《万葉集》第1期(舒明朝~壬申の乱)の女流歌人。生没年不詳。《日本書紀》天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。父の鏡王に関しても不明。出生地についても大和国,近江国の2説あるが,どちらとも決定しがたい。《万葉集》の題詞によれば,額田王はのち天智天皇に召されて近江大津宮に仕えた。娘十市皇女は天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)の妃となり,葛野王(かどののおおきみ)を生んだが,壬申の乱(672)によって夫は自尽,のち皇女自身も急逝した。額田王はかかる波乱に満ちた時代を経て,持統初年ごろまで生存していたことが,弓削(ゆげ)皇子と贈答した晩年の詠によってわかる。このころおよそ60歳余か。
歌は《万葉集》に長歌3首,重出歌も含め短歌10首を収めるが,斉明,天智両朝のものが大部分である。斉明朝の西征途次に詠んだ〈熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉(巻一)や,近江遷都のおりに三輪山によせて詠んだ長歌,反歌などは,天皇御製とする異伝をもち,他の歌人にみられない特殊性を示している。これを天皇の代作歌と考え,彼女の歌に伝統的な巫女性や呪術性をみる説が有力である。近江朝における,春秋の優劣を判断する長歌(巻一)や,蒲生野の遊猟で大海人皇子と交わした〈あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る〉(巻一)などになると,宮廷雅宴の花として活躍する才媛ぶりがうかがえる。また〈君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く〉(巻四)の繊細優美な歌には,春秋優劣歌とともに中国詩の影響も指摘されている。このほかに天智天皇没後の公的な挽歌も詠んでいる額田王は,宮廷における代作歌人として,また衆を代弁する専門歌人として,《万葉集》第2期(壬申の乱後~奈良遷都)の柿本人麻呂の先蹤(せんしよう)に立つ歌人ということができる。また,その歌の抒情性と技巧は,女のみやび歌,女歌の流れとして大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を経て,平安時代の女流文学へ受け継がれていった。
執筆者:青木 生子
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生没年未詳。『万葉集』初期の代表的女流歌人。作品は長歌三、短歌九首。『日本書紀』(天武(てんむ)紀下)に「天皇初メ鏡王ノ女(むすめ)額田姫王ヲ娶(め)シテ、十市皇女(とをちのひめみこ)ヲ生ム」とある。父の鏡王は伝未詳だが、姫王(皇女=内親王に対して2世~5世の女王を示す)とあるので皇族である。若いころ大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)に召されて生んだ十市皇女の年齢などから推して、舒明(じょめい)朝(629~641)なかばごろの生まれか。持統(じとう)朝(686~697)の作があるので、60歳ぐらいまで生存し、長期の作歌活動を続けたが、主要作品は斉明(さいめい)・天智(てんじ)両朝の14年間に集中する。初め斉明天皇に仕え、主として天皇の意を代弁して呪歌(じゅか)(祝意あるいは願望などを込めて祈る歌)を詠じたらしく、雄渾(ゆうこん)で格調高い作がある(例歌参照)。斉明の崩御で一時宮廷を離れていたらしいが、天智天皇の近江(おうみ)遷都のころ、ふたたび召されたようで後宮に列した。おそらく歌人としてであろう。天智時代は、開明的気風のもとに大陸的みやびの世界を和歌に導入し、優美、繊細な新風で宮廷サロンの花形的存在となった。春秋の美の優劣を判定する歌「冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ……秋山われは」は有名であり、衆を代表して歌う立場などとともに、次代の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を呼び起こす先駆をなす点で評価が高い。その経歴および作品から、天智、天武両天皇との間に、王をめぐって深刻な三角関係があったとする見方が一部にあるが、おそらく誤りであろう。
[橋本達雄]
熟田津(にきたづ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな
『谷馨著『額田王』(1960・早稲田大学出版部)』▽『中西進著『万葉集の比較文学的研究』(1963・桜楓社)』▽『神田秀夫著『初期万葉の女王たち』(1969・塙書房)』▽『橋本達雄著『万葉宮廷歌人の研究』(1975・笠間書院)』▽『伊藤博著『万葉集の歌人と作品 上』(1975・塙書房)』
(芳賀紀雄)
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生没年不詳。7世紀後半の万葉歌人。鏡王(かがみのおおきみ)の女。藤原鎌足(かまたり)の妻となった鏡姫王(かがみのひめみこ)の妹とする説もあるが,系譜関係などは明らかでない。天武天皇との間に大友皇子の妃となる十市(とおち)皇女を生んだ。「万葉集」に多くの歌を残す。伊予の熟田津(にきたつ)での船出を待つ歌は,斉明天皇が百済救援軍を率いて筑紫に船出する情景を詠んだものとされる。また近江遷都後の668年(天智7)に蒲生野(がもうの)(現,滋賀県近江八幡市安土町一帯)で狩が行われた際,大海人(おおあま)皇子との間に交した贈答歌はよく知られている。同じ頃天智天皇を慕う歌もあり,王の存在が天智と大海人の不和をうみ,ひいては壬申の乱の原因になったとする説もあるが,疑わしい。
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…全期を通じて,歌は質朴な口承歌謡から巧緻繊細な個人の抒情詩へと変貌・脱皮していったといえよう。 (1)第1期の作者に舒明・斉明・天智・天武の諸天皇,中皇命(なかつすめらみこと),倭大后(やまとのおおきさき),有間皇子,大津皇子,大伯皇女(おおくのひめみこ)および額田王(ぬかたのおおきみ)があげられる。彼らはすべて王族に属しこの期の社会と文化の頂点に立つ人々だが,その作風は気宇大きく清朗で力強い。…
※「額田王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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