改訂新版 世界大百科事典 「藤原純友の乱」の意味・わかりやすい解説
藤原純友の乱 (ふじわらのすみとものらん)
10世紀に西海を中心に起こった反乱事件。山陽・九州・四国と京を結ぶ物資輸送の大動脈である瀬戸内海には,9世紀中葉以降海賊が出没した。一時その活動は鎮まるが,承平年間(931-938)になると急に活動が活発化し,賊船1000余艘が海上に浮かんで官物奪取・殺害を続けたため,海上交通も途絶状態となった。朝廷はその対策として936年紀淑人を伊予守兼追捕南海道使に任じ,藤原純友らに海賊制圧のことを行わせた。淑人の柔軟で寛仁な海賊対策は効を奏し,1000人を超える海賊が帰順,その動きはいったん収まった。しかし939年(天慶2)12月に東国で平将門が反乱を起こすや,純友はこれに乗じ立場を一転して海賊の首領となり,海上に出た。畿内から九州東部にかけての諸勢力を結集し,一大勢力となった純友の海賊連合軍は,京都に連夜放火して社会不安を醸成するとともに,上京途上の国司を捕らえたり,備中・淡路を襲い兵器を奪いとったりした。朝廷は小野好古を追捕凶賊使に任ずるかたわら,東西両面作戦を回避するため純友に従五位下を授け懐柔しようとした。940年2月好古から純友が海路上洛中との報が入り,政府は山崎・川尻の警固を強化し緊張が高まったが,純友軍の京都突入はなかった。誤報か,直前に将門敗死の報を得て中止したためであろう。以後,純友は位階を受け,海賊の活動も低調となった。
一方,将門の乱を鎮定して自信を回復した政府は,純友を挑発。同年8月純友は再び行動を開始し,伊予・讃岐を襲い,10月には大宰府追捕使の軍を破り,11月には周防鋳銭司を焼き,12月には土佐の幡多郡で合戦した。このころより追捕山陽南海両道凶賊使,および諸国に配置された警固使らの活躍により,純友軍の幹部のなかに戦死したり捕虜となったり,内応するものが相次ぐ。941年5月純友は大宰府を襲い,状況を打開しようとしたが撃破され,6月本拠地の伊予に逃げ帰ったところを討たれた。同年11月までには純友の与党も各地で討たれた。将門の乱とあわせ承平・天慶の乱という。
執筆者:高橋 昌明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報