日本大百科全書(ニッポニカ) 「アッパー・カナダ」の意味・わかりやすい解説
アッパー・カナダ
あっぱーかなだ
Upper Canada
カナダ東部の旧イギリス領植民地。現在のオンタリオ州南部にあたる。アメリカ独立革命(1775~1783)を逃れた王党派の一部が北上して五大湖北方にコミュニティを形成した。ここはケベック植民地の一部分であったが、彼らはフランス色濃厚な政治、経済、社会制度を好まず、イギリス本国政府は、1791年カナダ法(憲法法(けんぽうほう)ともいわれる)を制定してケベック植民地をアッパー・カナダとロワー・カナダに二分し、セント・ローレンス川の上流で王党派の多い地域をアッパー・カナダ植民地とした。ここには代表制議会、自由な土地所有制度など、イギリスの諸制度が導入された。「一八一二年戦争」(アメリカ・イギリス戦争)以後はイギリス人の移住が激増し、アッパー・カナダはイギリス系カナダ人の政治、経済、文化の中心となった。しかしイギリス国教会や総督と結んだ寡頭制(家族盟約(ファミリー・コンパクト)とよばれた)に対して1820年代から政治の民主化を求める運動が進み、1837年のマッケンジーの反乱に発展した。その結果、二つのカナダ植民地は統合され、1841年アッパー・カナダは連合カナダ植民地のなかの「カナダ西部」という行政区に改編された。
[大原祐子]