藤堂高虎(読み)トウドウタカトラ

デジタル大辞泉 「藤堂高虎」の意味・読み・例文・類語

とうどう‐たかとら〔トウダウ‐〕【藤堂高虎】

[1556~1630]安土桃山時代・江戸初期の武将近江おうみの人。浅井長政羽柴秀長豊臣秀吉らに仕えた。関ヶ原の戦い大坂の陣では徳川家康に属し、その功により伊勢・伊賀など32万石に封ぜられた。

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精選版 日本国語大辞典 「藤堂高虎」の意味・読み・例文・類語

とうどう‐たかとら【藤堂高虎】

  1. 安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国滋賀県)の人。藤堂藩初代藩主。浅井長政、羽柴秀長に仕え軍功をたてた。のち秀吉に招かれ、その死後家康につき、関ケ原戦い大坂の陣で功をたてた。弘治二~寛永七年(一五五六‐一六三〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤堂高虎」の意味・わかりやすい解説

藤堂高虎
とうどうたかとら
(1556―1630)

安土(あづち)桃山・江戸前期の大名。津(つ)(安濃津(あのつ))藩祖。父虎高は、近江(おうみ)国(滋賀県)の郷士三井氏の次男で、犬上(いぬかみ)郡藤堂村(現、同郡甲良(こうら)町)の藤堂氏を継いだ。高虎は初め与吉(よきち)と称し、浅井氏に属して15歳で初陣、21歳で木下秀長(ひでなが)に300石を給され、与右衛門(よえもん)となる。容貌(ようぼう)偉大で身長6尺3寸(約190センチメートル)といわれた。やがて豊臣(とよとみ)秀吉に認められ、1585年(天正13)紀州一揆(いっき)鎮圧の功で1万石になり、87年島津征圧の功で2万石に上昇して紀州粉川(こかわ)(和歌山県紀の川市粉河)の主となった。北条征圧、文禄(ぶんろく)の役に参戦し、帰国して高野山(こうやさん)に出家したが秀吉に下山を命じられ、伊予(愛媛県)宇和島(うわじま)7万石の藩主になった。慶長(けいちょう)の役にも出陣した。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して今治(いまばり)城主20万石、従(じゅ)四位下、和泉守(いずみのかみ)となった。1608年(慶長13)伊賀(三重県)全国と伊勢(いせ)国(三重県)安濃(あの)・一志(いちし)郡に20万石余を与えられ、安濃津(津市南部)に入城、15年(元和1)、17年伊勢国内で各5万石を増封され(のち5万石を山城(やましろ)・大和(やまと)国の一部と交換)、伊予国越智(おち)郡内の2万石とあわせ計32万3951石の外様(とざま)大名となった。居城を津に置いて領地を支配したが、伊賀上野(うえの)にも城を築いて有事に備えた。

深谷克己

『藤田達生著『江戸時代の設計者――異能の武将・藤堂高虎』(講談社現代新書)』


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朝日日本歴史人物事典 「藤堂高虎」の解説

藤堂高虎

没年:寛永7.10.5(1630.11.9)
生年:弘治2(1556)
安土桃山・江戸時代初期の武将。伊勢国(三重県)津藩初代藩主。近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれる。15歳のとき,浅井長政に仕え,姉川の戦などで武功をあげる。のち織田信澄,羽柴秀長などに仕え,賤ケ岳の戦,紀伊雑賀攻め,島津攻めなどに軍功があり,加増を重ねられ2万石を領した。天正15(1587)年,佐渡守に叙任。秀長の死後,その子秀俊に仕え,文禄の役では代理として朝鮮に出陣した。秀俊の没後,高野山にのぼり剃髪したが,豊臣秀吉の懇望によりその直臣となり,文禄4(1595)年,伊予国に7万石を与えられ,宇和島城主となる。慶長の役でも,水軍を率いて朝鮮に渡海し,巨済島の戦いで朝鮮水軍を全滅させ,1万石を加増された。 徳川家康の 聚楽第内邸地の普請を奉行した縁で,秀吉死後は家康に接近,慶長4年には弟正高を江戸に人質に出した。翌年,石田三成の動静を家康に報告し,関ケ原の戦では,小早川秀秋を監視し,寝返った秀秋と共に大谷吉継を討った。戦後,12万石を加増され伊予今治城主。城普請の名手として知られ,慶長期に近江膳所城,伏見城,丹波篠山城,丹波亀山城などの普請を任せられた。11年には率先して妻子を江戸にあげ,縄張りを担当した江戸城が落成したため,2万石加増され,和泉守に改める。13年には伊賀1国と伊勢8郡に移され,伊勢国津城に住した。大坂夏の陣では,真田幸村の攻撃を受けて家康の本陣が崩れたとき,馬廻りの兵を率いて側面から救援するなど大きな功績をあげた。家康は臨終の床で,「国家の大事のときには,一の先手は高虎,二の先手は井伊直孝」と申し置いたという。以後,加増を重ねられて,元和3(1617)年,32万3950石。秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走,大坂城の縄張りも担当した。このころの高虎は,幕閣と親しく交際し,諸大名の注目の的であったが,晩年は老耄がひどく醜態を演じた。妻は長連久の娘。<参考文献>藤堂高文編『宗国史』

(山本博文)

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改訂新版 世界大百科事典 「藤堂高虎」の意味・わかりやすい解説

藤堂高虎 (とうどうたかとら)
生没年:1556-1630(弘治2-寛永7)

江戸初期の外様大名。伊勢津藩主。近江国に生まれる。浅井長政,織田信澄に仕えたあと,羽柴(豊臣)秀長の家臣となり,賤ヶ岳の戦をはじめとして数々の軍功を挙げる。1587年(天正15)従五位下佐渡守に叙任。文禄の役には秀長の子秀俊に代わって出兵し,水軍を指揮。95年(文禄4)秀俊の死にあって高野山に入るが,豊臣秀吉に召され伊予宇和島7万石を得た。慶長の役にも朝鮮に渡海。秀吉の死後は徳川家康に近づき,関ヶ原の戦では東軍に属し,福島正則らと岐阜城攻略にあたる。戦後,伊予半国20万石を得,今治を居城とした。1606年(慶長11)2万石を備中で加増され,この年官名を和泉守と改める。08年伊勢津22万石に転封。大坂の陣では,大和筋の先鋒として活躍,戦後,大和,山城,下総で加増され,伊勢,伊賀と合わせて32万石余を領した。加藤清正とともに当代きっての城普請の名人でもあり,居城となった諸城のほか,1601年には近江膳所(ぜぜ)城,06年には江戸城,08年には丹波篠山城,20年(元和6)には大坂城の縄張りを,家康,秀忠の命によって行っている。さらに大坂の陣の軍議にあずかったり,秀忠の娘和子(東福門院)の入内につき朝廷との交渉をまかされるなど,外様大名でありながら,家康,秀忠の信任はあつかった。25年(寛永2)侍従,26年少将に昇進。法号は高山道堅寒松院,墓所は上野寒松院。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「藤堂高虎」の意味・わかりやすい解説

藤堂高虎【とうどうたかとら】

安土桃山〜江戸初期の武将。通称与右衛門,和泉守。近江(おうみ)の人。初め浅井長政に仕え,のち羽柴(豊臣)秀長・秀俊父子に仕え,しばしば戦功をあげた。秀俊死後,豊臣秀吉に属し文禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦,大坂の陣に徳川方につき,徳川家康に重用され,伊勢(いせ)津で22万石,さらに加増され32万4000石を領した。
→関連項目宇和島藩津藩藤堂氏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤堂高虎」の意味・わかりやすい解説

藤堂高虎
とうどうたかとら

[生]弘治2(1556).近江,藤堂
[没]寛永7(1630).10.5. /寛永7(1630).11.18.
江戸時代初期の大名。安濃津藩の祖。虎高の子。通称,与右衛門,佐渡守,和泉守。初め浅井長政に仕え,のち織田信澄,羽柴秀長,秀保に仕えて軍功があった。秀保の死後,高野山にいたが,豊臣秀吉に迎えられ文禄・慶長の役では水軍の将となった。関ヶ原の戦いでは徳川軍に属し,慶長 13 (1608) 年伊勢,伊賀 22万 950石を与えられ,津城に入る。大坂の陣後 32万 4000石に加増された。従四位下,寛永2 (25) 年侍従,同3年左少将に叙任された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤堂高虎」の解説

藤堂高虎 とうどう-たかとら

1556-1630 織豊-江戸時代前期の大名。
弘治(こうじ)2年1月6日生まれ。浅井長政,羽柴秀長,豊臣秀吉につかえる。秀吉没後は徳川家康にちかづき,関ケ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげた。伊予(いよ)(愛媛県)今治(いまばり)藩主から慶長13年伊勢(いせ)津藩主藤堂家初代となる。32万3950石。大坂夏の陣では真田(さなだ)幸村のため苦戦していた家康をたすけた。寛永7年10月5日死去。75歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。
【格言など】上として人を御疑い候えば,下また上を疑い,上下疑いこれあるときは,上と下との心離れ申候

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤堂高虎」の解説

藤堂高虎
とうどうたかとら

1556~1630.10.5

織豊期~江戸初期の武将・大名。伊勢国津藩主。はじめ浅井長政に属し,のち豊臣秀長・同秀吉に仕えた。関ケ原の戦では東軍に属し,その戦功により伊予国今治20万石に封じられた。1606年(慶長11)和泉守に叙任。08年津に転封し,伊賀・伊勢両国を領有。大坂夏の陣で,真田幸村のため危機に陥った徳川家康を救った功で,17年(元和3)には32万3950石を領した。幕府の信任が厚く,評定の席にもたびたび列した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤堂高虎」の解説

藤堂高虎
とうどうたかとら

1556〜1630
安土桃山〜江戸時代初期の外様大名
伊勢(三重県)津藩初代藩主。浅井・織田両氏に仕え,文禄・慶長の役に水軍を指揮,豊臣秀吉から伊予(愛媛県)板島7万石を与えられた。1600年関ケ原の戦いに徳川氏に属し功をたて伊予今治20万石の大名となった。'08年大坂方に対する要地,伊賀(三重県)・伊勢22万石に転封され,大坂夏の陣で徳川家康の危機を救った功により加増され,32万石の大藩を領した。

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367日誕生日大事典 「藤堂高虎」の解説

藤堂高虎 (とうどうたかとら)

生年月日:1556年1月6日
安土桃山時代;江戸時代前期の武将;大名
1630年没

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世界大百科事典(旧版)内の藤堂高虎の言及

【伊賀国】より

…以後,滝川,脇坂氏を経て,85年,豊臣秀吉により筒井定次が大和から伊賀5万石に移封され上野に居城を築いた。定次は関ヶ原の戦で東軍に属したが,1608年(慶長13)改易となり,伊予から藤堂高虎が入封した。同年9月に高虎は上野城に入ったが,本城を伊勢津城とし10月上旬に移ったので,以後は城代が配された。…

【伊勢国】より

… その後も大名の入替えが進み,桑名,長島,神戸,亀山の家門・譜代藩では幾度も領主が交替した。これに比して,津藩では1608年(慶長13)に外様の藤堂高虎が入封して以後は藩主家が変わらず,その支藩として69年(寛文9)に誕生した外様の久居藩も変化なく,菰野藩も外様の土方氏が相続した。 伊勢では以上の7藩が廃藩置県まで存続したが,外様の津,久居藩は,藩祖高虎が家康の信任を得て伊勢・伊賀22万石余(のち32万3950石)に封じられた家柄であるから,家門1,譜代3と合わせ,伊勢の大名配置は徳川将軍家の強固な補翼という性格をもった。…

【今治[市]】より

…伊予国府は南郊の富田に,また国分寺が国分に置かれ,近世初期まで桜井地区が当地の中心であった。1600年(慶長5)領主となった藤堂高虎は桜井の国府城に入ったが,02年から砂州を埋め,三重の堀をうがって海水を引き,現在地に今張城を築いた(石垣と内堀のみ残す)。芸予諸島の南西部を含む東伊予の政治・経済の中心地として位置してきたが,江戸時代中期に興った木綿産業を基盤に明治末からはタオル生産がさかんとなり,今日では全国一の生産地となった。…

【上野[市]】より

…地名の初見は15世紀末の一条兼良《藤川記》で,15~16世紀は仁木氏の治下にあった。城下町としての起源は,1585年(天正13)に筒井定次が,大坂城防衛のために伊賀盆地の洪積台地に築城したのが始まりであり,定次改易後,1608年に伊予国今治から伊賀・伊勢22万石に封じられた藤堂高虎が,現在に続く市街地の基盤をつくった。高虎は伊勢の津城を平時の居城,上野城を有事の際の根拠とするために,城郭,堀,街道,侍町,商人街などを配し,政治・軍事・経済の機能をもつ典型的な城下町を建設した。…

【大坂城(大阪城)】より

… 戦後,1619年に徳川幕府は大坂を直轄地とし,以後城代を置いて統轄,守衛させることとした。一方,20年から藤堂高虎の縄張りで城の再築をはかり,まず三の丸,二の丸と東・西・北3面の外濠の普請が行われ,22年には本丸の天守台,24年(寛永1)からは本丸・内濠,28年には二の丸の南面外濠の普請が,伏見廃城の石などを用いて西国諸大名の助役で行われた。こうして再建はなったが,65年(寛文5)雷火で天守を失い,1868年(明治1)には鳥羽・伏見の戦に敗れた幕府軍がここに拠ったため戦火をこうむり,大半の建物を焼失した。…

【水軍】より

…このほか海賊衆に出自をもたない織豊取立て大名も水軍の一翼を占めている。藤堂高虎は紀伊粉河の城主で所領は山間部で,伊予や伊勢に封じられるのは後のことである。脇坂安治,加藤嘉明は淡路に入部していたが,少し前までは山城,摂津,大和など海と無関係なところに所領をもっていた。…

【津[市]】より

…文禄年間(1592‐96)に富田氏が入城し,関ヶ原の戦で町が荒廃した後は復旧につとめたが,城下戸数は500軒ほどにすぎなかった。 1608年(慶長13)藤堂高虎が伊予から入国し,以後,津は廃藩置県に至るまで津藩藤堂氏の領土支配の中心地になった。この期間に近代の津市街の原型がつくられ,文物,民情,風俗,習慣,趣味,嗜好などの個性もここで形成された。…

【津藩】より

…織田信包(のぶかね)が1569年(永禄12)以来津城主であったが,文禄年間(1592‐96)富田氏が移って付近5万石余を支配した。1608年(慶長13)伊予国から転封になった藤堂高虎が伊賀全国および伊勢国安濃郡,一志郡の内に合わせて22万石余の領地を与えられて,本格的な藩政時代となり,藤堂氏は廃藩置県まで津藩主として支配をつづけた。知行高は1617年(元和3)大坂冬・夏の陣の功績によって南伊勢に加封され,そこを大和,山城に換封,下総にも領地を得て,伊賀,伊勢,大和,山城,下総にまたがる32万石余となった。…

※「藤堂高虎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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