電通(読み)でんつう(英語表記)Dentsu Inc.

日本大百科全書(ニッポニカ) 「電通」の意味・わかりやすい解説

電通(株)
でんつう

日本を代表する世界的な広告企業。

内川芳美

創立から第二次世界大戦まで

1901年(明治34)7月発足の広告代理業日本廣告(こうこく)株式会社と併設のニュース通信業電報通信社に始まる。創立者は光永星郎(みつながほしお)(1866―1945)。光永は1906年12月株式会社日本電報通信社(略称電通)を設立、先の2社を吸収合併し、広告代理業と通信業の一体経営を開始。1907年にはアメリカのUP(現UPI)通信社と特約、国際ニュース通信でも新生面を切り開いた。しかし1936年(昭和11)6月、満州事変を契機として策定された政府のいわゆる「電聯(でんれん)合併」(電通ともう一つの通信社「聯合」の合併一元化)による国家代表通信社設立計画によって、通信業務を、聯合を基礎に強権的に新設された国策通信社同盟通信社に譲渡させられ、広告代理業専業会社となった。

[内川芳美]

戦後の飛躍的な発展

第二次世界大戦後、日本の経済復興とマス・メディアの発展、とくに民間放送ラジオ・テレビの出現普及過程で、4代目社長吉田秀雄の積極的なリーダーシップと広告代理業近代化政策のもとで飛躍的な発展を遂げ、1955年(昭和30)7月には社名も株式会社電通と改称した。このころから電通は、近代的広告会社としての体質転換を加速させた。その象徴は、1958年のアメリカからのAE(Account Executive)制の導入で、大広告主の商品の広告政策とその実施作業のすべてを連絡部長(AEに相当)が受注・代行し、必要な各部の要員からなるプロジェクト・チームを編成、指揮して業務を展開する新しい営業システムであり、また、広告をマーケティング一環としてとらえるマーケティング広告への意識改革の推進も電通の体質転換の象徴といえた。また広告営業に科学的手法を積極的に導入した。1968年には、マーケティング広告の科学的計画立案を可能にする電通MAP(Marketing Advertising Planning)システムと、そのサブシステムとしてDMP(Dentsu Media Planning)モデル(メディアのシミュレーションによる効果予測)という新システムを開発し成果をあげた。

[内川芳美]

営業領域の拡大と新メディアへの対応

電通は1964年の東京オリンピック、70年の日本万国博覧会大阪万博)を契機にナショナル・イベントやスポーツ・イベントに積極的に進出して成果をあげ、営業領域の拡大を図った。アメリカの広告雑誌『アドバタイジング・エイジ』のランキングによれば、1973年の年間取扱高で、電通が前年まで首位のJ・ウォルター・トンプソンを抜いて世界一になったと報じられ世界の注目を集めた。また電通は1950年代の後半から事業展開の国際化と取り組んできたが、81年に、アメリカのヤング・アンド・ルビカム社と折半出資の合弁会社電通Y&Rを東京に設立、世界各地にも合弁会社を設立して本格的な国際展開を進めた。この間、業態の変化に対応して1978年4月から英文社名をDentsu Advertising LTDからAdvertising(広告)をはずしDentsu Incorporated(略称Dentsu INC)と改称した。

 1987年、電通は拡大する業務をトータル・コミュニケーション・サービスととらえ、新企業スローガンをコミュニケーションズ・エクセレンスと表現し、新しい電通のロゴをCED(Communications Excellence Dentsu)とした。また、同年7月には、コミュニケーション関連分野の調査研究を主としたシンクタンクである株式会社電通総研を設立(1999年4月本社に吸収)。1989年(平成1)3月期の売上高は1兆0368億円に達し1兆円企業となった。営業領域はその後も拡大を続け、オリンピックをはじめ、世界陸上競技選手権などのスポーツイベント、国際花と緑の博覧会(花の万博)など国家的、国際的な大型博覧会などにも進出した。

 1995年(平成7)には、社業を地域別5社(電通東日本、電通西日本、電通九州、電通北海道、電通東北)に分け、各社独立採算制としたうえで本社とのネットワーク体制を構築した。また1997年に港区汐留(しおどめ)の旧国鉄用地跡地に新社屋建設計画を発表(2002年11月竣工)、同年6月には、初の第三者割当て(それまでは株主は、電通系と、共同通信社・時事通信社などの旧「同盟通信社」系に固定されてきた)による大幅増資が行われた。さらに1998年1月には、株式の公開、上場計画を公表、2001年11月上場した。1999年10月には、デジタル時代に対応して、衛星メディア局、インターネット・ビジネス局を新たに設置し、衛星テレビ広告、インターネット広告に対応する体制を固めた。さらに同年、インターネット関連の総合的なサービス企業としては世界最大のマーチファースト社(アメリカ)と、日本・アジア市場における合弁事業契約を締結した。資本金590億円(2008)、売上高1兆5860億円(2008)。

[内川芳美]

『『電通66年』(1968・電通)』『内川芳美編『日本広告発達史』上下(1976、80・電通)』『『電通90年史 光を掲げる者よ』(1991・電通)』

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改訂新版 世界大百科事典 「電通」の意味・わかりやすい解説

電通[株] (でんつう)

日本最大の広告会社。正式には株式会社電通。本社東京都港区。旧社名の株式会社日本電報通信社を1955年に改称したが,旧社名時代も電通が通称だった。光永星郎(本名,喜一)が1901年(明治34)新聞社に対するニュース通信業と広告代理業の併営を志し,日本広告株式会社と電報通信社を東京京橋で開業したことに始まる。日露戦争後の1907年,この2社を統合して株式会社日本電報通信社を設立した。帝国通信社(略称,帝通。1892創立),のちには新聞聯合社(略称,聯合。1926創立)と並び称される有力通信社に発展した。昭和期に入って満州事変後,電通と聯合を一本化し強力な国家代表通信社を設立するという政府構想が生まれ,曲折の末1936年電通通信部は新通信社の同盟通信社へ合流すると同時に,電通は残された電通営業部に同盟広告部を吸収して広告代理業専業企業として新発足をとげた。第2次大戦後の47年吉田秀雄(1903-63)が第4代社長に就任した。〈広告の鬼〉といわれた彼は強力なリーダーシップを発揮し,いち早く新広告媒体としての民放の育成をはかるなど,電通の体質改善や積極経営を推進し,電通を広告代理業から総合的な広告企業へと発展させた。73年にはアメリカの広告専門雑誌《アドバタイジング・エージ》による単一広告企業の年間広告売上高順位で電通が初めて世界第1位となる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「電通」の意味・わかりやすい解説

電通
でんつう
Dentsu Inc.

広告会社(→広告代理業)。1901年光永星郎の創立した日本広告が前身。光永は 4ヵ月後に電報通信社を創立し,1906年日本電報通信社と改組改名(略称が電通),翌 1907年日本電報通信社に日本広告を合併した。その後,新聞聯合社と通信界を二分して競争を続けながら発展。1932年政府は言論統制や国際宣伝強化などの見地から通信社の一本化方針を決定,1935年新聞聯合社を母体に同盟通信社を発足させた。1936年,日本電報通信社は通信部門を同盟通信社に委譲し,代わりに同盟通信社の広告部門を吸収,広告代理業専門の会社として新発足した。第2次世界大戦後は吉田秀雄のもとで日本経済の復興と高度成長の波に乗り,驚異的発展を遂げた。1955年,社名を現名称に改称。日本のみならず,1970年代以来世界の広告会社のトップの座を確保している。本社所在地は東京都港区。(→広告

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「電通」の解説

電通

正式社名「株式会社電通」。英文社名「DENTSU INC.」。サービス業。明治34年(1901)前身の「日本広告株式会社」「電報通信社」設立。同39年(1906)「株式会社日本電報通信社」設立。同40年(1907)「株式会社日本電報通信社」に「日本広告株式会社」を合併。昭和30年(1955)現在の社名に変更。本社は東京都港区東新橋。広告会社国内最大手。テレビ広告・スポーツイベントなどに実績。東京証券取引所第1部上場。証券コード4324。

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世界大百科事典(旧版)内の電通の言及

【通信社】より


[日本の通信社]
 明治憲法発布の前後に生まれた時事通信社(1887‐90),新聞用達会社(1890‐92)などが日本の通信社の先駆といわれるが,当時は群小通信社の乱立にとどまった。新聞用達会社の後身として,1892年創立の帝国通信社(帝通)は日清,日露戦争を通じて業務を拡大,1901年創立の日本電報通信社(電通)とともに日本の二大通信社として競争した。第1次大戦勃発直前の14年,ロイター通信社と結ぶ国際通信社(国際)が生まれ,26年東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんごう)社(聯合,1928年新聞聯合社と改称)を組織,帝通の没落とともに,電通と聯合との激しい競争を特徴とする〈電聯時代〉を生んだ。…

【同盟通信社】より

…1936年1月業務開始。1931年の満州事変勃発当時,日本の通信社としては日本電報通信社(略称,電通)と新聞聯合社(略称,聯合)とが激しく競争していた。しかし,国際情勢が緊迫するにつれて,強力な国家代表通信社設立の要望が強まった。…

※「電通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」