本来的には、経済発展が自然成長的に行われるのではなく、社会の側からの「意識的制御」のもとに置かれているような国民経済をいう。現実には、この「意識的制御」は国家が策定する計画とその実施に対する国家的コントロールという形をとり、ソ連の例にみるように、生産、流通、分配のほとんどすべてが集権的な中央計画の統制下に置かれるというのが過去の通例であったが、それだけが意識的制御の唯一の形態ではない。労働者自主管理と市場経済を結合したユーゴスラビアの経済システムはすでに1950年代にソ連型の集権的計画経済モデルから離脱しているし、ハンガリーは1968年の経済改革で基本的に分権モデルに移行した。その他のソ連、東欧諸国でも、集権制はいくらか緩和の方向に向かい、1970年代末からは、より市場志向の強い「第三波」改革がハンガリーで開始された。これに鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)改革下の中国、ついでペレストロイカ下のソ連が合流し「市場社会主義」に接近するかに思われたが、この流れも1989年の「東欧革命」、1991年の「新ロシア革命」による政治主導の体制転換で中断され、計画経済体制が崩壊することになった。ひとり「社会主義市場経済」を掲げる中国の経済体制も計画経済イメージとはきわめて異なる「市場社会主義」の一種といえないこともないが、その経済的実体は、特殊な政治イデオロギー(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)をたてまえとして維持する開発独裁型資本主義の変種とみたほうがわかりやすい。
[佐藤経明]
社会(人間)による経済発展の意識的制御という思想を社会主義と結び付けたのは、いうまでもなくマルクスとエンゲルスである。彼らは将来社会の詳細な青写真を描くことにはきわめて禁欲的であったが、自分たちの主要な課題とした資本主義経済の運動法則の解明から引き出される限りで、将来社会の一般的な機能原理の問題を提起した。その核心をなすのが、商品生産、市場機構の除去によって社会的な生産を社会の意識的・計画的制御のもとに置くという構想である。
およそどのような社会も、利用可能な生産要素(労働と設備、資材などの生産手段)を社会のさまざまな欲望に応じて各種の部門に配分(資源配分)することが必要であるし、また、経済社会の進歩を前提とする限り、社会的な労働生産性(効率)を絶えず向上させることが必要となる。生産手段の私的所有に基づく資本主義経済のもとでは、この資源配分と効率向上という二つの課題は、基本的には市場機構によって処理される。市場でより有利に売れるものの生産に社会の資源が移動してゆき、社会のさまざまな欲望に見合った産出構造がつくりあげられていく。同時に超過利潤を得ようとする個別資本の競争を通じて、社会的生産コストの低下が図られる。しかしながら、以上はいずれも市場での需給と価格の変動を通じて行われるから、必然的に事後的かつ自然成長的な調整過程となり、恐慌や破産、失業のような社会的帰結を伴わずにはいない。
これに反し、生産手段を社会的所有に移した社会主義のもとでは、物質的財貨の生産、流通、分配は社会の意識的な制御のもとに置かれ、経済発展はあらかじめ作成された国民経済計画に基づいて行われると想定された。したがって、資本主義のもとでの間接的、事後的、自然成長的な資源配分と社会的分業の調整様式にかわって、経済社会全体を「一つの工場」のように組織することができる、というのが、マルクス、エンゲルスの社会主義経済像であった。そこでは、資本主義と社会主義という体制上の違いがそのまま、「市場」と「計画」という経済調整機構の原理的対立(両者の非両立性)と結び付けられていたと考えることができる。この考え方からすれば、社会主義=計画経済=非市場的経済ととらえられていたとしても、不思議ではない。
[佐藤経明]
ソ連型の集権的な計画経済制度が成立したのは、(1)以上のような社会主義経済観、(2)革命直後の戦時共産主義の経験と、(3)とりわけ後進国における重工業・国防優先の急速な工業化戦略が資源配分の極度の集中を必要としたという歴史的事情によるものであった。意思決定が高度に集権化され、市場的要素が極度に排除されていたのがその特徴であり、その限りで古典の社会主義像に合致しているように思われた。しかしながら、集権型の計画経済は、経済水準が低く、産業構造や産業連関が比較的単純な段階ではまだしも操作可能であるが、経済が高度化し複雑化した段階では、情報処理だけから考えてみても、計画的制御は逆に困難となり、官僚主義的煩瑣(はんさ)化や効率低下といった否定的結果をもたらす。スターリン批判後の経済改革論争のなかで、この点に関してはほぼ完全な同意が得られた。
現実の計画経済において「一つの工場」イメージが成り立たない理由は、次の4点にある。第一は不可知性で、計画当局は全知全能ではなく、経済にはつねにブラックボックス的部分が伴うが、経済の高度化、複雑化につれて、このブラックボックス的部分はむしろ増大する傾向にある。第二はデータ処理技術の不備性で、最新の数理的技法とコンピュータを駆使しても、社会の多様なニーズを盛り込んだ整合的な中央計画作成という課題を解くことはできない。第三は「複雑性」で、経済を構成しているのは、ある単一の目的で統合されたオーケストラやスポーツのチームではなく、それぞれ独自の部分的利益を追求するミクロ経済主体の「連合」であるということである。この点を無視した過剰制御は、利害の背反から、逆に経済の制御可能性を低め、浪費や非効率の源泉となる。第四に、先に触れた資源配分と効率向上という、いかなる体制にも共通する二つの課題を計画化で正しく処理するためには、計画化が正確な社会的労働計算に立脚しなければならないが、現物タームの直接労働計算は不可能であるから、価格的指標の適切な利用が不可欠となる。スターリン批判後、非市場的経済という古典の社会主義像と反対に、価格、利潤、利子といった市場経済のカテゴリーを計画経済が利用せざるをえなくなった理由は、ここにあった。計画経済における周知の浪費と非効率は、以上四つの基本問題に適切な解決が与えられていないことによるものであった。
[佐藤経明]
以上のように考えれば、スターリン批判後の論争と経済改革が、意思決定の分権化の問題と並んで、市場機構の利用の問題をもう一つの軸として転回してきたのは、当然というほかはない。分権的計画経済は、国民経済の構造と発展方向を決めるような重要なマクロ経済的意思決定は中央が握りながら、企業の自律性を認め、ミクロ経済活動を中央の決める「ゲームのルール」の枠内で市場にゆだねる構想にたっている。それは、中央計画によるマクロ経済的意思決定の枠組みのなかで、サブシステムとして市場機構を利用しようとするもので、資本主義への体制的接近をただちに意味するものではないとされていた。
伝統的な集権的計画経済モデルと分権モデルとを分かつ境界線は、通常、中央計画を多数の義務的計画指標に分解して企業に下達する指令方式が廃止されるか否か、この指令方式の背骨をなしている生産財の行政的配分制が廃止されるか否か、にあると考えられてきた。この基準からすれば、ユーゴスラビアはもちろんのこと、ハンガリーも早くから境界線を越えていたが、その他の諸国は部分的分権システムないし緩和された集権制の枠内にとどまっていた。その枠内でも義務的指標の数はしだいに削減され、価格的な指標の利用がより比重を増す方向にあったが、後者は依然前者にリンクされていたのが、1980年代末の体制転換までの顕著な特徴であった。これに反しハンガリーでは、1980年代に開始された経済改革の新しい波のなかで、より市場化を強める方向をとり、他方、社会主義的市場経済といわれるユーゴスラビアでは、下からの協議システムと地方分権化の結果としての計画的制御の弱さが、1970年代末から表面化した経済困難のなかで批判の対象となり、最終的には連邦崩壊の一因ともなった。
[佐藤経明]
古典的な計画経済の「一つの工場」イメージは、別のことばでいうと、単一の国有・国営経済に無限に接近するのが社会主義計画経済の完成であるという考え方であったが、1980年代にはハンガリーと中国とを先頭にして、これと逆の方向で経済システムを設計しようとする注目すべき動きが進行した。農家レベルの生産責任制で事実上の小農制に移行し、経済特区・開発区を拠点とする大胆な対外開放政策を採用した中国と、ハンガリーとの間の差異は少なくなかったが、共通するのは、公有制を基本としながらも、国有(公有)企業、協同組合企業、小規模集団有企業、私企業といった多様な所有形態と、所有と経営の分離(たとえば公有企業の入札請負制)による多様な経営形態とを組み合わせ、「社会主義型の混合経済体制」を志向する動きであった。そのなかには経済活性化のためにとられた便宜的な方策もあるが、社会主義計画経済の実行可能なシステムが、こうした混合経済システムに収斂(しゅうれん)しつつあることの意味は大きかった。
混合経済体制化で市場社会主義に接近しつつあった1980年代の流れは、論理をつきつめれば「体制転換」を内包(たとえば私的セクターの大胆な拡大の主張)していたが、直接的には1989年の東欧革命による政治体制の大転換で中断された。ソ連型の社会主義では一党制支配と指令的計画経済とは不可分であったから、前者の崩壊は同時に後者の崩壊となり、「再資本主義化」の過程がとってかわった。しかし、それにかわって現代的な、制度化された資本主義市場経済がただちに生まれるわけではないから、特異で矛盾に満ちた移行期経済の時期が20年近く続いた。中・東欧5か国のEU(ヨーロッパ連合)加盟(2004年5月)は「移行期」終了の一つの重要な里程標である。しかし、形成されつつある中・東欧諸国の資本主義には、伝統的に社会的保障にウェイトを置いた欧州型資本主義からの離反の兆候もみられ、安定した体制転換資本主義を形成したというにはほど遠いものがある。
[佐藤経明]
『M・エルマン著、佐藤経明・中兼和津次訳『社会主義計画経済』(1982・岩波書店)』▽『J・コルナイ著、盛田常夫・門脇延行編・訳『反均衡と不足の経済学』(1983・日本評論社)』▽『J・コルナイ著、盛田常夫編・訳『「不足」の政治経済学』(1984・岩波書店)』▽『J・コルナイ著、盛田常夫編・訳『経済改革の可能性』(1986・岩波書店)』▽『W・ブルス、K・ラスキ共著、佐藤経明・西村可明訳『マルクスから市場へ――経済システムを模索する社会主義』(1995・岩波書店)』▽『西村可明著『社会主義から資本主義へ――ソ連・東欧における市場化政策の展開』(1995・日本評論社)』▽『佐藤経明著『ポスト社会主義の経済体制』(1997・岩波書店)』
一国における経済発展やその他の基本的経済活動が国家計画の作成・遂行を通して行われるとき,この国民経済は計画経済と呼ばれる。計画経済においては,財・サービスの生産・流通・分配が,国家により事前に決定された様式に従って,各生産主体の活動を通して実現されることになる。こうした経済運営メカニズムとうまく調和するのが社会主義的政治経済制度であることは明らかであろう。これに対して〈経済計画〉とは,一般に国家が経済発展に関する目標を定め,それを実現するための手段・方法を設定するという意識的な行為をさす。この場合,各経済主体は必ずしもこうした計画に従う義務を負うわけではない。この意味で経済計画は程度の差こそあれ,社会主義以外の経済体制においてもかなり広くみられる経済行為であり,計画経済とは区別される。
1917年にボリシェビキが政治権力を握ったとき,世界で初めての社会主義国がロシアに誕生した。ボリシェビキはマルクス主義者の党であり,そのめざす経済システムの根幹にはマルクス主義の政治経済理論に従って,最初から中央集権的計画システムが据えられていたことは当然であった。しかし17-20年の内戦期,それに続く21-25年の国内経済の復興期には,誕生したばかりのソ連は国家存亡の危機に直面していたのであり,目ざす経済システムの本格的建設に着手する余裕はなかった。とはいえ1921年2月にはゴスプランGosplan(ソビエト連邦閣僚会議国家計画委員会)が設立され,計画経済システムはともかくも動きはじめた。25年8月に初めて〈望ましい経済発展の指標(管理指標)〉が提示され,国家計画機関の本来の機能が実現された。さらに29年に採択されることになる〈第1次五ヵ年計画〉の準備作業に向けて,ゴスプランはその機能を全面的に発揮しはじめるのである。30年代に入るとソ連の経済運営はゴスプランを中心に比較的安定的に行われるようになり,ソ連型計画経済モデルが成立することになる(このモデルは何回かの小改革を経たが基本的にはソ連邦崩壊まで機能していた)。第2次大戦までは社会主義国といえば実質的にソ連1国のみであり,ソ連モデルが社会主義計画経済の唯一のモデルであった。戦後社会主義国が数多く誕生し,その結果計画経済のシステムも多様化してきて,ソ連モデルだけでは現在の計画経済を十分に理解することは困難になった。しかしその後も計画経済の基本モデルを提供していたのはソ連のそれであったことは否定しえない事実である。
ソ連の経済計画には特有の概念が存在し,それはいくつかの原則によって表された。第1は党派性の原則であり,計画はなによりも共産党の政策の具体化でなければならないことが要求された。第2は指令性であり,計画は経済関係者を拘束する指令の形をとった(このような運営がなされる経済体制を指令経済という)。第3はアドレス原則であり,計画目標はその実施に責任を負う組織を特定化した。これにより計画の実施が保証された。第4は経済計算性の原則であり,各経済単位は自己の企業会計をもち,与えられた計画指標のもとで損益計算に基づき運営しなければならなかった。これらの原則のもとで実際に計画が作成されるが,そのとき重要な役割を果たす機関は,まず第1に中央計画機関としての国家計画委員会(ゴスプラン)であった。ゴスプランは生産計画を作成し各企業にその実施を求める責任を負った。他の重要な中央機関として,物資配分計画に責任をもつ資材・機械補給国家委員会(ゴススナブ),価格決定に責任を負う国家価格委員会,労働問題に責任を負う労働社会問題国家委員会などが存在した。作成された計画を実行に移す生産単位は企業ないしは企業連合である。また計画は実際に遂行されたか否か点検される必要があるが,その責任を負うのは中央統計局と国立銀行(ゴスバンク)であった。
ソ連で作成される経済計画は対象となる期間により,操業計画(日間,旬間,月間,四半期),経常計画(1年),展望計画(中期計画(5年)・長期計画(15~20年))に分類された。これらの国民経済計画(とくに中期計画)の作成は膨大な人員と時間を消費する大事業であり,綿密な組織的取組みが必要とされた。この作成作業は,通常,以下の諸段階から構成された。(1)計画の書式,表,指標およびそれに関する方法の指示,(2)前期計画の結果の検討とその遂行実績の分析,(3)計画の基本方向の策定,(4)暫定的な生産・投資目標数字の作成と下部組織のための予備的な目標値の算定,(5)企業,企業連合,省,共和国および国民経済全体の計画草案の作成,(6)国民計画の確認,(7)国民経済計画の各該当部分の対応する諸機関への下達,(8)各共和国,地方,州,省,部門,企業連合,企業の最終的な発展計画の作成。以上がソ連の計画システムの概略である。
ソ連の計画経済はどのような結果をもたらしただろうか,またそれは資本主義的市場経済と比して,よりすぐれた実績をあげただろうか。この問題は社会主義の成立とともに早くから提起され,かつ現在まで繰り返し議論されてきた難しい問題である。まず体制比較を意味あるものにするためには,それを単一の次元ではなく,複数の次元で試みなければならない。社会的,経済的,政治的な観点からの総合的な比較検討が要求される。例を経済効率性にとろう。どちらの体制がより効率的であろうか。1920年にL.ミーゼスは,社会主義においては価格メカニズムが作用せず財の合理的配分が妨げられるので,それは資本主義に劣るだけでなく,そもそも運営不可能な経済システムであると主張した。この主張およびその修正版をめぐって,それを支持するL.ロビンズ,F.A.ハイエクらと批判するO.ランゲ,A.P.ラーナーらとの間で,激しい論争が展開された。これを経済計画論争といい,論争は理論的に両システムを検討するものであったが,論争の展開につれて多くの興味深い関連問題を派生し,ある意味ではいまだに論争は継続中なのである。
では実績としてはどうであろうか。統計資料を検討すれば両システムの実績は明らかになるのではないか。こうした問題意識から出発したアメリカのバーグソンAbram Bergson(1914-2003)は,統計データを駆使して,社会主義は資本主義より著しく非効率であるという命題を提出した。この明確な主張も,彼の用いた分析上の諸前提の妥当性に関して多くの批判が集中しており,説得力を失う危険にさらされていた。たとえば,ソ連とアメリカを比較し,その結果アメリカの生産性水準がソ連のそれよりも高いことが観察されたとしても,それは両経済システムの差からではなく,両国の文化的・歴史的差から生じたものかもしれず,体制比較にはこうした固有の困難が伴う。また体制比較にはイデオロギー上の差異がしばしば色濃くつきまとうのであって,〈両体制は,等しく身びいきな議論を展開するのが得意である〉(M.エルマン)という結論は大きな説得力をもつ。もちろんこの理由からだけではないが,現実に米ソの専門家はともに,これまでの経験により自国のシステムの優位性は十分実証されていると考えていた。
第2次大戦後,多くの国が新しく社会主義国となり,その結果,社会主義計画経済システムは大幅に多様化した。とりわけ中国,ハンガリー,ユーゴスラビアの計画システムが,計画経済の可能性に新たな次元を導入した。中国はソ連とまったく異なる文化的・歴史的背景を有しており,その計画化はさまざまな意味でソ連のそれと乖離(かいり)している。ハンガリーは規制された市場メカニズムに依拠した分権的計画メカニズムを有し,集権的計画メカニズムと規定されるソ連の場合とは異なるアプローチを採用していた。しかしなんといっても社会主義計画経済に質的に異なる新しい観点を持ち込んだのはユーゴであろう。そこでは労働者自主管理(労働者管理)・住民自治に基づいて社会主義像が構築され,その一環として社会計画が位置づけられた。自主管理計画化と呼ばれるユーゴの計画化は,伝統的な意味での計画化と呼べるか否かまで含めて,社会主義における計画化の可能性に再考を迫る点で大きな意義を有していた。
執筆者:阿部 望
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…経済体制を資本主義と社会主義とに大別すると,経済運営のしくみとして,資本主義は市場機構を用い,社会主義は計画機構を用いる。この意味で,資本主義の経済を市場経済と呼び,社会主義の経済を計画経済と呼ぶ。経済計画とは,国家が一定の目的をもって全体としての経済活動を意図的に制御しようとする試みであって,社会主義においては経済計画が不可欠である。…
…他方,その他のソ連・東欧諸国では,60年代半ばの経済改革以来,漸進的な変化は進んではいるものの,ハンガリーを除いて,このモデルからの原理的脱却はなおおこなわれていない。 1930年代にソ連で成立した社会主義計画経済制度は,極度の中央集権を特徴とするものであった。農業の個人副業(自留地)経営とコルホーズ商業(自由市場)を除いて,社会的生産物の生産,流通,分配を集権的な中央計画でカバーし,市場的な要素が極端に排除ないし抑圧されているのが,その基本的な性格をなしていた。…
…五ヵ年計画は国の工業化を目ざすと同時に,経済の計画化を目ざすものであった。ソ連はめざましい工業国となり,一元化された国営計画経済が出現した。この中で労使関係観も変化し,労働組合は相対的自立性を失って,準国家機関化した。…
※「計画経済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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