の庇護や,モリエールやラシーヌら強力な作家たちの出現によって,新しく強固な唯一の官許の合同劇団〈コメディ・フランセーズ〉も一方で誕生した。
19世紀になると,演劇は完全に営利事業化し,旧来の独占権は崩壊,イギリスをはじめ各国で自由な企業となり,いろいろの人が劇場主となった。経営と芸術内容の全体を統轄する座頭制度,それと並んで一つの(ヒット)作品を長期興行するロングラン・システムが発展し,それがまた1人あるいは少数の人気俳優を中心とするスター・システムを道連れとして,ますます演劇の通俗,マンネリ,見世物化に拍車をかけた。世紀末になると,それまでの風潮に対する反発と,いわゆる近代劇運動の興隆とが相まって,因襲打破,新作顕揚を建前としながら,1シーズンにあらかじめ決めた多くの作品を意欲的に上演するレパートリー・システムが出現した。しかし,これには経済的な危険がともない,その障害はひとつには国・公の財政援助をまってはじめて乗り越えられることが,両大戦を経て,国家体制のいかんを問わず,ことにヨーロッパで結果的に証明されている。また,現代資本主義の先進国アメリカでは,特定の劇団や劇場によるのではなく,ある作品の興行ごとに1人あるいは少数のプロデューサーが,それにふさわしい俳優,演出家などを自由に選ぶ各種のプライベートなプロデューサー・システムが全盛であることは特記しておくべきであろう。日本の現況では,既成の新劇団による公演がなお大勢として支配的だが,それらの演劇興行は必ずしも大きな利益を生みだすものではなくマスコミ,とくにテレビが俳優たちの収入源,そして間接的には劇団の収入源ともなっており,その意味ではテレビが今日の新劇のパトロンといっていいかもしれない。また,アメリカ流のプロデューサー・システムによる興行も近年,目だってきている。
執筆者:渡辺 淳
日本の芸能では,古くは貴族や有力な寺社が,宮廷における遊宴や祭礼に,入場料をとらずに舞楽や延年などを見物させた記録もあるが,鎌倉時代の末ごろになると,寺社の建立や修復,また公共の寄金を得る名目で〈勧進興行〉と称して,入場料金をとって芸能を見物させる興行形式がひろく行われた。室町時代からさかんになった田楽,曲舞(くせまい),猿楽,傀儡子(くぐつ)などの興行には,勧進という形態が数多くみられる。その際の主催者は,寺社の勧進聖(かんじんひじり)か芸能者自身であった。近世初期,歌舞伎の始まりといわれる出雲のお国が京の四条河原で〈ややこ踊〉を演じたのは,すでに興行の形態をとっていたといわれる。女歌舞伎は,遊女の抱え主が主催者となって,掛小屋で木戸銭(入場料)をとって歌舞伎踊をみせた。
江戸時代に入ると歌舞伎や人形浄瑠璃の興行は,江戸でも上方でも共通に幕府から興行権を与えられたもののみが行うことができるというきびしい仕組であった。江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈櫓(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。座元の名跡は世襲であり,その座元の名前を掲げて劇場名ともした。座元は年6回の公演のつど,富裕な上層町人,芝居茶屋の主人や帳元(今日でいう一種の支配人)などからなる金主(きんしゆ)から興行資金を集めて公演を行い,興行に要した諸経費を差し引いたあと,各金主の出資に応じて利益を配分した。人形浄瑠璃(操(あやつり)座,操芝居といった)の場合も,ほぼ同様の形態であったと思われる。
江戸時代以来,見物が連日満員になって〈大入り〉がつづき,収支が黒字となることを〈当り〉というが,大当りとなって収益をあげるためには,演目,役者の人気とその座組,他座との競争,世情や景気の影響など多くの要因が重なる。一方,興行は,当り,はずれの浮沈をくりかえしてきたので,古くから〈水もの〉といわれてきた。不入りのために膨大な借金を抱え,江戸三座の座元が窮地に陥ったときの救済策として,北町奉行は1734年(享保19)8月から,他の座元が興行を代行する〈控櫓(ひかえやぐら)(仮櫓)〉の制度を設けた。上方の興行機構は江戸と異なり,興行権の所有者を〈名代(なだい)〉,劇場の持主を〈芝居主〉,興行師でしかも芸の実力と人気を兼備した役者や太夫を〈座本(ざもと)〉(江戸時代中期以降は〈仕打(しうち)〉が職掌として代行)とよび,この3者が提携して興行主体を構成した。なお江戸でいう金主・金方(きんかた)を上方では銀主(ぎんしゆ)・銀方(ぎんかた)といい,興行上の収益も損害も,分散させて処理していく分業システムが採用されていた。
明治維新を迎えると,演劇興行に関する幕府の諸条例が廃止され,1872年(明治5)9月に東京では府令が発布された。〈府下劇場三芝居其外是迄無税興行致し来り候処今般免許鑑札可相渡候条是迄興行致来り候者は更らに願出可申事〉と,三座も宮地芝居も区別なく,出願制にして徴税する方法がとられた。京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。演技空間の拡大とともに,観客席が著しく増大したことは,興行の営利を追求する意図の反映と考えられよう。2世市川左団次による明治座の興行経営面での革新の試みもあった。その後,1902年に松竹合名社(松竹株式会社の前身)が設立されて徐々に歌舞伎座や文楽座を手中に収めた。11年に帝国劇場(資本金120万円の株式会社)が誕生して,演劇興行が企業としてしだいに合理的に運営されるようになった。歌舞伎興行では,いわゆるレパートリー・システムが採用されていない。1ヵ月に約25日間,昼夜2部制で上演されるようになったのは,大阪では1885年1月の朝日座,東京では1923年5月の帝国劇場の公演からである。
執筆者:藤波 隆之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一般に有料で見物(観客)に供する催しをいい、今日では演劇、映画、音楽、舞踊などから、相撲(すもう)、ボクシングなどのスポーツ、サーカス、見せ物などに至る種々の娯楽の企画・公演をさす。普通、営利を目的とするが、慈善興行(チャリティー)や寄付興行などのように採算を考慮しないものもある。
興行の発生をつきとめることは不可能に近いが、古代エジプト宮廷での祭司によるオシリスの儀礼や、古代中国の巫覡(ふげき)の歌舞、ついで古代ギリシアにおけるディオニソス祭礼での演劇上演などに、その原初の形態がみられる。しかし、これらのほとんどは王または国家の主催による宗教的行事の一部であり、入場料の徴収を前提とする今日的な意味での興行の概念からはほど遠い。さらに中世ヨーロッパにおける教会主催の各種の宗教劇の上演も、近代的な意味での興行とは異なる。ただ一方には、古代ローマのミモス(雑芸)の流れをくむ大道芸人や吟遊詩人たちの系統があり、彼らは自らの技芸を売り物にして各地を巡回するなど、今日の興行形態の先駆的存在であったとも考えられる。
中世末から近世にかけては、世俗的な道徳劇(モラリティー)や受難劇(パッション)上演のための民間の組合が結成され、またイタリアのコメディア・デラルテなど職業俳優による劇団の活躍が盛んになったが、これらも依然として教会や王侯貴族の庇護(ひご)、監督の側面が強かった。イギリスのエリザベス朝における興行奉行Master of the Revelsの制度はその一例である。一方、近代的な興行師も出現するようになり、1637年、ベネチアのサン・カシアーノ劇場の所有者トロン家が、ローマのオペラ一座と賃貸契約を結んで『アンドロメダ』を上演したが、この風潮は他のヨーロッパ諸都市に広がった。ドイツでは1746年にドレスデンに公共劇場が設立され、フランスでは大革命以後多くの劇場がこれに倣い、イギリスでは1843年に劇場解放令が施行され、官許劇場以外での興行の自由化が認められた。さらに19世紀後半にはロシア、アメリカ合衆国も加わり、資本主義の発達に伴う興行の商業化・国際化とともに、興行も企業(ビジネス)の一つとして大きな位置を占めるようになった。
近代以降の興行の形態は多様であるが、職能上三つに分けられる。興行師や劇団自身が収支を図る手打ち興行、興行師や劇団が劇場主に興行責任をゆだねる売り興行、両者の責任で収支の歩合を決める歩(合)興行である。また上演形態のうえからは、製作者がスタッフ・キャストまですべて統括するプロデューサー・システム、何本かの作品を交互に連続上演するレパートリー・システム、長期にわたる単独興行による収入の増加を図るロングラン・システムなどがある。なお、興行師を意味するインプレサリオimpresarioはイタリア語で、本来はオペラの興行主のことである。興行師は近年では、プロデューサーproducer、マネージャーmanager、あるいはエージェントagentなどとよばれることが多く、ヨーロッパの国立劇場では最高責任者がこの役割を果たしているのが普通である。
[大島 勉]
日本でも、芸能などの催しは、古くは料金をとって鑑賞させる形態をとらなかった。たとえば和歌会、舞楽、延年(えんねん)など、貴族、寺社、武家が催した芸能の機会を「興行」とよんだ記録がある。鎌倉時代になると、寺社の建立・修理や鐘の鋳造、そのほか架橋などの公共的事業のために寄付金を集める名目で入場料をとる「勧進興行」の形式が広く行われるようになった。中世の猿楽(さるがく)(能楽)、田楽(でんがく)、曲舞(くせまい)などの興行もこの形態で行われることが多かった。江戸初期の歌舞伎(かぶき)踊も「勧進興行」を看板に掲げた。出雲(いずも)の阿国(おくに)が出雲大社の巫女(みこ)と名のり、大社修復のための勧進興行であることを標榜(ひょうぼう)したのはこの例である。勧進興行の場合、主催者は芸能人自身だったが、やがて興行権所有者、俳優の雇用主、劇場所有者が共同主催者となり、興行に際して別に出資者を求めて行うようになる。江戸では三者の性格を兼ねる座元が金主(きんしゅ)(金方(きんかた))の出資を受け、上方(かみがた)では名代(なだい)、太夫元(たゆうもと)(座本)、小屋主の3人が銀主(銀方)の出資を得て興行を行った。江戸時代の歌舞伎や人形芝居の興行はおおむねこの形式で行われていた。
歌舞伎の合理的な興行は1902年(明治35)に白井松次郎、大谷(おおたに)竹次郎によって始められた松竹(まつたけ)合名社(松竹(しょうちく)株式会社の母体)によって打ち立てられた。また、11年設立の帝国劇場が株式会社組織で興行を行い、近代的経営法を採用した。以後興行も合理的な企業会社組織によって行われるのが普通となった。こうして、「水もの」とされてきた興行も、かなり合理的な企業になりえたが、歌舞伎など純舞台演劇の興行は、人件費や制作費などの「仕込み」に多額の経費を要するわりに、観客の動員数が限られており、各種の制約もあるために営利上の不利は免れず、依然として「水もの」的性格を脱しきってはいない。現在歌舞伎の興行で行われている毎月約25日間、1日昼夜二部制の興行形態を大劇場で採用したのは1885年(明治18)1月大阪朝日座で昼夜別々の狂言を出したのが早く、東京では1923年(大正12)5月の帝劇が最初である。ただし、国立劇場では、原則として1日1回制の興行を行っている。
[服部幸雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…神社仏寺の社殿仏閣を修復し,定められた神事仏事を厳格に勤行させるために,公武権力が実施した法的措置。〈興行〉とは,廃れ怠っているものを本来の形に回復させる意味。寺社に対する国家的保護は古代以来一貫した基本政策で,平安時代以来しばしば立法された公家新制にも,ほとんどその冒頭にこの関連の法令がおかれていた。…
…しかし,ルネサンス以降,ことに17~18世紀から,俳優が職業化し,舞台が商品化して,観客が入場料を払うようになってから,あらためて観客の問題は意識的に俎上(そじよう)にのせられるようになった。19世紀に入り,営利事業化がいよいよ進むと,観客の側,興行の側ともどもから,実験的あるいは非営利的作品の上演や,レパートリー・システムの推進など,演劇芸術の擁護と発展を願いつつ,経済的に相互を利する観客の組織化が目立つようになり,各種の観客団体が生まれるにいたった。なかでも19世紀末ドイツに誕生した強大な組織〈民衆劇場〉や,20世紀に入っては1950年代に隆盛だったパリの〈国立民衆劇場(TNP)〉の熱烈な〈民衆演劇友の会〉などが著名で,上記のような目標実現に大いに貢献した。…
…演劇用語で昼間興行のことを指す。フランス語のmatinéeは,もともと〈午前中〉という意味であるが,そこから出て,通常の夜間興行に対して,午後に行われる演劇興行をいうようになった。…
…演劇用語。同一劇場で多くは専属の劇団が,一定数の演目(レパートリー)を毎晩換えて上演する興行方式をいう。通常レパートリーは,シーズンごとに定められる。…
…演劇用語。長期興行制度のことをいう。アメリカのブロードウェーで始められた興行方式で,一つの作品を観客動員が可能なかぎり連続して上演する。…
※「興行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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