1880年(明治13)公布の旧刑法に定める重罪犯の集禁監獄施設。旧刑法に基づいて81年に改正された監獄則によれば、監獄は留置場・監倉の未決監と、懲治(ちょうじ)場・拘留(こうりゅう)場・懲役場・集治監の已決(いけつ)監に分かれ、徒刑・流刑・禁獄の刑に処せられた者を「集治スルノ所」が集治監であり、たとえば北海道では「本監ハ徒刑流刑ニ處(しょ)セラレタル者ヲ集治ス」と定められていた。77年12月、内務省は西南戦争などの国事犯収容のため宮城県に監獄の新設を決定し、さらに東京付近の獄舎も政治犯の増加で囚人の拘禁が困難となったため、拘禁状態の緩和と監獄改良を目的に新監を建設することとした。これが79年4月、内務省の直轄する最初の集治監として開庁した宮城、東京の両集治監である。また、80年の刑法改正で、徒刑・流刑囚はすべて島地に送ることとなり、81年3月の太政官(だじょうかん)布告では、集治監に拘禁する囚人は終身刑および国事犯で刑期5年以上の者とされた。このため内務省は北海道での集治監建設計画をたて、81年9月樺戸(かばと)郡須部都太(すべつぶと)(現月形町)に樺戸集治監、82年7月空知(そらち)郡市来知(いちきしり)村(現三笠(みかさ)市)に空知集治監、85年11月川上郡熊牛村(現標茶(しべちゃ)町)に釧路(くしろ)集治監をそれぞれ開庁した。この北海道の集治監には、徒・流刑囚に加えて重懲役10年以上の者を拘禁する方針がとられたため、84年兵庫監獄署と東京、宮城、三池(83年4月、福岡県に開庁)の3集治監に仮留監を設け、北海道に送る囚人を一時拘禁した。86年1月、北海道庁の設置とともに道内の3集治監は道庁に移管され、91年には北海道集治監本監(樺戸)と空知・釧路・網走(あばしり)の3分監に組織変えされた。なお網走分監は、同年8月網走郡最寄(もよろ)村(現網走市)に開庁した。95年7月には北海道をはじめ全国の集治監は内務省直轄となり、以後拓殖務(たくしょくむ)省(北海道のみ)、内務省を経て、1900年(明治33)以後は司法省直轄となった。この間、1895年4月には河西(かさい)郡下帯広(おびひろ)村(現帯広市)に十勝(とかち)分監が開庁した。1901年9月、空知・釧路両分監は廃止され、本監と十勝・網走両分監のみとなったが、03年3月の集治監仮留監制廃止、監獄官制制定によって集治監は廃止され、樺戸監獄などと改称された。
[桑原真人]
『大原虎夫著『日本近世行刑史稿 下』(1943・刑務協会)』
フランス刑法にならった重罪犯(無期懲役・国事犯など)の集禁監獄。1879年(明治12)4月東京と宮城県に初設置(宮城集治監は西南戦争の賊徒を収容した)。翌年北海道樺戸に(のち樺戸集治監を本監として空知・釧路・網走・十勝に分監を設置),83年福岡県三池にそれぞれ設置した。1908年公布の監獄法により廃止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…先の小原監獄則は,従来用いられていた囚獄の語を監獄に変え,独房制を導入し,未決・既決,男女を分けるなど進歩的であったが,財政的理由等から本格的実施をみないまま効力を停止された。監獄事務は73年に司法省から内務省に移管されていたが,西南戦争等による受刑者激増を契機に,各府県の懲役場とは別に79年内務省直轄の集治監が宮城県と東京府に開設された。 1880年の旧刑法はフランス法に範をとり,士族の特別扱いを廃し,犯罪を重・軽・違警罪に三分し,それぞれに複雑な自由刑を配したが,イギリス,ドイツにならって仮出獄をも導入した。…
…新政府の下で,初めは,律令制復活による徒刑(各府藩県管轄の徒場で執行)が導入された。やがて,イギリス,フランス,ドイツといったヨーロッパ諸国に学び,国立の集治監(1879年の宮城と東京に始まり,北海道などに増設)や,少年等の改善矯正のための懲治場(1881年の監獄則で導入,1907年に廃止)の時代を経て,1908年の現行監獄法制定に至っている。
[日本の刑務所の種類]
少年を成人から分け,男女を分離することは,前述の18世紀の監獄改良運動以来の要請である。…
※「集治監」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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