童謡詩人。本名金子テル。山口県大津郡仙崎村(現、長門市)生まれ。父は母の妹の嫁ぎ先だった書籍卸業の上山文英堂に職を得るが、みすゞが3歳のときに大陸にて死去。遺族は仙崎で金子文英堂を経営。大津高等女学校時代のみすゞは校友誌にいくつか散文を発表しているが、童謡詩の才能が開花するのは、下関の上山文英堂に転居した1923年(大正12)、20歳のころからである。信濃の国にかかる枕詞「みすずかる」から「みすゞ」を筆名とすると、雑誌『童謡』に「お魚」「打出の小槌」、『婦人倶楽部』に「芝居小屋」、『婦人画報』には代表作の一つ「おとむらひ」を発表(1923)。以後、1929年(昭和4)までに90編が発表されている。みすゞの登場は『赤い鳥』を頂点とする童話や童謡を扱う雑誌の隆盛が背景にある。その中心にいたのが詩人の西条八十である。豊かな日本海の自然に育ったみすゞは、もともと命あるものに対する独特の死生観をもっていたが、その内面にストーリーを与えたのは北原白秋でも野口雨情でもなく八十の詩情だった。のちに『童謡』の選評にあたった八十も「氏には童謡作家の素質としてもっとも貴いイマジネーションの飛躍がある」と賛辞を送った。『童謡』を待ちわびるみすゞも「また涙ぐみました」と通信欄に寄稿し、この頃が童謡詩人としてのもっとも幸福な時代であったといえよう。
1926年に上山文英堂の社員と結婚した頃からみすゞの運命は暗転する。長女の誕生は喜びだったが、母として妻として生きねばならないみすゞの詩作は制限される。さらに、みすゞの才能に無関心だった夫は、経営者と不仲となるばかりか、遊郭遊びでうつされた淋病を出産直後のみすゞに感染させてしまった。特効薬のない時代には、慢性化すれば下腹部の痛みと関節炎を併発した。西条八十が、九州への途時、下関駅でみすゞと対面したのはこの頃だった。1927年夏、プラットホームの「仄暗い一隅」に立っていたのは「一見二十二三歳にみえる女性でとりつくろはぬ蓬髪に普段着の儘(まま)、背には一二歳の我児を負」う女だった。やがて、みすゞは死期を悟ったように遺稿集3冊を手帳に清書する。1組を八十に、1組を最大の理解者だった弟正祐(まさすけ)に送る。1930年になって正式に離婚が成立すると夫は娘を引きとりにいくと主張した。3月10日と定められたその日、みすゞは劇薬カルモチンを飲んで自ら命を絶った。享年26歳。前日に写真館にて遺影を撮っている。
現在の金子みすゞブームを考えるとき、詩人・研究家矢崎節夫(1947― )の功績をあげねばならない。何度も山口に足を運んだのちに、弟正祐の手元にある1組にたどり着いたのである。やがて、遺稿512編が整理され、『金子みすゞ全集』(1984)が発刊されると、夭逝した童謡詩人の全貌がはじめて明らかになったのだった。そこには、10代にして土地と自然にノスタルジーを見いだしてしまう希有(けう)な才能があった。ところが、現在はその感覚の根拠をさぐるのではなく、ジェンダーや童謡詩との比較研究など周辺の論議に終始している。その意味では、金子みすゞの文学上の評価は、ブームとは別にいまだ曖昧である。ただ、次のような事実はその評価の糸口となろう。みすゞと同時期に山口という土地は、俳人種田山頭火、作家嘉村礒多(かむらいそた)、詩人中原中也という近代文学に絶大な影響を残した文学者を輩出している。彼らは、山口がまだ長州としてあった時代から明治維新へと至った熱気をはじめて言語化し、その栄光と失意を再現しなければならなかった最初の世代だったのである。金子みすゞは、そこからとらえ直される必要がある。
[山岡賴弘]
『『金子みすゞ全集』(1984・JULA出版局)』▽『『ふうちゃんの歌』(1995・JULA出版局)』▽『『金子みすゞ童謡集』(ハルキ文庫)』▽『矢崎節夫著『童謡詩人金子みすゞの生涯』(1993・JULA出版局)』
大正・昭和期の童謡詩人
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(加藤久美子)
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