コンスタンチノープル公会議(読み)コンスタンチノープルこうかいぎ(英語表記)Councils of Constantinople

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

コンスタンチノープル公会議
コンスタンチノープルこうかいぎ
Councils of Constantinople

(1) 第1回  381年,東ローマ皇帝テオドシウス1世のもとに約 150名の東方教会司教が参集して開かれた,ニカイア公会議に次ぐ第2回公会議。ニカイア信条を補完し,聖霊が聖父,聖子と等しい神性をもつことを決定し,コンスタンチノープルの司教が,ローマの司教に次いですべての司教の上に,栄誉の点で優位を保有することを決定した。西方教会では,ここでの教義決定が拘束力をもつのは6世紀,またコンスタンチノープルの司教座がローマの次位であることは 12世紀にいたるまで公認されず,その間この会議は普遍公会議と認められなかった。 (2) 第2回  553年,東ローマ皇帝ユスチニアヌス1世が 165名の司教を集めて開いた第5回公会議。いわゆる三章書 (→三章書論争 ) をネストリウス的として断罪,皇帝の勅令に支持を与えた。教皇ウィギリウスは皇帝の参加の命令拒絶カルケドン公会議の決定が害されるのを恐れてこの会議を否認したが,554年公認。 (3) 第3回  680~681年,皇帝コンスタンチヌス4世によって開かれた第6回公会議。教皇アガトの特使議長をつとめた。キリスト単意説異端として退け東西教会の和解を達成。単意説に同意した教皇ホノリウス1世も断罪された。なお 692年に同じ場所に教会会議が開かれ 102ヵ条のカノン採択したが,西方教会の事情を考慮していない点があり,教皇セルギウス1世は承認を拒んだが,東方では第6回公会議の一部としている。この会議は Trullusと呼ばれる円天井の宮殿広間で行われたので,トゥルラーヌム Trullanum (トゥルルスの公会議) と呼ばれている。 (4) 第4回  869~870年,皇帝バシレイオス1世がソフィア教会で開いた第8回公会議。教皇ハドリアヌス2世の特使が議長をつとめた。フォチオスを破門して 27ヵ条のカノンを採択。第3条は聖画像崇敬の容認を確認し,第 21条でローマ,コンスタンチノープル,アレクサンドリアアンチオキアエルサレムの総大司教の序列を認め,第 22条は聖職者任命に対する平信徒の介入を禁止。西方では 11世紀にこの会議を普遍公会議として最終的に認定したが,東方では 879~880年に開かれてフォチオスを復権させた会議を公会議としている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android