アウン・サン・スー・チー(英語表記)Aung San Suu Kyi

翻訳|Aung San Suu Kyi

現代外国人名録2016 の解説

アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

職業・肩書
民主化運動家,政治家 国民民主連盟(NLD)党首,ミャンマー下院議員

国籍
ミャンマー

生年月日
1945年6月19日

出生地
ビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)

学歴
デリー大学卒,オックスフォード大学〔1967年〕卒

勲章褒章
オーストラリア名誉勲章〔1996年〕, 自由勲章(米国大統領)〔2000年〕, レジオン・ド・ヌール勲章

受賞
ノーベル平和賞〔1991年〕,サハロフ人権賞〔1991年〕,シモン・ボリバル賞〔1992年〕,ブレーメン連帯賞〔1993年〕,ネール賞〔1995年〕,アメリカン大学名誉博士号〔1997年〕,オロフ・パルメ賞〔2005年〕,マハトマ・ガンジー国際平和和解賞〔2009年〕,オックスフォード大学名誉博士号〔2012年〕(1993年授与決定),自由都市・堺平和賞(第3回)〔2012年〕,地球市民賞〔2012年〕

経歴
英国の植民地支配と闘ったビルマ建国の父として国民に敬愛されるアウン・サン将軍の長女。1947年2歳の時暗殺で父を失い、’62年のネ・ウィン将軍のクーデター後、駐インド大使に任命された母ドー・キン・チー女史とともにニューデリーへ移る。その後オックスフォード大学に留学。’72年に英国人のチベット研究家マイケル・アリスと結婚、2人の息子をもうける。英国市民権を持つ。’85〜86年京都大学東南アジア研究所の客員教官として来日、父を知る日本人関係者に会って資料を集め、後に父の伝記を出版した。’88年4月病気の母を見舞うため帰国、民主化運動が高まるビルマの激動期に居合わせた。8月セイン・ルイン政権が崩壊、反政府統一戦線結集会で民主化の早期実現を訴え、反政府勢力の中心的存在として脚光を浴びる。9月ビルマ最大野党の国民民主連盟(NLD)総書記長就任。’89年6月軍政府は国名をミャンマーに改名。再び反政府運動が激化したため、7月ソウ・マウン軍事政権によりヤンゴンの自宅で軟禁され、以後政治活動を禁止され、2010年まで断続的に軟禁状態が続いた。軟禁中の1991年“民主主義と人権のための非暴力闘争の勇気”に対し、ノーベル平和賞が授与される。末期前立腺がんを患っていた夫マイケルは亡くなる前にミャンマーへの入国を求めたが、軍事政権に拒否され、夫婦の再会は果たせぬまま、’99年3月死去。一度出国すると軍事政権側に再入国を拒否されるおそれがあるため、夫の葬儀にも出席しなかった。2010年11月自宅軟禁が解かれる。2011年春、ミャンマーは民政移管。2012年1月NLD議長(党首)に選出。4月連邦議会補選で下院議員に初当選。2013年3月党首再選。2015年11月、民政移管後初の総選挙でNLDが軍事政権の流れをくむ与党・連邦団結発展党(USDP)に圧勝し、第1党となる。テイン・セイン大統領は“平和的に政権を委譲する”との声明を発表して1960年代より続く軍事政権からの政権交代を認めたが、憲法は外国籍の親族のいる人物の大統領資格を認めておらず、現段階では大統領には就任できない。著書に「Freedom from Fear(恐怖からの自由)」(1991年)。

出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報

367日誕生日大事典 の解説

アウン・サン・スー・チー

生年月日:1945年6月19日
ミャンマーの民主化運動指導者

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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