明治~昭和期の仏教学者。文学博士。雪頂(せっちょう)と号した。広島県三原市八幡(やはた)町字篝(かがり)、沢井観三の長男に生まれ、のち神戸市元町、高楠孫三郎の養子となる。1889年(明治22)西本願寺立京都普通教校(現、龍谷大学)を卒業。在学中に反省会を結成し、『反省会雑誌』(『中央公論』の前身)を刊行する。1890年渡欧し、オックスフォード大学のマックス・ミュラー教授に師事し、インド学・梵語(ぼんご)学を学ぶ。その間、ドイツ、フランス、イタリアの著名大学の碩学(せきがく)に師事する。留学中『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『南海寄帰伝(なんかいききでん)』などの英訳を行う。1897年帰国、同年6月東京帝国大学・文科大学講師となる。1899年34歳で教授となり、1901年(明治34)文科大学梵語学講座の初代担任教授となった。東京外国語学校(現、東京外国語大学)校長、東洋大学学長を歴任。1926年(大正15)学士院会員となり、1944年(昭和19)文化勲章を受章。『ウパニシャッド全書』全9巻、『大正新修大蔵経(だいぞうきょう)』全100巻、『昭和法宝総目録』全3巻の編著がある。
[池田英俊 2017年9月19日]
『鷹谷俊之著『高楠順次郎先生伝』(1957・武蔵野女子学院/複製・1993・大空社)』
明治〜昭和期の仏教学者,教育家 東京帝国大学教授;東洋大学学長;武蔵野女子学院創立者。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
仏教学者。広島県出身。1889年西本願寺立京都普通学校を卒業,翌年ヨーロッパに留学(オックスフォード,キール,ベルリン,ライプチヒ),97年帰国。東京帝国大学教授,東京外語学校長,東洋大学学長などを歴任。中央商業学校,武蔵野女子学院を創設,また仏教青年会・女子青年会の育成にも努めた。学問的業績は枚挙にいとまないが,《観無量寿経》《南海寄帰内法伝》等の英訳,有部宗諸論蔵,《金七十論》等に関する研究論文,《善見律Samantapāsādikā》のパーリ原典校訂(長井真琴と共同)等が重要である。また《大正新脩大蔵経》100巻,《国訳南伝大蔵経》70巻,《国訳ウパニシャッド全書》9巻の発行を促進,完成させた功績も大きい。
執筆者:高橋 明
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…現存する外道典籍の漢訳としては,本書と《勝宗十句義論》の2書があるのみ。日本では江戸時代後半に盛んに研究され,また20世紀初頭,高楠順次郎のフランス語訳によってヨーロッパに紹介された。なお仏典中には,サーンキヤ学派が仏教徒を論破して《金七十論》なる書物を著し,世親はこれをさらに論破したとの伝説があるが,この書と現存する《金七十論》との関係は必ずしも明らかではない。…
※「高楠順次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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