国家が公権力によって民衆の表現活動を制限すること。政治権力が特定の目的を達成するため,それを阻害し,または阻害するおそれのある表現,つまり好ましくない表現を抑圧することである。このような言論統制には多くの場合,他方にそれと見合うプロパガンダ(政治宣伝)が伴う。例えば,反戦的言論を統制する一方で,〈聖戦〉意識の宣伝による民衆の戦争に対する自発的献身を調達するというように,言論統制とプロパガンダとは機能的には盾の両面の関係にある。そこで今日では,この二つを広義のプロパガンダに統一し,いわゆる宣伝(狭義のプロパガンダ)をその積極的側面,そして言論統制をその消極的側面というふうにとらえることが常識となっている。しかし,ここでは便宜上言論統制をプロパガンダから切りはなして考える。
言論統制は政治権力の性質,統制の時期,目的などによって,統制の対象や強度にはさまざまな差異があるが,一般的にいって対象にはまず新聞,雑誌,出版,映画,演劇,放送などによるマス・コミュニケーションをはじめ,ビラ,ポスター,集会,結社などの中間的コミュニケーション,さらに,手紙,うわさ(噂),会話などの個人的コミュニケーションにおよぶ表現活動の全領域が含まれうる。また表現形式も文字による表現はもちろんとして,音声,絵画,映像,あるいはジェスチャーによる表現も含まれうる。したがって統制の具体的方法も新聞,雑誌,出版などの発行許可制,集会,結社の事前許可制,用紙,フィルム,電波など原資材の割当統制,マスコミ企業の強制的廃止統合,業務・人事などに対する政府監督権の強化などのような媒体(メディア)統制,各種の検閲制度,法律による表現許容基準ないし禁止事項の規制,劇場,集会などにおける官憲の臨監,さらには私服,スパイなど秘密警察的方法による表現内容の統制などがありうる。そして違反事例に対しては,発行禁止,発売頒布禁止,上映上演禁止,差押えや没収,集会結社の中止あるいは解散ないし禁止などの広範な行政処分や,体刑,罰金などの刑罰による司法処分が科せられ,いわゆる強権的な言論弾圧が行われる。これらの言論統制は,通常,政府治安警察機構ならびに各媒体企業監督官庁を通じて行われるが,戦時その他の非常事態あるいはファシズム全体主義国家では,情報省,宣伝省,情報局といった広義のプロパガンダを管掌する国家機関が特設されるのがつねであり,また軍情報宣伝機構によっても行われる。さらに特高のような政治警察ないし思想警察機構がこれに加わるとき,言論統制のネットワーク(網の目)は最も稠密なものとなる。
国家の公権力による民衆の表現活動の制限という意味での言論統制の歴史は,おそらく国家ないし政治権力の発生と同時期にまでさかのぼると思われるが,史実として明らかで古いものには,中国,秦の始皇帝(在位,前247-前210)が彼の施政を風刺し批判した詩書や百家の書を焼き,関係者を捕らえて極刑に処したいわゆる焚書坑儒の例だといわれている。
中世ヨーロッパでは,ローマ教皇の宗教上の異端取締りを目的とした言論統制が展開されてきた。1501年教皇アレクサンデル6世は宗教書の出版にはじめて事前検閲制度をしいた。ついで宗教改革運動がおこって新旧両教の対立が激化してくると,旧教側の言論統制はいっそう強化され,同時に教義の積極的な宣伝がはじまった。1622年教皇グレゴリウス15世の創設した〈布教聖省Sacra Congregatio de Propaganda Fide〉は,プロパガンダが公式化された最初とされている。このような言論統制は中世社会の崩壊とともにやがて世俗的君主国家に受け継がれ,政治的目的のための統制として発達する。言論統制が重要な意義をもってくるのは,このころつまり絶対主義時代およびそれ以後のことで,政治的な言論統制が支配的になってからのことである。絶対主義時代の言論統制の方式は,しかしなお中世の連続で,国王の専制的支配権のもとでの厳重な事前検閲制度および発行許可制度を基幹としていた。1586年のイギリス星室裁判所印刷条令ならびに1662年の特許検閲法はその典型で,発行許可は,国王に対する完全な忠誠の誓約および一定額の上納金と引換えに認められる仕組みになっていた。この時期には,下から新興市民階級が興起して,政治的自由,言論の自由を要求して立ちあがり,他方上からの専制的暴力的な弾圧が激しく行われたため,いわゆる〈言論の自由〉の戦いが最も淒烈な様相を呈した。独立前のアメリカ,大革命までのフランス,1848年の三月革命以前のドイツなどもほぼ同様の経過をたどっている。
市民革命によって近代的立憲国家が成立してからは,言論,出版,集会,結社などの表現活動の自由は基本的人権として憲法で保障され,言論統制は議会立法による以外はできなくなった。なかには,アメリカのように法律によっても表現の自由を規制することはできない(連邦憲法修正第1条)とされている国もある。しかし市民革命に対する反革命が行われ,あるいは貴族・地主ら保守階級が優勢だった国ではなお強い言論統制が続いた。フランスでは大革命の反逆児ナポレオンの言論統制はことに激しく,1800年にまず政論紙を13に制限し,新しい新聞の発行を禁止し,皇帝となった04年には共和派の新聞《ジュルナル・デ・デバ》に特別事前検閲を科し,題号を《ジュルナル・ド・ランピール(帝国新聞)》と変更させ,11年にはこれを国有にし,同時に地方新聞に1県1紙の新聞統合を行った。フランスの言論の自由はパリ・コミューンを経て第三共和政成立後,81年〈新聞の自由に関する法律〉が公布されてはじめて実現した。イギリスでも18世紀にはなお保守勢力が強く,とくに1783年組閣のトーリー党の小ピット内閣はフランス革命思想の波及をおそれて,79年トマス・ペインの著書《人間の権利》を発禁にしたり,さらに組合法を制定して労働組合を非合法化し,また革命支持派の新聞,出版を取り締まるなど,きびしい言論統制を実施した。他方イギリスには,〈知識税taxes on knowledge〉といわれた印紙税(1712)や,事実の真偽にかかわらず一方的に国王や官吏の名誉毀損を処罰した誹毀(ひき)法などがあって,民衆の表現活動に強い制約を科していた。しかしこれらの言論統制も時とともに影をひそめ,19世紀の後半には,イギリス,フランス,アメリカなどの自由主義諸国では近代的な言論の自由の原則が,ほぼ実質的に確立した。
20世紀にはいり,第1次世界大戦がはじまると戦時統制が実施され,各国とも情報省や情報委員会など特別機関を設置し,軍事情報の検閲を主とする言論統制の強化をはかった。しかしこれは戦時という緊急事態における臨時措置と考えられ,言論の自由の原則が否定されたわけではなかった。だが戦争の総力戦への移行とその質的な変化拡大,さらにナチスの台頭から第2次世界大戦へという危機の連続は,言論統制に大きな変容を与えた。第1次大戦では言論自由の原則に遠慮しながら自主的統制のたてまえをとっていたアメリカも,第2次大戦では1939年秋まず情報総合局の設立を皮切りに,41年12月に国務省に検閲局を新設し,翌42年6月両機関を統合して戦時情報局を設立するなど,組織的な言論統制を実施した。他の諸国も第1次大戦の時よりいっそう大がかりな統制を行った。20世紀で最も組織的な言論統制を実施したのはナチス・ドイツで,ヒトラーは1933年2月政権獲得直後,国会放火事件を〈でっちあげ〉てワイマール憲法の保障する新聞出版の自由を大統領令によって停止させ,これにもとづいて,共産党および社会民主党系新聞約180紙の発行を禁止し,一瞬にして社会主義的新聞を葬った。さらに同年5月10日,左翼はむろんトーマス・マンやヘレン・ケラーなど自由主義者の著書や出版物を没収して焼きすてた。一方,機構的には3月ゲッベルスを大臣とする国民宣伝啓蒙省を言論統制および宣伝担当国家機関として新設し,9月には国家文化院法による国家新聞院,国家映画院,国家出版院など各種の統制機関を設置した。10月に制定された新聞記者法は,記者に政府の資格承認と登録を要求していた。こうしてナチスは,組織的かつ厳重な言論統制によって,ドイツ民衆のナチスへの動員と献身を調達した。
第2次世界大戦後は,言語表現の自由が世界的に拡大するかに見えた。しかし歴史はかならずしもそのようには展開しなかった。西側自由主義国では確かに一定の前進があった。マス・メディアを取り締まるためのむき出しの言論統制法規はほとんど姿を消した。しかし,他方において政治権力の情報操作が高度に組織化されて巧妙になったため,言論統制を行ったと同様な世論の一定方向への誘導が行われる傾向のあることは見落とせない(〈世論〉の項目参照)。ベトナム戦争で,アメリカ駆逐艦が北ベトナム魚雷艇の攻撃をうけたいわゆるトンキン湾事件(1964)の発生は,これが契機となって北爆が開始され,戦争が一段と深刻化したことでよく知られているが,実はこのトンキン湾事件はアメリカ軍部と政府によるねつ造であったことが戦後明らかになった。これはその典型的な例といえる。また政府にとってつごうの悪い報道を抑制する例も,例えばアメリカ軍のグレナダ進攻時の報道管制(1983)のように皆無とはいえない。
かつてのソ連をはじめとする社会主義国は“社会主義を強化する”ための言論の自由を憲法上認めていたが,反社会主義的言論や党・政府の中央部を批判する言論の自由は認めていなかった。そのため,党と政府はすべてのニュース,情報,思想などの表現と流通をきびしく管理統制してきた。
他方,第三世界,とりわけ独裁体制をとっている国では厳重な言論統制がしかれているのが普通である。発展途上国では一般に自国の近代化のための開発を推進するに当たって,マス・メディアをも開発計画のなかの一環として位置づけ,マス・メディアに独立の立場からの自由な報道・論評活動を許さない場合が多い。第三世界の言論統制と言論の自由の関係も大きな問題である。ユネスコの1978年総会で決議されたマス・メディア宣言以来クローズ・アップされてきた〈新世界情報コミュニケーション秩序〉問題で,これを推進する第三世界ないし東側と西側との基本的な争点もここにある。
明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。1889年に帝国憲法が発布され〈法律ノ範囲内ニ於テ〉(29条)言論の自由が認められることになったとき,その〈法律〉すなわち,当時存在した基本的言論統制法規には,新聞紙条例(1887),出版条例(1887),集会条例(1882),保安条例(1887)のいわゆる〈言論四法〉があった。これらの法律は,自由民権運動の盛んな時期にあって民権派の運動の拡大や政府批判をたたきつぶし,絶対主義権力を維持強化するためのすさまじいばかりの言論弾圧を可能にした法律であった。言論弾圧が最も激しかった1882年には新聞の発行禁止12,発行停止70,演説会の全会解散282,演説禁止53という数字が残っている。こうして帝国憲法発布後も〈法律ノ範囲内ニ於テ〉認められた言論表現の自由はまったくなきに等しく,言論統制の本質には変化はなかった。新聞紙条例は2度の改正を経て新聞紙法(1909)となり,出版条例も出版法(1893)となったが中身は依然たる絶対主義的統制法規であった。明治30年代にはいると資本主義の急速な発達によって早くも社会主義運動が展開されたが,社会主義的言論や運動の弾圧はきわめてきびしくなった。治安警察法(1900)はそれを目的とした法律であった。
日本の言論統制の方法上の特質は,内務大臣の新聞雑誌出版物の発売頒布禁止処分や,逓信大臣のラジオによる放送事項の許可処分などに見られたように担当大臣が広範な行政処分権限をもっていたこと,天皇制ないし国体批判を厳禁したこと,の2点にあるといってよい。また,内容上の特質としては,〈安寧秩序紊乱(びんらん)〉〈朝憲紊乱〉の言葉に象徴されているような,反天皇制的思想言論の徹底的抑圧を目的とした言論統制であったということができる。その極点が,治安維持法(1925)であり,日本の社会主義運動がまずこれによって根こそぎ弾圧されてしまった。満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段ときびしさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根をとめた。最初は情報宣伝の連絡調整機関として設置された内閣情報委員会(1936)は,情報部(1937)から情報局(1940)へと拡大発展し言論統制と情報宣伝を統一的に実施する一大国家機関が出現することになった。これと並行して,国外国内のニュース・ソースを一元化した国策通信社〈同盟通信社〉が設立(1936)された。さらに,すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった。国家総動員法(1938),映画法(1939),新聞紙等掲載制限令(1941),国防保安法(1941),言論出版集会結社臨時取締法(1941)などの統制法規がつぎつぎに制定され,厳重な検閲やあいつぐ記事差止めとあいまって言論表現のわくは閉塞同然の状態にまでせばめられていった。さらにこれらを特高警察と憲兵機構が補完していた。
第2次世界大戦が終わり,明治以来の凶暴な言論統制は日本の悲劇的破局とともに閉幕した。新憲法第21条はいっさいの表現の自由を保障し,検閲の禁止を規定している。しかし占領期間中は占領軍の〈プレス・コード〉によるきびしい統制が行われ,1948年7月までは新聞,放送,出版,映画,さらに郵便物に対し事前検閲が実施され,ことに朝鮮戦争がおこるとアメリカの反共政策に基づいた《アカハタ》の無期限停刊(1950)や,いわゆるレッドパージ(1950)をはじめとする共産主義弾圧が行われた。しかしこれらの占領軍統制も平和条約の発効で終りを告げ,日本ははじめて完全に言論統制から脱却した。しかし独立後も占領軍の反共政策は日本政府に受け継がれ,アメリカとソ連の対立を背景にして,破壊活動防止法(1952),MSA秘密保護法(1954)が制定された。これらのほかは,戦後の日本には現在のところ組織的または直接的な言論統制を目的とした法規は存在しない。その意味で言論表現の自由の幅は広い。しかし,国家権力が直接手をくだす形の言論統制ではなく,他の形の言論に対する抑制が新たな問題を提起していることも事実である。嶋中事件(1961)を典型とするジャーナリズムに対する右翼の圧力の増大はそのひとつであり,雑誌《思想の科学》〈天皇制〉特集号事件(1962年1月号)の発売中止事件は明らかにそれが原因で発生した事件であった。またベトナム戦争の過程では,ベトナム戦争批判につながるテレビ番組(例えば日本テレビの〈ベトナム海兵大隊戦記〉。1965)や新聞記事(例えば《毎日新聞》大森実記者のハノイ通信。1965)に国の内外からさまざまな圧力が加えられた。また,都道府県などの自治体条例で青少年保護育成を理由として不良マスコミとくに出版物の販売規制が行われているが,これは運用を誤れば言論統制に変質する危険を内包している。さらに,戦後の日本では言論の自由化にともなってマス・メディアの責任が力説され自主規制が尊重されている。しかし,安易な自主規制は往々にして政府規制の単なる代理規制にすぎず,言論統制の先棒をかつぐことになりかねない場合があることに留意すべきであろう。
→禁書 →検閲 →表現の自由
執筆者:内川 芳美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
政治権力が国民の文字、音声、画像映像などによる情報、意見あるいは思想の表現行為や流通を規制すること。言論統制は、統制の主体たる政治権力の性質の相違(たとえば封建国家、民主主義国家、独裁国家、共産主義国家など)や、統制の目的の相違(たとえば政治的、軍事的、宗教的など)によって、統制の対象や方法などその態様に種々の違いがある。一般的には、政治権力の企図する一定の政治的・社会的秩序の形成や保持にとって有害で好ましくないと政治権力の側で判断した各種の表現が対象である。しかし、表現は、その乗り物である媒体(メディア)と不可分の関係にあるので、実際には表現とメディアが一体となった形で統制の対象となる。言論統制がメディア統制の様相を呈するゆえんである。そうした表現のメディアとしては新聞、雑誌、書籍、映画、放送などのマス・メディアが主であるが、演劇、演芸、集会、デモなどのいわゆる中間的メディア、さらにはデマ、個人的会話にまで及ぶことがある。
[内川芳美]
統制の方法としては、言論統制を定めた特別法によるのが一般的だが、それを担保する実際の具体的手段は一様でない。たとえばよく用いられる手段としては、新聞・雑誌・書籍などの発行許可制度、放送の免許制度、集会・デモなどの事前許可制度、各マス・メディアの記事や放送内容、映画・演劇の脚本・台本などの検閲制度、違反事例に対して発売禁止、発行停止、発行禁止、放送禁止、上映・上演禁止、集会・デモの禁止などを命令できる行政処分制度や、関係者を逮捕し刑罰を科する司法処分制度などがある。さらには用紙、フィルム、電波などマス・メディア用の原料資源の割当て統制、マス・メディア企業の強制的な廃止・統合、業務・財政・人事に対する監督・介入などの例も少なくない。
言論統制は、通常、政府の治安警察機構を通じて行われるが、戦時などの特殊事態やあるいはファシズムなどの全体主義国家や共産主義国家では、情報省、宣伝省、情報局などの言論・情報宣伝を総括的に担当する政府機関が設置される場合が多い。さらにこれに特別な政治・思想警察組織が随伴している例も少なくない。言論統制は、多くの場合、それと見合うプロパガンダ(宣伝)と同時に行われる。たとえば戦時に一方で反戦的言論を厳しく統制し遮断しつつ、他方で「聖戦」意識の高揚を宣伝するというように。この両者は機能的に密接に連結しているので、この二つを広義のプロパガンダとして統合的にとらえ、言論統制をその消極的側面、宣伝を積極的側面とする考え方も行われている。
[内川芳美]
政治権力が民衆の表現活動を取り締まるという意味での言論統制の歴史は国家または政治権力とともに古いと思われるが、史実としては、中国の秦(しん)の始皇帝(在位前247~前210)の例がもっとも古い。彼は大臣の李斯(りし)の献策をいれて、秦朝の政治方針に反する思想や人物を取り締まることとし、医薬書、卜筮(ぼくぜい)(占い)の書、農書以外のすべての書籍を民衆から提出させて焼き捨てる(「焚書(ふんしょ)」)一方、そういう思想を広めた儒学者たちを多数逮捕し、460余人を生き埋めにした(「坑儒(こうじゅ)」)とされている。
[内川芳美]
ヨーロッパでは、15世紀から16世紀にかけてローマ教皇のカトリシズムに対する異端取締りが展開される過程で、1564年に作成された「禁書目録」Index Librorum Prohibitorumにより読書、著者、出版者、販売者などが規制された例がいちばん古い。また、新旧両教の対立過程で、1622年に教皇グレゴリウス15世が、カトリシズムの教義の積極的な宣伝を目的として「布教聖省」Sacra Congregatio de Propaganda Fideを創設しているのが注目される。組織化された宣伝の最初といわれている。中世社会が崩壊し世俗国家の時代になると、言論統制も宗教的目的よりも政治的目的を主とするものへ転化する。16~17世紀の絶対王政期には、印刷出版の特許(許可)制度および事前検閲制度を基幹とする言論統制が行われた。イギリスの1586年の星室庁印刷条令や1662年の特許検閲法などはそのための典型的な法令である。
近代的な立憲国家の成立後は、言論・出版や集会・デモなど表現の自由が基本権として憲法で保障されることになった。しかし政治権力は必要とあれば言論統制を強行した。ナポレオンはクーデターで統領となるや、1800年まず政論新聞を13紙に制限して新規の発行を禁止し、皇帝となった04年には共和派の有力紙『ジュルナール・デ・デバ』(論争新聞)を革命のにおいがするとして『ジュルナール・ド・ランピール』(帝国新聞)に改題を強制し、11年には同紙を接収して国営に移し、さらに同年政論新聞を4紙に減らし、地方紙を1県1紙に統合している。フランスでは第三共和政下の1881年「新聞自由法」が成立し、新聞はようやく安定的な自由を享受することになった。イギリスでも、18世紀以降も検閲など表現の事前抑制こそみられなくなったものの、たとえば「知識に対する課税」taxes on knowledgeといわれた印紙税(1712)や、事実の真偽にかかわらず国王や政府高官への批判を一方的に名誉毀損(きそん)として処罰できた治安妨害的誹毀(ひき)取締法Seditious Libel Actなどの運用によって、政府は言論統制の手綱を操った。
20世紀に入り、第一次世界大戦が始まると、各国ともマス・メディアの世論への影響やその役割を重視するようになり、情報省や情報部を特設して、軍事情報の検閲をはじめとする戦時言論統制を推進した。しかし、戦争の武力戦から総力戦への質的変化と複雑化は言論統制の重要度をよりいっそう高めた。第一次大戦では自主的統制のたてまえをとったアメリカも、第二次大戦時には組織的な情報管理を行った。20世紀にもっとも組織的な言論統制を行ったのはナチス・ドイツで、ヒトラーは政権獲得直後の1933年2月、国会放火事件をでっちあげて、新聞・出版の自由を保障したワイマール憲法を大統領令によって停止させ、共産党および社会民主党系新聞約180紙を発行禁止に付した。また同年5月10日、左翼系はむろんユダヤ系や自由主義系など反ナチズム系の図書や雑誌を没収して焼き捨てた。他方、同年3月ゲッベルスを担当大臣とする国民宣伝啓蒙(けいもう)省が新設され、9月には国家文化院法による国家新聞院、国家出版院、国家映画院など各メディア・分野ごとの統制機関が設置された。10月に制定された新聞記者法は記者資格を定め、記者に登録義務を課していた。こうした組織的な言論統制とプロパガンダによって、ヒトラーは民衆のナチスへの同調を調達した。
旧ソ連など共産主義国家では、共産主義のイデオロギーの強化鼓吹と反共的情報思想の排除を目的とした厳重な言論統制とプロパガンダが行われたのが特徴的。この特徴は、現在の中国にも基本的に当てはまる。新聞は「集団的宣伝者および集団的扇動者であるだけでなく、集団的組織者(オルガナイザー)」だとしたレーニンの規定は、放送にも適用されながら中国では今日も生きている。西側的な意味の言論情報の自由は存在せず、かつて旧東欧時代に言論の自由化を求めたチェコスロバキアの知識人たちの「プラハの春」の運動(1968)は、旧ソ連軍をはじめとするワルシャワ条約機構軍の戦車によって押しつぶされた。中国でも第二次天安門事件(1989)で、民主化を要求した学生たちの運動が、軍隊や公安警察の力で鎮圧された。
[内川芳美]
明治維新から1945年(昭和20)までの旧体制下の日本の言論統制は、世界で指折りの厳重なもので、日本を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いた原因の一つは言論統制にあったといっても過言でない。明治前期の言論統制のピークは、政府批判の言論が渦巻いた自由民権運動期であったが、もっとも激しかった1882年(明治15)には新聞の発行禁止12、発行停止70、演説会の解散282、演説禁止53という記録が残っている。大日本帝国憲法公布(1889)後も、新聞紙条例(1909年新聞紙法となる)をはじめとする多くの絶対主義的な言論統制法規が存在したため、「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」(大日本帝国憲法29条)認められていた言論表現の自由は、きわめて制限的なもので、あってなきがごとき状況であった。
日本の言論統制の特質は、統制対象として天皇制批判を厳禁したこと、方法として内務大臣に広範な裁量を認めた行政処分権を与えたことにあるといえる。前者は1925年(大正14)の治安維持法の制定で峻烈(しゅんれつ)さを加え、社会主義的運動や言論はこれで根こそぎにされた。後者の運用はきわめて恣意(しい)的で満州事変後のファシズム期に入ると一段と厳しさを増し、自由主義的言論を含むすべての反天皇制的・反軍国主義的言論が一掃された。40年(昭和15)には、情報宣伝と言論統制の中央政府機関として情報局が設置されている。さらに国家総動員法(1938)、映画法(1939)、新聞紙等掲載制限令(1941)、国防保安法(1941)、言論出版集会結社等臨時取締法(1941)などの統制法規が次々に制定された。新聞・雑誌などのマス・メディア各社は強権的な企業統合を余儀なくされ、42年秋現在で日刊新聞はわずか55紙に整理された。検閲はますます厳重となり、掲載を禁ずる記事差止め命令も相次いだ。日本放送協会(NHK)の放送は開始当初から政府の強力な監督下にあった。民衆は目も耳も口もふさがれたといってよかった。凶暴な言論統制は敗戦という悲劇的破局とともに終わった。
第二次大戦後、日本国憲法はいっさいの表現の自由を保障し、検閲の禁止を規定した(21条)。しかし国民は連合軍の占領下で、別の新たな言論統制のもとに置かれることになった。1945年9月19日、連合国最高司令部(GHQ)は新聞遵則に関する覚書、いわゆる「プレス・コード」を指令した。これに基づいて新聞・雑誌・書籍の事前検閲が、また、「ラジオ・コード」(同年9月22日付け覚書)によって放送の事前検閲が、占領軍批判をはじめ、占領目的達成に「有害」な言論情報の排除を目的として、それぞれ実施され、郵便検閲も実施された。これらの検閲は49年までには終わっている。しかし、朝鮮戦争が始まる(1950)と、米ソの冷戦を背景として『アカハタ』(現『赤旗』)をはじめとする日本共産党系紙の発行停止や、共産主義者のマス・メディア企業からの排除をねらったいわゆるレッド・パージが強行された。こうした占領軍の言論統制から脱却できたのは、講和条約締結による独立(1952)後のことであった。
しかし、独立後も、個別には非公式な形での言論統制まがいの言論表現への圧力、たとえばベトナム戦争報道における日本テレビの番組「ベトナム海兵大隊戦記」(1965)の放映中止や、秘密保護立法化の動きなどがしばしば指摘されている。言論統制の動向には警戒が必要である。
[内川芳美]
『伊藤正己著『言論・出版の自由』(1959・岩波書店)』▽『内川芳美解説『現代史資料40・41 マス・メディア統制』(1973、75・みすず書房)』▽『松浦総三著『占領下の言論弾圧』増補決定版(1974・現代ジャーナリズム出版会)』▽『内川芳美・新井直之編『日本のジャーナリズム』(1983・有斐閣)』
…一般的にいえば,一定の目的・理念のもとに,社会に流通する情報の内容,伝達媒体の技術的基準や経済的条件等を法制度的に秩序づける諸方策であり,比較的新しい概念である。政治権力は元来,社会に流通する情報の内容や性質に強い関心をもち,反権力的な情報の排除(言論統制)や,世論操作に意を用いてきた。これもコミュニケーション政策といえなくはなく,その意味ではコミュニケーション政策の歴史は政治権力とともに古いといえる。…
…政治権力による思想・言論統制策の一つで,書物にもられた思想を禁圧し,その流通,伝播を防止するために,公開の場で当該の書物を焼き捨てる行為,儀式をいう。秦の始皇帝が行ったと伝える〈焚書坑儒〉は史上名高い。…
※「言論統制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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