オットー1世(大帝)(読み)オットーいっせい[たいてい](英語表記)Otto I, der Grosse

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オットー1世(大帝)」の意味・わかりやすい解説

オットー1世(大帝)
オットーいっせい[たいてい]
Otto I, der Grosse

[生]912.11.23.
[没]973.5.7. メームレーベン
ザクセン朝第2代のドイツ王 (在位 936~973) ,初代神聖ローマ皇帝 (在位 962~973) 。父ハインリヒ1世のあとをうけて,教会機構を通じて国家統一事業を推進。 938年以後フランケン,バイエルン,ロートリンゲン諸部族公の反乱を押え,それらの公国をザクセン家の一族に与えた。他方 951年イタリアに侵入,寡婦であったブルグンド女王アーデルハイトと結婚して,イタリア王位を得,イタリア政策を重視するとともに,王権の基盤をこれまでの門閥的支配組織から帝国教会組織へ移し,多くの教会領寄進を行なった。その結果,教皇権との結びつきが緊密となり,第2次ローマ遠征の際,962年教皇ヨハネス 12世から神聖ローマ皇帝に戴冠されるとともに,「オットー大帝特権状」をもって教皇の世俗的権力を確認し,皇帝,教皇間の関係を規定した。 955年レヒフェルトにおけるマジャール人撃破は東方政策推進への道を開き,960年までに中部オーデル川にいたる地域のスラブ人を制圧。 968年教皇勅許によりマクデブルク大司教座を創設したほか,東方にいくつかの辺境領 (マルク) を築いた。 962年の帝冠獲得は,神聖ローマ帝国発足であり,以後,歴代国王はイタリア経営に力を注ぎ,また教会支配者としてのドイツ国王の地位は,のちの叙任権論争遠因となった。彼の治下には文芸も栄え,「オットーのルネサンス」と称された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オットー1世(大帝)」の解説

オットー1世(大帝)(オットーいっせい)
Otto Ⅰ. (der Große)

912~973(在位ドイツ国王936~973,神聖ローマ皇帝962~973)

ドイツ,ザクセン朝第2代の王。神聖ローマ帝国の初代皇帝。ハインリヒ1世の子で,治世の前半は父の治を継ぐ国家統一事業,後半はイタリア政策に専心した。すなわちまず外敵(主にノルマンマジャル人)を討つとともに,部族勢力抑圧の楔(くさび)としてその一族や王領伯を配置したが,一族が部族勢力と結んでそむいたことから,代わる統一策として帝国教会政策を採用した。その結果教皇権との結びつきが緊密化し,他方ブルグント王女との結婚によりイタリアとの利害が複雑化したところから,イタリア政策を重視し,第2次ローマ遠征の際教皇ヨハネス12世から帝冠を受けた。ここにドイツ王権はローマ皇帝権と統合して超ドイツ=普遍的なものとなったが,またのちの教皇対皇帝の争いの原因もここに生じた。

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