「おんとう」とも読み、俗に島流しともいう。流罪(るざい)ともよばれたので、律令(りつりょう)時代の遠流(おんる)の後身のようにみえるが、遠流は辺地に放逐することで、遠島とは異なる。江戸幕府の公事方御定書(くじかたおさだめがき)の規定では、江戸からは大島、八丈島、三宅(みやけ)島、新(にい)島、神津(こうづ)島、御蔵(みくら)島、利(と)島の伊豆七島のうちに遣わし、京、大坂、西国(さいごく)、中国からは、薩摩(さつま)、五島の島々、隠岐(おき)国、壱岐(いき)国、天草郡に送ることになっていた。その者の田畑、家屋敷、家財は闕所(けっしょ)(没収)になる。
例を江戸からの遠島にとって述べると、裁判所では、遠島だけが申し渡され、出帆の前夜に行き先が言い渡される。それまでは在牢(ざいろう)させられ、身寄りの者からの差し入れがないときは若干の手当銭が支給される。流人(るにん)は出帆の前日に牢屋の中の遠島部屋に入れられ、この際、手当銭のなかから400文で好きな酒食がとれる。当日の朝、流人は牢屋裏門から、霊岸島(れいがんじま)にある御船手番所(おふなてばんしょ)に連れて行かれる。遠島の用船は500石積みで、流人は船牢に入れられるが、御目見(おめみえ)以上の流人と女流人は別囲(かこい)である。船は鉄砲洲(てっぽうず)に3日間滞船し、この間、家族親戚(しんせき)などから飲食物を贈りたい旨の申し出があれば、役人の裁量で会わせて渡させる。出帆ののち、相州浦賀(神奈川県)の番所に船を止め、流人は改めを受けて、流人の始末書はここの役所に収められ、その写しをもらって、船は予定の島に向かう。流刑(るけい)は斬罪(ざんざい)よりは軽いが、死に勝る悲しみがあるといわれた。
島での生活は、大島、三宅島、八丈島はよいほうで、利島、神津島、御蔵島は悪いといわれた。のちには、八丈島、三宅島、新島の3島にだけ流すことになった。よい島のなかでも、三宅島は他の島よりもよいといわれ、流人のなかでも、一軒の所帯をもつ者は水汲(みずくみ)女を抱えてこれを妻とした。そういうわけで、八丈島に流す者も、流人生活に慣らす意味もあって、数か月ほどは三宅島に滞留させた。しかし、三宅島の生活が楽だといっても、一軒の所帯をもてない者は、小屋と称する古代の穴居のような生活をするありさまであった。八丈島は江戸からの距離は遠いが、流人の暮らしはよかった。関ヶ原の戦いで西軍についた宇喜多秀家(うきたひでいえ)が江戸幕府によって八丈島に流され、また町絵師多賀長湖(後の英一蝶(はなぶさいっちょう))が、5代将軍徳川綱吉(つなよし)の愛妾(あいしょう)おでんが舟中で鼓(つづみ)を打ち、綱吉が棹(さお)をさすところを描いて、三宅島に流されたことは有名である。幕末になって、外国船が近海に現れるようになると、幕府は、外国人との接触を恐れて、1862年(文久2)蝦夷地(えぞち)(北海道)の離島に送ることにした。翌年からは旧に復して伊豆諸島に送ることになった。
関西の流人は大坂に集めて出船したが、京都の流人を大坂に送るには、高瀬舟に乗せて、京都町奉行所(ぶぎょうしょ)の同心が同行した。罪科が決まって島に流されるときは、京都では牢屋敷に親戚の者を呼び出して、当人に引き合わせて暇(いとま)をさせるのが定法であった。森鴎外(おうがい)の小説『高瀬舟』は高瀬舟で送られるある流人の身の上話である。
[石井良助]
江戸幕府の刑罰の一つ。流罪(るざい)ともいい,その罪人を流人(るにん)という。離島に送り,島民と雑居して生活させる刑で,《公事方御定書》(1742)以後制度が整った。武士,僧侶神職,庶民など身分を問わず適用され,武士の子の縁坐(えんざ),寺の住持の女犯(によぼん),博奕(ばくち)の主犯,幼年者の殺人や放火などに科された。死刑につぐ重刑とされ,田畑家屋敷家財を闕所(けつしよ)(没収)し,刑期は無期で,赦(しや)によって免ぜられたが,《赦律》(1862)によれば,原則として29年以上の経過が必要であった。全国に散在する幕府の奉行,代官の役所を近江を境に東西に分け,美濃以東の役所で判決した罪人は江戸小伝馬町牢屋に,近江以西の場合は大坂の牢屋に集めたが,長崎奉行だけは直接島に送った。京都から大坂に流人を移すのに高瀬舟が使われたのは名高い。江戸からは春秋2回出船し,大島,八丈島,三宅島,新島,神津島,御蔵島,利島の伊豆七島に,大坂からは年に1回出帆し,薩摩および五島の諸島,隠岐,壱岐,天草島に流した。島の発展とともに島の経済が流人を収容できなくなり,のちには八丈,三宅,新島の3島,および隠岐だけに限られるようになった。幕末には開港により伊豆七島の流人が外国人と接触するのをおそれ,1862年(文久2)北海道箱館の人足寄場に送って人足として使役したが,翌年また旧に復している。流人は島において牢名主に類した流人頭,および村役人の統制に服し,島民の漁業・農業の手伝いをして苦しい生活を送ったが,技能をもつ者や,本土から金品が送られてくる者は比較的余裕があり,事実上妻帯して家庭をもつこともできた。武士の子や家来は願えば親や主君と同船,島で同居できる例もあった。島に定着し,赦免されても帰島を願う者さえあり,その願いも許可されている。重刑という建前は崩れ,刑としての不平等が顕著になったといえる。遠島地への航海中に難船すれば,あらためて船を仕立てて送った。流人として不良の行為があれば島替(しまがえ)に処するが,実際は死刑にした。島からの逃亡を島抜(しまぬけ),島紛失などというが,浦触(うらぶれ)という触書を発して捜索し,逮捕されればその島で死罪となった。藩でも島を領有する場合は遠島を行うことがあり,島をもたない藩では永牢(ながろう)という無期禁固に代えるのが原則であった。
執筆者:平松 義郎
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「おんとう」とも。流罪とも。江戸幕府の刑罰の一種。斬罪より軽く,重追放より重い。「公事方御定書」制定後制度が整った。罪人を江戸および大坂の牢屋に集め,一括して離島に送り島民と雑居して生活させた。江戸からは大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の伊豆七島へ,大坂からは薩摩・五島の島々と隠岐・壱岐・天草島へ配流したが,後には八丈島・三宅島・新島・隠岐のみとなった。身分を問わず適用され,田畑・家屋敷・家財は闕所(けっしょ)とされた。刑期は無期限だが赦(しゃ)によって許される場合があった。配流地からの逃亡を島抜けといい,再度捕らえられると死罪となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…私的に所持する財産を官没するもので,公的な支配権の召上げは改易(かいえき)と呼び区別した。《公事方御定書》によれば,鋸挽(のこぎりびき),磔(はりつけ),獄門,火罪,斬罪,死罪,遠島および重追放の諸刑には田畑,家屋敷,家財の取上げが,中追放には田畑,家屋敷の取り上げが,軽追放には田畑の取上げがそれぞれ付加される。これを欠所と称し,武士,庶民を通じて適用したが,扶持人の軽追放においてはとくに家屋敷のみの欠所とする。…
…中間たちは賭博常習者であり,都市博徒の有力な予備軍であった。1793年(寛政5)には,武家の家来で徒士(かち)以上の者が博奕をした場合は遠島,足軽・中間以下で主人の屋敷で博奕をした者は遠島,他所へ行って博奕をした者は江戸払とすると定められた。このほか,目明し(めあかし)と呼ばれる取締役人の手先を務める者たちがあった。…
…しかしこのほか,次の三つの機能をも有した。(1)有罪判決(とくに遠島(えんとう)刑)を受けた者を,刑の執行(出船)まで拘置する場所としての機能。(2)永牢(ながろう),過怠牢(かたいろう)という,幕府の法体系の外に,いわば例外的にのみ存在した禁錮刑を執行する場所としての機能。…
※「遠島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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