日本大百科全書(ニッポニカ) 「『風流夢譚』事件」の意味・わかりやすい解説
『風流夢譚』事件
ふうりゅうむたんじけん
『中央公論』1960年(昭和35)12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』に関して起きた右翼テロ事件。嶋中(しまなか)事件ともいう。『風流夢譚』は、都内に起こった「革命のようなもの」のために、天皇、皇后をはじめとする皇族たちが首を切られるという、寓話(ぐうわ)風の小説であるが、賛否両様の世評が高まってくると、宮内庁では、皇族に対する名誉毀損(きそん)・人権侵害であるとみて、法務省に法的措置の検討を求めた。法務省は、名誉毀損等の告発は法律上無理ではないかという非公式回答を行った。中央公論社側は編集部長が宮内庁に出向き、謝罪の意を表明、宮内庁側もこれを了承した。しかし、この小説は重大な皇室侮辱であり、国体を傷つけるものだという右翼団体の抗議が激化し、その一部には中央公論社の解体を求めて直接的なテロを扇動する者もあった。同年末には同社に対し数回もの暴力行使があった。安保闘争や浅沼暗殺事件の余波も強く残っていた。こうしたなかで、翌61年2月1日夜、中央公論社社長嶋中鵬二(ほうじ)邸に1人の少年が侵入、家政婦の丸山加禰(かね)を刺殺、嶋中夫人雅子に重傷を負わせるという事件が発生した。少年は当時17歳の小森一孝(かずたか)。当日朝まで大日本愛国党(赤尾敏(びん)総裁)党員であり、同党の抗議行動にも参加していた。小森の自供によると、彼は深沢七郎、ついで嶋中鵬二の両名を刺す目的であったという。「殺人によって人間の思想を抹殺しようとする勢力に反対する」声明(思想の科学研究会)をはじめ、言論・表現の自由に対する暴力を非難する声や動きは少なくなかった。中央公論社自らも「社業を通して言論の自由確立のために献身する」と誓った。しかし1961年12月、同社で発行していた『思想の科学』の天皇制特集号を編集主体(思想の科学研究会)に無断で一方的に廃棄するなど、思想的にも過剰な後退がみられた。この『思想の科学』事件は、同社の自由主義的伝統に期待した読者、執筆者の怒りと心痛を招くに至り、著名な学者や評論家など約50人が以後10年にわたって同社への寄稿を原則的に拒否するという抗議行動も行われた。
[柳田邦夫]
『中村智子著『風流夢譚 事件以後』(1976・田畑書店)』▽『柳田邦夫著『書き言葉のシェルパ』(1978・晩聲社)』▽『中央公論社編『中央公論社の八十年』(1965)』▽『京谷秀夫著『1961年冬』(1983・晩聲社)』▽『『思想の科学 天皇制特集号』(1962年4月・思想の科学社)』