デジタル大辞泉 「オペラ」の意味・読み・例文・類語
オペラ(〈イタリア〉opera)
[補説]語源はラテン語で、骨折りの意。
[類語]歌劇・楽劇・喜歌劇・オペラコミック・オペラセリア・オペラブッファ・オペレッタ・ミュージカル
舞台芸術の一種で、歌唱を中心に、作品全体が主として音楽によって表現されてゆく劇。語源はラテン語のopus(作品)の複数形。誕生期にはdramma in musica(音楽による劇)またはdramma per musica(音楽のための劇)とよばれていた。日本では「歌劇」とよばれることもあるが、この語はもっと幅広い、歌唱を中心にした劇の総称としても用いられている。
オペラの音楽は、独唱、合唱、管弦楽などにより構成され、登場人物は歌い手でもあり、台詞(せりふ)がそのまま歌詞になり、ストーリーが展開してゆく。したがってオペラの上演には、演奏を含めた音楽的要素のほかに、文学的要素(台本、歌詞など)はもとより、美術的要素(装置、衣装、照明など)、挿入されるバレエなどの舞踊的要素、そして演劇的要素(演出、演技など)も欠くことのできないものであり、総合芸術としての魅力をもっている。
音楽表現の中心をなす歌唱は、各声域の独唱者による独唱(ソロ)と重唱、これに主として群衆の役を受け持つ合唱が加わり、劇が進められる。ナポリ派オペラ(後述)以後、近代に至る主流のオペラでは、独唱者のうたう歌は、旋律の美しさを主とした各種のアリア(詠唱)と、なかば語られるように歌われるレチタティーボ(叙唱)に分けられ、アリアは一つ一つ完結した独唱曲の形をとる。これら独唱、重唱などには進行の順に番号がつけられているものが多く、このため「番号オペラ」ともよばれる。
また管弦楽は、(1)声の伴奏、(2)登場人物の性格・行動・感情・心理などの描写・表現、(3)舞台上の雰囲気の醸出など、種々の機能をもつ。また冒頭の序曲や前奏曲、あるいは間奏曲の演奏など、管弦楽だけの部分も少なくない。
[今谷和徳]
歌唱を中心に、作品全体が主として音楽によって表現されていく劇は、西洋では、古代ギリシアの演劇をはじめ、ヨーロッパ中世の典礼劇、アダン・ド・ラ・アールの牧歌劇『ロバンとマリオンの劇』(13世紀後半)、そしてルネサンス時代のインテルメッツォ、マドリガル(マドリガーレ)・コメディ、バレエ、マスク(仮面劇)など、16世紀までに多くの種類がつくられているが、これらは普通、オペラとはよばれない。オペラは、16世紀末に古代ギリシアの悲劇の復興を目ざしたフィレンツェのカメラータという文学者・音楽家のグループの創作活動の結果として生まれた。彼らは、登場人物の台詞を通奏低音を伴奏として歌うという、モノディ様式をオペラの主体としたが、その最初の試みは、リヌッチーニO. Rinuccini(1562―1621)の台本、ペーリの作曲になる『ダフネ』(1594、初演は1598年)であった。残念ながらこの作品は現存せず、同じくリヌッチーニが台本を書き、ペーリが作曲した『エウリディーチェ』(1600)が、現存する最古のオペラである。これは、ギリシア神話のオルフェウスとエウリディケの物語を題材に、伴奏付きモノディを中心としてマドリガーレ風の合唱などを加えた形で書かれており、まだルネサンス時代の牧歌劇の雰囲気をとどめている。なお、『エウリディーチェ』が初演されたのは、マリ・ド・メディシスとフランス王アンリ4世の婚礼の際であったが、このとき上演されたものはペーリに対抗したカッチーニにより曲の一部を書き改められたものであった。
[今谷和徳]
フィレンツェで始まったオペラは、たちまちイタリア各地に広まり、多くの作品が生み出されていった。そのうち、1607年にマントバで初演されたモンテベルディの『オルフェオ』は、優れた音楽技法と劇的な構成によって書かれた、最初の本格的なオペラとして重要である。1630年代になると、ローマでランディS. Landi(1586/1587―1639)、マッツォッキV. Mazzocchi(1597―1646)、マラッツォーリM. Marazzoli(1602から1608ごろ―1662)らにより、主として宗教的題材に基づく作品が上演されていった。1637年ベネチアで史上最初の公開オペラ・ハウスが開かれ、続いて各地のオペラ・ハウスも続々と開場したことによって、以後17世紀の後半にかけて、ベネチアがオペラの中心地として栄えることになる。初期ベネチア・オペラのうちとくに重要なのは、人間の性格描写に優れた歴史劇であるモンテベルディの『ポッペアの戴冠(たいかん)』(1642)であろう。モンテベルディに続いて、その弟子カバルリ、さらにチェスティA. Cesti(1623―1669)らが、機械仕掛けによるスペクタクル性を重視した、どの階層にも楽しめるオペラを書いていった。また、歌手の名演奏が好まれ、とくに去勢された男性歌手であるカストラートがスターとしてもてはやされた。
他のイタリア諸都市のオペラにも、こうしたベネチア・オペラに特徴的な性格が共通にみられたが、17世紀末ごろから、ナポリがオペラの中心地になってゆき、音楽様式も変化していった。このようなナポリ派オペラの確立に大きな貢献をしたのは、アレッサンドロ・スカルラッティである。スカルラッティは、急―緩―急のイタリア風序曲の形を定めたが、彼をはじめナポリ派の作曲家たちは、レチタティーボとアリアの分離も推し進め、ダ・カーポ・アリアの形を確立した。また18世紀には、日常的な題材による喜劇オペラも数多くつくられた。それらはやがて、ペルゴレージの『奥様女中』(1733)をはじめとする、従来のオペラの幕間(まくあい)に行われていた滑稽(こっけい)な音楽喜劇であるインテルメッツォの影響も受けて、オペラ・ブッファと総称されることになる。それ以後、オペラ・ブッファに対して、従来の伝統的なオペラはオペラ・セリアとよばれるようになった。
[今谷和徳]
フランスでは初めイタリアのオペラが輸入されたが、あまり歓迎されなかった。しかし17世紀の後半に、イタリア出身のリュリが、フランス独自の古典悲劇やバレエなどの要素を巧みに取り入れ、またフランス語の抑揚に沿った朗唱を形づくり、宮廷の趣味にあった音楽悲劇をつくりだすことに成功して、フランス独自のオペラが確立された。続いてカンプラが、1幕ごとに物語が完結するオペラ・バレエの形を展開させ、18世紀前半には、ラモーが『カストールとポリュクス』(1737)をはじめとする多くの作品を上演して、伝統的フランス・オペラをさらに発展させた。
イギリスでは、16世紀以来独自の音楽劇である仮面劇のマスクが上演され続けていたが、それにフランスやイタリアの影響が加わり、ブローJ. Blow(1649―1708)やパーセルなどのイギリス・オペラが生み出された。しかし、まもなくイタリア・オペラが支配的となり、『ジュリオ・チェーザレ』(1724)などの優れた作品を書いたヘンデルや、イタリア人作曲家たちによるイタリア・オペラの消費地と化した。やがて、民衆的なバラッド・オペラが流行し始め、イタリア・オペラは下火となっていった。
ドイツでは17世紀の初めに、イタリア語の台本のドイツ語訳に作曲されたシュッツの『ダフネ』(1627。音楽現存せず)が現れたが、以後は各地の宮廷でイタリア・オペラが流行し、イタリア人作曲家たちの支配に甘んじた。一方、1678年に北ドイツのハンブルクで、ベネチア以外で最初の公開オペラ・ハウスが開かれ、ラインハルト・カイザーR. Keiser(1674―1739)やテレマンらによって、一般にハンブルク・オペラとよばれるドイツ語によるオペラがつくりだされていったが、1738年にこの劇場が閉じられるとともに、ふたたびドイツはイタリア・オペラの消費地となった。
スペインでは、17世紀にサルスエラとよばれる音楽劇が栄えたが、やがて幕間劇のインテルメッツォから喜歌劇のトナディーリャが独立し、18世紀後半に盛んに上演された。
[今谷和徳]
18世紀の中心的な存在だったナポリ派オペラは、アリア中心の声楽技巧を誇示する弊害をみせていたが、やがて劇としての構成を見直そうとする動きが出てきた。そのオペラ改革の先鞭(せんべん)をつけたのはヨンメッリN. Jommelli(1714―1774)やトラエッタT. Traetta(1727―1779)だったが、続いてグルックが台本作家カルツァビージR. Calzabigi(1714―1795)と協力して『オルフェオとエウリディーチェ』(1762)などを発表、改革をいっそう推し進めた。
一方、18世紀中葉ごろから、各地で市民階級の生活感情をとらえた喜劇的オペラが盛んになってきた。イタリアのオペラ・ブッファは、ガルッピB. Galuppi(1706―1785)、パイジェッロG. Paisiello(1740―1816)、チマローザD. Cimarosa(1749―1801)らの活躍で、オペラ・セリアをしのぐ存在となっていった。フランスでは、イタリアのオペラ・ブッファ(王妃派)対フランス宮廷オペラ(国王派)という形で芸術論争(これを「ブフォン論争」という)が巻き起こり、それを契機に、J・J・ルソーをはじめ、フィリドールF. A. Philidor(1726―1795)、グレトリーらによってオペラ・コミックが展開された。またドイツでは、民族的なジングシュピールがヒラーJ. A. Hiller(1728―1804)やディッタースドルフらによって盛んとなっていった。
こうした18世紀オペラのさまざまな分野で独自の傑作を残したのがモーツァルトであった。オペラ・セリアもいくつか書いたが、もっとも本領を発揮したのは喜劇的オペラであり、オペラ・ブッファの形による『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、ジングシュピールの形による『魔笛(まてき)』(1791)などは傑作である。
[今谷和徳]
19世紀に入っても、イタリアでは18世紀以来の伝統的形式が受け継がれ、世紀前半には『セビーリャの理髪師』(1816)などのオペラ・ブッファで知られるロッシーニ、『愛の妙薬』(1832)や『ランメルムーアのルチア』(1835)などを書いたドニゼッティ、『ノルマ』(1831)などオペラ・セリアばかりを残したベッリーニらが活躍した。彼らは、これまでイタリアで展開されてきた、美しい声で華麗に歌ってゆくいわゆるベルカント唱法を頂点に導き、ベルカント・オペラ時代を築き上げた。
19世紀中葉以降は、伝統的なイタリア・オペラを劇的表現力に富む完成された芸術品へと高めたベルディが、ほぼこの時期のイタリア・オペラを1人で背負った感がある。なかでも『リゴレット』(1851)や『椿姫(つばきひめ)』(1853)などの中期の作品、『アイーダ』(1871)、『オテロ』(1884)、『ファルスタッフ』(1893)という後期の3作が傑作とされる。
世紀末には、文学のリアリズム運動に影響を受けたベリズモ・オペラが現れ、マスカーニやレオンカバッロらが活躍した。
[今谷和徳]
19世紀前半、ヨーロッパのオペラの中心市場となったのはパリである。ここでは、ケルビーニらイタリア人作曲家の活動の後を受けて、壮大なグラントペラ(グランドオペラ)が展開されたが、この中心的存在はドイツ生まれのマイヤベーアであった。一方では、18世紀以来のオペラ・コミックも盛んで、オーベールら多くの作曲家がこの分野で活躍した。
19世紀中葉以降、オペラ・コミックは喜劇的なものと叙情的なものに分かれていった。喜劇的なものはオペラ・ブフまたはオペレッタともよばれたが、その代表的作曲家には『天国と地獄』(1858)で知られるオッフェンバックがいる。叙情的なものはオペラ・リリックともよばれ、グノー、トマらによって手がけられたが、とくに重要なのはビゼーの傑作『カルメン』(1875)である。また『トロイの人々』(1856~1858作曲)などで独自の作風を示したベルリオーズのオペラも忘れることができない。
[今谷和徳]
ドイツでは、ウェーバーの『魔弾(まだん)の射手(しゃしゅ)』(1821)の登場によって、ドイツ・ロマン主義オペラが確立された。その後、ロルツィング、ニコライらが出たが、19世紀中葉以降、ワーグナーによって新しいドイツ・オペラが生み出された。ワーグナーは、『タンホイザー』(1845)や『ローエングリン』(1850)でロマン主義オペラの頂点を築いたが、その後、『トリスタンとイゾルデ』(1865)や『ニーベルングの指環(ゆびわ)』四部作(1876全曲初演)などで、総合的な芸術作品としての独自の音楽劇「楽劇」をつくりあげた。ワーグナーは、戯曲と音楽とが有機的に結び付いた劇の創造を目ざして、自ら台本を書き、また劇の統一性を確保するため、劇中の人物、物事、理念などに一定の音楽的動機をあてがうというライトモチーフ(示導動機)とよばれる手法を用いた。さらに劇の継続性を保つために、絶え間なく調性を変化させてゆく無限旋律の手法を取り入れ、神秘的で官能的な世界をつくりだした。ワーグナーの作品は、19世紀後半のヨーロッパ音楽界全体に大きな影響を与えただけでなく、文学界や哲学界にもさまざまな波紋を投げかけた。
一方では、19世紀後半に民衆的なオペレッタがウィーンで栄え、ヨハン・シュトラウス(子)らが活躍し、20世紀のレハールらへ引き継がれていった。
[今谷和徳]
19世紀には民族主義的オペラが登場したが、その先駆となったのはロシアで、グリンカ以来、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフらが民族色豊かな作品を発表していった。なかでもムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』(1874)は重要である。また、西欧の音楽を身につけたチャイコフスキーの作品も忘れることができない。
そのほか、チェコではスメタナが『売られた花嫁』(1866)などの民族主義オペラを書いたし、20世紀にかけてはスペインでもファリャなどによる活躍がみられる。
[今谷和徳]
ワーグナーの出現によって頂点にまで達したドイツのオペラは、20世紀に入ってさまざまな傾向をもつ作品を生み出してゆく。まず、ワーグナーの影響を受けたリヒャルト・シュトラウスは、初め強烈な官能に満ちたロマン的オペラを書くが、『ばらの騎士』(1911)以後、新古典主義的傾向をみせていった。十二音技法によるオペラを書いたシェーンベルクの弟子、ベルクは、表現主義的な『ウォツェック』(1925)と『ルル』(1937)によって20世紀オペラの一つの頂点を築いた。さらに、ヒンデミットやクルト・ワイルらの活動も注目に値する。
フランスでは、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(1902)の出現によって20世紀への扉が開かれたが、この独特な性格をもつオペラを直接受け継いだ作品は生まれなかった。しかし、ラベルをはじめミヨー、オネゲル、プーランクらが、それぞれ個性的な作品を次々と生み出していった。
イタリアでは、19世紀末にベリズモの影響を受けた作品を書いたプッチーニが、20世紀になって『トスカ』(1900)、日本に題材をとった『蝶々(ちょうちょう)夫人』(1904)などの叙情的なオペラを発表していったが、その後、ブゾーニ、マリピエロ、ダッラピッコラらがさまざまな手法による作品を書いていった。
そのほか、各種の試みを行ったストラビンスキー、ソ連のプロコフィエフ、ショスタコビチ、チェコスロバキアのヤナーチェク、ハンガリーのバルトーク、アメリカのガーシュインらの作品も見落とすことができない。
[今谷和徳]
第二次世界大戦後も、イギリスのブリテン、アメリカで活躍するイタリア出身のメノッティ、ドイツのヘンツェ、アイネムらの活動が目だつが、その後はドイツのツィンマーマンやライマンAribert Reimann(1936―2024)らの作品が目につく程度で、全体としては新しいオペラに対する創作意欲は衰えつつある。現代の各地のオペラ・ハウスがレパートリーの中心にしているのは、モーツァルト以後の評価の定まった作品であり、オペラ活動として注目されているのは、指揮者や歌手たちの演奏、あるいは新しい演出などに対する評価であろう。1990年代以降、バロック時代のオペラの復活上演が相次いでおり、オペラのレパートリーの広がりという点で注目される。
[今谷和徳]
日本で初めてオペラと称するものが上演されたのは、1894年(明治27)東京・上野の東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の奏楽堂で、オーストリア代理公使クーデンホーフHeinrich Coudenhove-Kalergi(1859―1906)らアマチュアによるグノーの『ファウスト』書斎の場である。日本人だけでオペラのほぼ全曲上演がなされたのは、約10年後の1903年(明治36)、上野の学生であった三浦環(たまき)らによるグルックの『オルフォイス』であった。翌1904年、坪内逍遙(しょうよう)は『新楽劇論』を発表、「将来の日本の音楽劇は西洋歌劇の直訳模倣であってはならぬ」と説いた。それを受けてか、翌1905年に7世松本幸四郎が歌舞伎(かぶき)座の弥生(やよい)狂言の一つとして、北村季晴(すえはる)(1872―1931)詞・曲のオペラ・カンタータ『露営(ろえい)の夢』を上演した。この『オルフォイス』と『露営の夢』は、その後の日本のオペラの二つの方向を暗示した。一つは音楽重点主義、一つは音楽に演劇的な要素を種々加えた行き方である。
[寺崎裕則]
『露営の夢』を機に、『羽衣(はごろも)』(小松耕輔(こうすけ)詞・曲)、『常闇(とこやみ)』(坪内逍遙詞、東儀鉄笛(とうぎてってき)曲)、『霊鐘(れいしょう)』(小林愛雄(ちかお)詞、小松耕輔曲)、『誓ひの星』(山田耕筰(こうさく)詞・曲)など、本来のオペラとはほど遠いにしろ、日本人の手による日本のオペラがつくられた。
1911年(明治44)日本最初のオペラ・ハウスともいうべき帝国劇場が東京に開場。オーケストラや歌手を雇い、東京音楽学校教師ユンケルらのもと、三浦環、清水金太郎(1889―1932)ら上野の卒業生が、ウェルクマイステルH. Werkmeister(1883―1936)の歌舞劇『胡蝶(こちょう)の舞』やマスカーニの『カバレリア・ルスティカーナ』の一部などを上演した。しかし、外国人の作曲による日本を題材にした日本語オペラ、また日本人の歌う原語上演は、オペラを見慣れない観客にとっては「わからない」の連発であった。
[寺崎裕則]
1913年(大正2)不人気の帝劇オペラはオペレッタ振付師ローシーを招いて起死回生を図るが失敗し、『連隊の娘』『天国と地獄』などのオペレッタ抄演で人気を取り戻したが、採算がとれずに1916年に解散。ローシーは赤坂にローヤル館を創設して続行したが、2年で解散、帰国。一方、新劇演出家の伊庭孝(いばたかし)は1916年に歌舞劇協会を結成、「日本人によるモダンなミュージカルを」と、浅草・常盤(ときわ)座で自作の『女軍出征』を上演して大ヒット、いわゆる浅草オペラの開幕となった。流行歌『君恋し』の作曲者として知られる佐々紅華(さっさこうか)(1887―1961)も、オペラの大衆化と日本人による音楽劇の創造を目ざして東京歌劇座を結成、浅草・日本館で自作の『カフェーの夜』を上演、そのなかの「コロッケーの唄(うた)」は一世を風靡(ふうび)した。浅草オペラは、こうした和製ミュージカルをはじめ、『カルメン』などのオペラ、『ブン大将』『ボッカチオ』などのオペレッタ、『釈迦(しゃか)』『入鹿(いるか)物語』(ともに伊庭孝詞、竹内平吉曲)などの和製オペラ、子どものためのお伽(とぎ)歌劇まで、ひっくるめて歌劇と称して上演した。
関西では1913年に現在の宝塚歌劇団が誕生、レビューとともに岸田辰弥(たつや)(1892―1944)、白井鉄造(しらいてつぞう)らがオペレッタ普及に一役を買った。帝劇はその後ロシア歌劇団やカーピ・イタリア歌劇団を招いて本物のオペラの片鱗(へんりん)を日本に紹介した。しかし、1923年の関東大震災はこれらの活動を一挙に壊滅させてしまった。
[寺崎裕則]
1927年(昭和2)日本放送協会は、山田耕筰らの解説で、オペラの名作を長時間全国にラジオ放送している。山田はドイツ留学中「音楽の普及はオペラから」との確信を得て帰国、日本楽劇協会をつくり、1929年には歌舞伎座で日本最初の本格オペラ『堕(お)ちたる天女』(坪内逍遙作)を自らの指揮で上演した。さらに1940年初演の『黒船』(ノエル作、山田耕筰訳・曲)や、第二次世界大戦後の『夕鶴』(木下順二作、團伊玖磨(だんいくま)曲)、『修善寺(しゅぜんじ)物語』(岡本綺堂(きどう)作、清水脩(おさむ)曲)などの上演にも影響を与えるなど、日本のオペラの嚆矢(こうし)となった。一方、欧米で世界のテナーとなって帰国した藤原義江(よしえ)は、1934年に藤原歌劇団をつくり、同年6月日比谷(ひびや)公会堂での第1回公演、プッチーニの『ラ・ボエーム』以後、音楽重点主義を貫くと同時に、名作オペラの本格的上演で大衆との接触に努めた。
[寺崎裕則]
戦災を免れた帝劇や有楽(ゆうらく)座、東劇(とうげき)ではいち早くオペラが上演された。1946年(昭和21)には東宝の協力を得て帝劇で藤原歌劇団が『椿姫(つばきひめ)』を、前年発足した長門美保(ながとみほ)歌劇団は松竹の力を借りて東劇で『蝶々(ちょうちょう)夫人』を上演している。1952年には二期会が創立される。これは、柴田睦陸(しばたむつむ)(1913―1988)、中山悌一(ていいち)(1920―2009)ら東音(東京芸術大学)歌劇研究部のメンバーを中心に、「聴くに堪えるオペラ」を目ざし、ドイツ・オペラを中心にオペラのアカデミズム確立をうたった団体で、以後半世紀近くを経た1999年(平成11)には歌手会員1600余名を擁するオペラ団体に発展した。一方、藤原歌劇団は1952年『蝶々夫人』をニューヨークで上演し、日本のオペラ団体で初の海外公演を成し遂げた。1981年に創作オペラ中心の日本オペラ協会と合体し、財団法人日本オペラ振興会が発足、1985年から総監督にテノール歌手の五十嵐喜芳(いがらしきよし)(1928―2011)を迎え(1999年6月まで。同年7月に新国立劇場オペラ芸術監督に就任)、イタリア・オペラを中心に海外から優れた歌手を招き、高水準のオペラを上演、二期会とともに第二次世界大戦後のオペラ界の二大潮流となった。
[寺崎裕則]
その後、二期会は2005年(平成17)に解散し、財団法人東京二期会(1977年設立の財団法人二期会オペラ振興会が改称)内の声楽会員組織「二期会」となった。なお、東京二期会は2010年に、日本オペラ振興会は2012年に財団法人から公益財団法人に移行している。
[編集部]
前項で解説した二期会(東京二期会)と日本オペラ振興会以外の国内オペラ団体を展望する。東京室内歌劇場は、二期会の有志が実験的な内外の室内オペラを上演するという団体で着実に実績を積んでいる。演出家の松尾洋(ひろし)(1942―2008)が主宰した東京オペラ・プロデュースは、主要な歌劇場ではめったに上演しない作品を取り上げ異彩を放つ。モーツァルト学者の高橋英郎(ひでお)(1931―2014)が主宰したモーツァルト劇場は、彼の訳詞、台本でモーツァルトのオペラを上演している。オペラシアターこんにゃく座は、1971年(昭和46)東京芸術大学内のサークル「こんにゃく体操クラブ」を母体に創立、作曲家林光(はやしひかる)(1931―2012)の創作オペラを中心に「話すように歌うオペラ」を目ざしユニークな活動を続けている。オペレッタを専門とするのが、特定非営利活動法人(NPO法人)日本オペレッタ協会で、1977年、演出家寺崎裕則(ひろのり)(1933―2023)が創立。フェルゼンシュタインの音楽と演劇の統一を図るムジークテアター(音楽劇)論の創造方法を採用し、オペレッタの普及にあたっている。
[寺崎裕則]
オペラ上演は東京文化会館か日生劇場しかなかった日本のオペラ界に、1970年代後半以降、全国に文化会館やコンサート・ホール、そしてヨーロッパ同様のオペラ・ハウスが誕生しはじめた。ここを拠点に急速に文化振興財団や地域オペラが発展した。皮切りは1963年(昭和38)、日生劇場誕生による財団法人ニッセイ文化振興財団の設立で、演出家鈴木敬介(けいすけ)(1934―2011)を中心に毎年内外のオペラを上演、実績を積み重ねている。愛知県芸術劇場は1992年(平成4)10月に名古屋にできた日本最初のオペラ・ハウスで、独自に日生劇場や名古屋二期会と組み、年に数回の公演を行ってきた。さらに名古屋オペラ協会、財団法人名古屋文化振興事業団の活動などがある。小沢征爾(せいじ)もヘネシー・オペラ・シリーズとして世界的歌手を招いてホール・オペラ(オペラ・ハウスではなくコンサート・ホールで行うオペラ)を開いたり、またサイトウ・キネン・オーケストラとともにユニークなオペラ活動を行っている。
このほかに、九州では歴史が一番古い鹿児島オペラ協会、『吉四六(きっちょむ)昇天』(清水脩作)で名をあげた大分県民オペラ協会がある。関西では関西二期会、関西歌劇団、神戸オペラ協会、広島市のひろしまオペラ推進委員会などが独自の活動を展開している。神奈川県では指揮者の福永陽一郎(1926―1990)を中心に、湘南(しょうなん)在住のプロ、アマが一体となり長い道程を経て市民オペラとなった藤沢市民オペラや、横浜市での各オペラ団体の活動があげられる。さらに茨城県日立市の財団法人日立科学文化情報財団主催の地域オペラの発展と連携を提唱する「全国オペラ・フォーラム」活動なども知られており、1998年には30余りの団体が参加していた。地域オペラは好きなもの同士が集まって好きなオペラを上演する段階から、地域に密着したそれぞれの地方文化活動の一環としてのオペラに向かった。
[寺崎裕則]
このような日本のオペラのめざましい発展の要因のひとつに、1958年(昭和33)、NHKが招聘(しょうへい)したイタリア歌劇団の来日以来、かつての東西ベルリン歌劇場、ベルリンのコーミッシェ・オーパー、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ウィーンのフォルクス・オーパー、ミラノのスカラ座、ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場、ロシアのボリショイ劇場などの来日引越し興行が、1980年代のバブル期を頂点に毎年のように行われたことがあげられよう。オペラのビデオやレーザーディスクの普及、海外へのオペラ・ツアーなど、気軽に見にいける時代になったことも一因である。そうした機運のなかで、1997年(平成9)10月に竣功(しゅんこう)した東京の新国立劇場には、その一部として本格的なオペラ・ハウスが設けられ、本格的なオペラ普及の拠点が誕生した。しかしながら日本のオペラにはまだ問題が山積している。
オペラやオペレッタは、ヨーロッパ文明が生んだ最高最大のぜいたくな総合芸術である。それゆえ上演するには膨大なお金がかかる。そのため、ヨーロッパではかつては領主や大金持、国王の庇護(ひご)によって、20世紀後半は国家の援助によって、すなわち国民の税金によってオペラ公演が可能となった。こうした伝統の上にたつヨーロッパと日本での文化状況には大きな隔たりがある。日本では経済的な負担は、オペラを上演したい人が直接担ってきたのであり、オペラ歌手という職業は日本では存在しえない、といっていい。歌手はオペラでは生活ができないので、音楽学校の教師などを副業にせざるをえない。オペラを上演する劇場、ハードの面については充実してきたものの、オペラを創造するソフト面、すなわち指揮、演出、歌手、合唱団、オーケストラなどがおのおのプロとして専念できるためには、経済面での公的助成が火急の課題である。
オペラは歌劇、オペレッタは喜歌劇と訳されているが、これはその本質を知った名訳で、オペラやオペレッタは、音楽と演劇が一体となったものだが、日本の音楽教育では歌唱のみ、音楽のみに重点を置き、音楽と一体になった演劇教育がおろそかにされている。そのため、歌唱力という点では急速な進歩をとげたが、演技の面ではオペラやオペレッタ本来の楽しさが伝わってこない。オペラやオペレッタ志望の歌い手は、肉体の柔軟な若いときから歌、芝居、踊りの三拍子そろった歌役者として育成することが急務であり、その歌役者が常時、舞台に専念できる文化状況になったなら、日本のオペラが世界のオペラと肩を並べる日もそう遠くはないであろう。
[寺崎裕則]
『D・J・グラウト著、服部幸三訳『オペラ史』上下(1957、1958・音楽之友社)』▽『ロラン・マニュエル著、吉田秀和訳『オペラのたのしみ』(1979・白水社)』▽『海老沢敏・服部幸三他監修『最新名曲解説全集18・19・20・補3 歌劇』(1980~1981・音楽之友社)』▽『永竹由幸著『オペラ名曲百科』上下(1980、1984・音楽之友社)』▽『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』▽『寺崎裕則著『音楽劇の演出――オペラをめぐって』(1995・東京書籍)』▽『増井敬二著『オペラを知っていますか』(1995・音楽之友社)』
ウェブブラウザーの一つ。Windows(ウィンドウズ)やMac OS(マックオーエス)、Linux(リナックス)などのパソコン環境をはじめとして、スマートフォン、携帯電話、ゲーム機など、さまざまなプラットフォームやOS上で動作する。対応言語はバージョン12の時点で60。ノルウェーの大手通信会社のテレノール(Telenor)社が1994年に開発をスタートさせたもので、翌1995年にはオペラ・ソフトウェア(Opera Software ASA)社がプロジェクトを引き継ぎ、1996年に最初の版が発表された。当初は有料版もあったが、2005年9月からはすべて無料化された。
一つのウィンドウに複数のページを表示して、タブキーを使って切り替えて利用するタブブラウザーの機能をいち早く取り入れたことで知られる。また、マウスの動作のみで「進む」「戻る」などのブラウザー操作を可能にするマウスジェスチャーや、キーボード操作でウェブ閲覧をより速く行うキーボードショートカット、アドオンとよばれる拡張機能などが利用できる。さらに、ポップアップ画面のブロックの設定や、視覚的なブックマークであるSpeed Dial(スピードダイヤル)、外観の変更など、ユーザーにあわせたカスタマイズも簡単にできるようになっている。
[編集部]
オペラは〈作品〉や〈動作〉を意味するイタリア語のopera(ラテン語opusの複数形)を語源とし,本来はopera in musica(音楽による作品)あるいはopera scenica(舞台付きの作品)と呼ぶべきものを,略してオペラと呼ぶようになった。古くはfavola in musica(音楽による物語),dramma per musica(音楽によるドラマ)等の呼称もあった。日本では〈歌劇〉と訳されている。芸術音楽のジャンルとしてのオペラは16世紀末にイタリアに生まれ,その後今日までヨーロッパの音楽の発展の中で重要な地位を占めている。
オペラの特色はステージを伴って歌と管弦楽によって演じられる音楽的なドラマという点にある。歌の中には,独唱によるアリアやレチタティーボのほか,種々の形態の重唱や合唱が含まれる。管弦楽は歌を支えるほか,序曲(前奏曲)や間奏曲を受け持ち,ときには独自のシンフォニックな流れでドラマの展開を後づける。このような音楽的要素に加えて,演技,舞踊,ステージ・デザイン,衣装,照明などの視覚的要素が,ひとつの総合的効果を目ざして,オペラという舞台芸術を作り上げてゆく。
ところで,同じ舞台芸術の中でも,純粋な戯曲と比べた場合,オペラは〈歌われるドラマ〉であるところに最大の特色があり,そのせりふはリブレットlibrettoと呼ばれて,普通の戯曲とは異なる性質を帯びている。なぜなら,オペラの歌は音楽の翼を帯びることによって,抒情的な表現力と技術的な華やかさにおいて比類のない高みに達するが,そうした効果を達成し維持するためには,音楽そのものの性質から,ある一定の時間的な持続を必要とし,その結果ドラマの発展は戯曲と比べて一般にスロー・テンポになり,複雑さを避けたものにならざるを得ないからである。また,あまりに抽象的・哲学的な概念や急激なイメージの転換は,オペラが苦手とするところである。たとえば,ハムレットの有名なせりふ〈to be or not to be,that is the question〉を効果的に〈歌〉に作曲せよ,と言われても,ほとんどのオペラ作曲家はしりごみするであろう。他方,《アイーダ》の〈勝ちて帰れ〉に見られるように,あふれんばかりの情緒とその背後にある想念を表現することにかけては,オペラは戯曲には見られない効果的な表現手段をもっている。このような理由から,すぐれた戯曲がただちにオペラに適するとは限らず,すぐれたリブレットが,文学的価値が高いとも限らない。とはいえ,メーテルリンクの戯曲によるドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》,ワイルドの戯曲によるR.シュトラウスの《サロメ》,G.ビュヒナーの原作によるベルクの《ウォツェック》のように,ごくまれに幸福な結びつきが見られるのも事実である。
明治年間にドイツに留学した森鷗外は,故郷への便りの中で,オペラという言葉にかえて〈西洋歌舞伎を見た〉と記したという。これは,たいへん巧みな比喩と言えよう。両者はいずれも音楽を伴う総合的な舞台芸術であり,主演俳優や歌手の華やかな人気,観客席やロビーの社交的雰囲気,スタンダードな演目を中心とするレパートリーの組み方などに共通するところが多い。しかし,相違点も少なくない。いくつかの要素を挙げれば,まず第1に音楽の占める比重の違いがある。歌舞伎では,作品の成立と構成の上で,狂言作者の作品に対し,演奏家であり作曲者である立場の人がそれに付随して音楽(伴奏)を作り出すのに対して,オペラではせりふ作者よりも作曲者の方がはるかに優位に立っている。また演出家の協力が不可欠であるとしても,全体を統轄する最高の責任者は指揮者である。
第2に,社会的な背景から眺めた場合,歌舞伎はそもそも町人の芸術として興ったが,オペラは発生の時点からして貴族的な芸術であった。その流れを汲むイタリアのオペラ・セーリアopera seria(正歌劇)やフランスのトラジェディ・リリックtragédie lyrique(抒情悲劇)は,古典的な格調の高さにおいて高度の様式美を維持しながら,社会の上層部,支配階級と結びついて発展した。18世紀以降は,これに対して,イタリアではオペラ・ブッファopera buffa(道化オペラの意),フランスではオペラ・コミックopéra comique(喜歌劇,のちにはせりふを含むオペラを意味する),イギリスではバラッド・オペラballad opera(俗謡オペラ),ドイツではジングシュピールSingspiel(歌芝居)など,より庶民的な性格の強いオペラのタイプが興ったが,それらに共通するのは,正歌劇や抒情悲劇の貴族性と形式ばった様式に対する反動とパロディの精神であった。つづく19世紀には,作品の規模,壮大な舞台効果,シリアスな情緒において,かつてない高みに登ろうとした〈グランド・オペラgrand opéra〉に対して,再び庶民的な気軽さと息抜きを求めるオペレッタが興った。このような経緯は,当初から町人の芸術として発達してきた歌舞伎には見られないところである。
第3に,演技と舞台の視覚形式の違いがある。歌舞伎の舞台は,あたかも一幅の絵巻物を見るかのように横長であり,さらに花道をもつことによって,視覚形式の横の流動性が強調され,観客席と演技者のあいだに交流が生まれる。それに対して,オペラの舞台は,舞台前縁に構えられたプロセニアム・アーチが額縁の役割を果たす画面にたとえることができよう。そこで重視されるのは,横の広がりだけでなく縦の広がりと奥行きであり,立体性である。プロセニアム・アーチの縦横比は,一般にほとんど正方形に近い。
歌舞伎とオペラの比較は,以上でひとまずおくとして,すでに述べた事がらからも推察されるように,オペラは,それを上演するためには本格的なオペラハウスopera houseを必要とする。一般の演奏会場(コンサートホール)とオペラハウスが根本的に異なるのは,舞台の機能に属する部分が建物の全体に対して占める比率の巨大さである。観客席から現実に見える舞台は,そのごく一部にすぎず,舞台転換の機能を十分に発揮するためには,両脇(脇舞台)と後方(後舞台)にそれに匹敵する空間が要求されるだけでなく,下方には奈落が,上方には各種の吊物を完全に吊り上げるためのフライ(塔屋)が必要とされる。理想的には舞台前縁から後舞台後縁までの距離は約50m,フライの高さも舞台水準から上方約40mに及ぶ。それに対して,観客席の方は,どの席からでも舞台前縁までの視距離が二十数mを超えないことが望ましい。その結果,舞台をとりまく馬蹄形の何層かに重なったギャラリー形式が採られることになる。このようなオペラハウス特有の建築様式は,17世紀のベネチアから徐々に興り,19世紀のグランド・オペラの流行を契機として,本格的なオペラハウスが各地に建設されるようになった。ワーグナーの手で建設されたバイロイト祝祭劇場は,作曲家であり演出家でもあったワーグナーが,自分の理想を実現するために構想したもので,舞台とその後方に接続する大道具格納庫の巨大さが目を奪う。ミラノのスカラ座,ウィーン国立歌劇場,パリのオペラ座,ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など,世界的に著名なオペラハウスは,いずれも目をみはるほど整備された舞台機構をもっている。一方,一幕物形式あるいは小規模なオペラを上演するためには,かえって小づくりな室内風のオペラハウスが適合する場合があり,ミラノのスカラ座に併設されたピッコラ・スカラ(小スカラ)は,その典型的な例である。
ところで,音楽芸術の諸分野の中で,オペラほど濃厚に国民性を反映するものはないと言っても過言ではない。もちろん器楽や歌曲の作品でも,作曲者のアイデンティティの一部としての国民性はおのずからにじみ出るものであるが,オペラの場合には,いくつもの要素が手を取り合って,さらにそれを濃厚にする。第1にストーリーがある。その国民にとって関心の深い神話,伝説,歴史物語等が題材に選ばれることが多く,それはしばしば成功作に導くひとつの要因とさえ考えられる(ウェーバーの《魔弾の射手》,清水脩の《修禅寺物語》等)。言うまでもなく,母国語で歌われる歌詞が国民性・民族性を鮮明にし,音楽にも民族的イディオムが打ち出され,意識的に民謡や民族的舞曲が取り入れられることが少なくない。さらに衣装,所作,背景などの視覚的要素が強い民族的な印象を与える。たとえば,19世紀国民楽派の音楽では,ロシアを代表するのがムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》であり,ボヘミアを代表するのはスメタナの《売られた花嫁》である。
さらに,これらのヨーロッパ周辺の民族性の強い国々だけでなく,音楽の発展の主流を担ったヨーロッパ中枢部の国々においてさえ,国民性・民族性の差異は顕著であった。グルックの《オルフェオ》にはウィーン版(イタリア語)とパリ版(フランス語)があり,ワーグナーの《タンホイザー》にもドイツ語版とフランス語版があるが,両者ともフランスで上演するに当たっては,フランスの人たちのバレエ好みを考慮して,大幅な手直しを行っている。ついでながら,自然発生的にオペラが生まれたイタリア以外の諸国では,いずれの国でも,オペラは外から移入された芸術であった。そこでとくに大きな課題となったのは,生き生きとした〈語り〉の調子を保ちながら,しかも〈歌う〉というレチタティーボのスタイルを,いかにして新たに創造するかであった。この課題にこたえることは予想外にむずかしかった。すでに述べた庶民的な性格の強いオペラ・ブッファ,オペラ・コミック,バラッド・オペラ,ジングシュピール等のうち,イタリア以外の諸国ではレチタティーボの代りに〈なまのせりふ〉の対話がそのまま用いられた事実が,その事情を物語っている。他方,イタリア以外の諸国では,イタリア風の母音唱法にもとづく華麗なコロラトゥーラの技法は,一般に空疎なものと受けとられる傾向が強かった。
ところでオペラという芸術は,視覚と聴覚を総合した感覚的なアピールできわめて強く聞き手に迫るところから,しばしば国家の体制によって利用されたり,逆に検閲されたりという歴史をたどってきた。現存する最古のオペラであるJ.ペーリの《エウリディーチェ》をはじめ,かつては王朝同士の華やかな結婚の祝典にオペラはつきものであった。19世紀に入ると,民族主義的な独立運動や社会主義的革命の機運に火を投じるという理由でオペラの上演は折にふれて危険視され,みずから祖国の独立運動に参加したベルディのオペラは,しばしば検閲の対象となった。20世紀ではワーグナーのオペラがヒトラーの率いるナチスによって反ユダヤ主義に利用されたり,ショスタコービチの名作《ムツェンスクのマクベス夫人》が,ソ連の社会主義リアリズム路線の批判の対象となるなど,多くの事例を挙げることができる。
さて,概観の中で述べておくべきことのひとつに,オペラにおけるオーケストラの役割がある。オペラハウスの建物に約100人の楽団員を入れるオーケストラ・ボックスが不可欠であるように,オーケストラなしにはオペラは成り立たないと言ってよい。出し物が変われば,歌い手の方は交替するのが通例であるが,オーケストラが交替することは考えることはできない。むしろ,さまざまなレパートリーにつねに対応できる有能なオーケストラを維持することが,常設のオペラハウスにとって必要不可欠な条件である。一例として,ウィーン国立歌劇場のオーケストラは,劇場外で演奏活動を行う際は〈ウィーン・フィルハーモニー〉の呼称で知られ,それ自体世界第一級のコンサート・オーケストラとして名声を保っている。
劇場は,ドラマティックな効果のためのオーケストレーションの創意と実験の場であり,その効果はしばしば後に続く時代のシンフォニックなオーケストラの書法に吸収されていった。モーツァルトが《後宮からの誘拐》で用いたトルコ風の打楽器の用法(トライアングル,シンバル,大太鼓)は,ベートーベンによって2管編成のオーケストラに付加して用いられ,《第九交響曲》の終楽章ではすでに〈トルコ風の軍楽〉という意味をはなれて高潮した音楽的表現の山を築いている。その後ブラームスの交響曲にいたるまで,同様の打楽器の組合せは,ロマン派オーケストラの常備の編成となった。またワーグナーは,ワーグナー・チューバと呼ばれる楽器を創案するなど,オーケストラの色彩の拡大につとめ,かつてない4管編成という規模にまでオーケストラを膨張させたが,その色彩的表現の豊富な可能性は,R.シュトラウスの《英雄の生涯》をはじめとする交響詩やマーラーの《千人のシンフォニー》などにこだましている。
しかし,オペラとオーケストラの結びつきがいかに深いとしても,オペラという芸術の〈花〉が,しょせん名歌手の名演にあることは,いうまでもない。すぐれた劇的表現のために,17~18世紀にはカストラートと呼ばれる人工的な声(男性アルト)が用いられ,一世を風靡したファリネリG.Farinelli(1769-1836)のような名歌手が生まれたが,カストラートを主役に配した有名なオペラは,モーツァルトの《イドメネオ》(1781)が最後である。初期のオペラにおける主要な役は,このカストラートのほか,ソプラノとテノールに限られていたが,18世紀に発展したオペラ・ブッファは道化役のバスを重視し,アリアの形式も重唱の組合せも,いっそう豊富になった。さらに19世紀に入ると,メゾ・ソプラノ,アルト,バリトン等にも,それぞれにふさわしい役がらが設けられ,同じ声域の内部でもドラマティコ(劇的表現に適した声),リリコ(抒情的表現に適した声),スピント(力強く張りのある声)など,さまざまの声の種類が区別されるようになった。ドニゼッティ,ベリーニ,ベルディからプッチーニにいたるイタリア・オペラの黄金時代は,これらのさまざまの声の種類による名場面の展覧会の観を呈する。ところで,古くからオペラの作曲家は,ある特定の歌手の演奏能力を念頭においてオペラを作曲することが珍しくなかったが,そのことは,あるタイプのすぐれた歌手が存在しない場合,過去の名作が再演不能に陥る可能性をはらんでいる,と言えよう。現に,最近ではM.カラスという卓越したソプラノ・ドラマティコを得て,ベリーニの《ノルマ》をはじめとする諸作品が本来の姿で舞台によみがえった事実が想起される。R.シュトラウスの《エレクトラ》は,初演時に,エレクトラに予定された女性歌手が,その役がらの困難さのために出演を放棄するというスキャンダルを生んだ。他方,イギリスの20世紀のオペラを代表するブリテンは,名テノールのP.ピアーズを主役とし,彼の助言のもとに傑作を残した。ピアーズなしにはブリテンのオペラは成立しなかったであろうと言われるのも,そのためである。なお,ワーグナーの作品は,とりわけ声量の豊かな歌い手でなければ歌いきることができないために,特別に豊かな声量をもち,ワーグナーの作品のキャラクターに適した歌い手を,とくに〈ワーグナー歌手〉と呼ぶならわしがある。
オペラの前身は,ルネサンスのイタリアの宮廷で行われた音楽付きの祝祭的な催しのインテルメディオ(インテルメッツォ)にさかのぼると言われるが,実際にオペラの形態をとった最初の作品は,ペーリ作曲の《ダフネ》(1598)であった。しかし,この作品は断片的にしか伝わらず,今日楽譜を伴う完全な形で残っている最古の作品は,1600年にフランス国王アンリ4世とメディチ家のマリア姫の結婚を祝して,フィレンツェで上演されたペーリの《エウリディーチェ》である。その後マントバの宮廷で上演されたモンテベルディの傑作《オルフェオ》などを含め,初期のオペラは宮廷と貴族の娯楽であった。しかし,1637年商人の都市ベネチアに初めて公開のオペラハウスが開かれて以来,宮廷的な催しとして贅(ぜい)をこらしたオペラと,企業として営まれる市民のオペラの二つの線が分立した。宮廷的なオペラは,太陽王ルイ14世の治世にリュリが創始した古典的な題材による荘重典雅なトラジェディ・リリックを生み,プロローグ付きの5幕仕立てを基本とした。他方,市民のオペラは,世話物的・歴史的な題材とリアリスティックな表現を好み,きまじめなストーリーの中にもコミックな挿話を含むのが常であった。
この傾向は,18世紀に入りオペラ・セーリアとオペラ・ブッファに分離し,最初はこっけいな道化茶番からスタートしたオペラ・ブッファも,世紀の後半には,しだいに抒情的要素を取り入れ,悲喜こもごものメロドラマ的興味で,人々を楽しませるものになった。カンプラやラモーのような作曲家を擁して独自のオペラのスタイルを保ったフランスを除けば,18世紀の全ヨーロッパを事実上支配したのは,イタリア風のオペラであった。18世紀のオペラは,しばしばA.スカルラッティに始まりモーツァルトに終わると言われるが,モーツァルトの名作のうち,《フィガロの結婚》や《ドン・ジョバンニ》はオペラ・ブッファの流れをくむ作品であり,《イドメネオ》はオペラ・セーリアの流れを汲む作品である。その間に挟まれるヘンデルやオペラの改革者として知られるグルックもイタリア語をテキストとしてオペラを作曲した。いわば,イタリア語とイタリア風の流麗な旋律法は,この時代のオペラの公用語であったと言ってよい。
しかし,18世紀の後半からは,すでに触れたようにドイツのジングシュピールやフランスのオペラ・コミックのように,自国語をテキストとし,しだいに上昇してくる市民階級を基盤とした,新しいタイプの国民的なオペラが勃興してくる。ウィーンの場末の劇場で上演されたモーツァルト晩年の名作《魔笛》は,その一例である。この種のオペラは,素朴なセンチメント,見世物的興味,悪の世界と善の世界の対立といったモティーフを共通の要素として,一方ではケルビーニの《二日間》からベートーベンの《フィデリオ》へつながるサスペンスに満ちた〈救出オペラ〉へと発展し,他方ではウェーバーの《魔弾の射手》に典型的な例を見る国民的なタイプのロマン派オペラへとつながっていった。
19世紀のオペラが,大がかりな舞台効果を特色とした〈グランド・オペラ〉の方向へと発展していったことは,前述した通りである。この傾向はロッシーニの《ウィリアム・テル》やマイヤーベーアの《ユグノー教徒》などを経て,アルプスの北ではワーグナー,南ではベルディという二人の巨匠の芸術に結実した。二人はともに1813年の生れであり,互いに意識せずにはいられなかったが,ワーグナーが北方の霧に包まれた神話と伝説の世界をテーマとしたのに対して,ベルディが選んだのは,真実の愛が謀反や陰謀,運命の軋轢(あつれき)にさらされる人間性のドラマであった。ライト・モティーフや無限旋律のシンフォニックなうねりの上に声が漂うワーグナーの作風に対して,ベルディの場合はオーケストラの用法がどれほど色彩的暗示的であろうと,その本質は歌手と声のオペラである。前者では自作のリブレットによる巨大な四部作《ニーベルングの指環》や舞台清祓祝典劇という副題を添えられた《パルジファル》が,後者ではスエズ運河の開通を記念した《アイーダ》とシェークスピアの戯曲にもとづく《オテロ》および《ファルスタッフ》が,生涯の芸術活動を集約する作品となっている。
ベルディとワーグナー以後は,彼らに匹敵するほど偉大なロマン派オペラの作曲家はもはや現れなかった。ドイツではワーグナー風の技法をメルヘンの世界と結びつけたフンパーディンクの《ヘンゼルとグレーテル》があり,イタリアでは,下層市民の生活に題材をとり,なまなましい現実感を盛り上げたマスカーニの《カバレリア・ルスティカーナ》とレオンカバロの《パリアッチ》が現れた。しかし,マスカーニやレオンカバロによるベリズモ(写実主義)オペラの成功は一時的なものにすぎず,18世紀以来イタリアで培われてきたベル・カント唱法の伝統を受け継いで抒情的旋律美の最後の峰を築いたのは,《ラ・ボエーム》や《蝶々夫人》で知られるプッチーニであった。
一方,イタリアとドイツの両国に挟まれたフランスでは,19世紀の前半にはベルリオーズの活躍があるが,世紀の後半に,異国趣味をまじえた生き生きとした音楽の語法とイメージの鮮烈さで,独自の境地を開いたのが,ビゼーの《カルメン》である。マスネーの抒情的なオペラやパリの市民生活の哀歓を描いたシャルパンティエの《ルイーズ》などは,愛すべき作品ではあっても,本源的な力に欠けるものがある。
19世紀後半のロマン派オペラの大きな特色は,長調・短調の調性にもとづく息の長い抒情的旋律と,それを支える機能和声および管弦楽の充溢した色彩的用法にあった。全般的に見れば,20世紀のオペラは,このようなロマン派オペラへのアンチテーゼとしての性格をもっている。オペラ史に近代の扉を開いた印象主義の作曲家ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》には,ささやくような朗誦風の旋律と柔軟なリズムが支配的であり,オーケストラは微妙で精緻な音色の陰影をくりひろげる。ドイツ・オーストリア圏では,R.シュトラウスが,ワーグナーの流れを汲む大編成のオーケストラを駆使して,《サロメ》では強烈な官能の世界を,《エレクトラ》では異常なまでに屈折した心理的表現の世界を開いた。しかし,《ばらの騎士》では,上記の作品に見られる表現主義的傾向に再び手綱が締められ,優美な感覚的洗練と擬古的な傾向が現れてくる。
これを境として迎える二つの大戦間の時期は,ジャズの語法の導入(ストラビンスキーの《兵士の物語》,クルシェネクの《ジョニーは演奏する》),原始主義(オルフの《カルミナ・ブラーナ》),民族主義(バルトークの《青ひげ公の城》),新古典主義(ストラビンスキーの《エディプス王》)など,当時の作曲界のさまざまな潮流を反映したオペラが作られる一方,調性と和声機能の否定を意識的に徹底させた十二音の技法(十二音音楽)によるオペラが台頭した時期である。この技法の開拓者であるシェーンベルク自身には《モーゼスとアーロン》があり,その弟子ベルクは名作《ウォツェック》を残した。この作品では,予測し難い生の衝動に駆られた人間悲劇がきわめてリアルに描かれ,旋律的歌唱と語りの中間をゆくシュプレヒシュティンメの発声法も効果的に用いられている。より歌唱的ではあるが,イタリアのマリピエロによる《夜間飛行》も,同時期の十二音の技法による作品である。なお,両大戦間の時期に,アメリカでは黒人霊歌とジャズの語法を取り入れたガーシュウィンの《ポーギーとベス》が成功を博し,イギリスでは折衷主義的な作風ながら劇的効果にすぐれたブリテンの《ピーター・グライムズ》が現れた。
第2次大戦以後のオペラは,新しい作風の展開という点からいえば必ずしも豊かではない。カフカの実存主義文学と結んだアイネムの《審判》やヘンツェの《田舎医者》をはじめ話題をよんだ作品は多いにもかかわらず,閉じられた舞台空間で観客に呈示される〈歌われるドラマ〉としての伝統的なオペラの形式が,現代の前衛的な作曲家たちからは,しだいに見捨てられる傾向が強いからである。しかしなお,諸都市のオペラ劇場は,蓄積された過去の膨大なレパートリーと一部の現代作品を取捨選択して取り上げながら,演出面に新しい工夫を加えて,市民生活の中に重要な地位を占めている。
日本におけるオペラの上演は,1903年,東京音楽学校の奏楽堂で行われたグルックの《オルフォイス(オルフェオとエウリディーチェ)》にさかのぼる。その後,明治・大正期を通じて,帝国劇場の催しや浅草オペラなど種々の興行が行われたが,昭和に入って山田耕筰の日本楽劇協会と藤原歌劇団の活動が本格化した。第2次大戦後は,長門美保歌劇団,関西歌劇団,二期会が興り,とくに藤原歌劇団と二期会は,オペラを日本に定着させるために,努力を継続して今日にいたっている。その間に,日本人作曲家による新作もあいつぎ,団伊玖磨の《夕鶴》,清水脩の《修禅寺物語》など,諸外国に紹介される作品も現れてきた。しかし,今なお欧米の諸国のように整備されたオペラハウスがなく,観客の動員力においても,1回の出しものが1夜ないし2夜に終わるという状況は,今後の日本におけるオペラのあり方に大きな問題を投げかけるもの,と言わなければならない。
執筆者:服部 幸三
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[ルネサンス以前]
イタリア演劇の発生的形態は,12世紀から13世紀にかけて中部イタリアを中心に歌われたり,演じられたラウダlauda(神をたたえる歌)であるとされているが,それはかならずしも演劇ばかりではなく,オラトリオやオペラの起源でもある。このラウダの作者や演じ手は,主として〈兄弟団〉といわれる宗教組織に属する聖職者たちであった。…
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[バロック]
1580年代のフィレンツェで,一群の貴族と文学者と音楽家がカメラータ(同志の意)と自称したアカデミアに結集し,古代ギリシアの音楽のあり方を探りつつ,ギリシア悲劇を復興しようとする運動を起こした。その結果,オペラが生まれ,バロック様式のひとつの基礎となった通奏低音伴奏の独唱歌が生み出された。カメラータのリヌッチーニOttavio Rinuccini(1562‐1621)の台本,ペーリの作曲による《エウリディーチェ》(1600)は,今日まで伝えられた最古のオペラである。…
…1642年,革命によって劇場が閉鎖され,せりふ劇の上演が不可能になって以後は,音楽劇と称して自作《ロードス島の包囲》(1656初演)などを上演した。この作品はイギリス最初のオペラとみなされることがある。60年,王政復古に際して劇場経営の勅許を得,リンカンズ・インズ・フィールズに公爵劇場を開場,T.ベタートンを中心とする劇団の本拠とした。…
…同時代の美術の場合と同じく,バロック音楽を社会的に支えたのは,ベルサイユの宮廷に典型を見る絶対主義の王制と,しだいに興隆する都市の市民層であった。前者は威儀を正した華麗で祝祭的な表現に向かい(序幕付き5幕の宮廷オペラ,宮廷バレエ,管弦楽組曲,二重合唱のためのモテットなど),後者はつつましやかな規模の中に音楽的な喜びをひめた家庭音楽(鍵盤楽器のための組曲や変奏曲,小規模なソナタと歌曲など)を出発点としながら,しだいにその要求を高め組織化して,後期には市民のための公開コンサートの制度を確立するまでになった(パリのコンセール・スピリチュエルなど)。
[音楽的特色]
いうまでもなく,ほぼ1世紀半にわたる音楽的な営みの中には歴史的な推移があり,国民様式の差異があるが,前後の時代と比較した場合,バロック音楽の音楽的特色は,以下のようにまとめることができよう。…
※「オペラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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