日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴヤ(年譜)」の意味・わかりやすい解説 ゴヤ(年譜)ごやねんぷ 1746 3月30日スペイン、サラゴサ近郊の小村フェンデトードスに鍍金師の次男として生まれる1760(14歳) ゴヤ家、サラゴサに移る。ルサーンのアトリエに入る(4年間修業)1764(18歳) 王立サン・フェルナンド美術アカデミーの奨学生試験に失敗1766(20歳) 再度奨学生試験に応募して失敗1769(23歳) フランス経由でイタリアへ行く1771(25歳) 帰国後、サラゴサのエル・ピラール教会のフレスコ天井画制作に着手1773(27歳) 7月同郷の宮廷画家バイェウの妹ホセーファと結婚。その後マドリード定住1775(29歳) 王立サンタ・バルバラ・タペストリー工場の原画制作(~1792年)1778(32歳) ベラスケスの作品に接して模写。『マドリードの市』制作1780(34歳) 5月アカデミー会員となる1785(39歳) 6月アカデミー絵画部長代理に就任1786(40歳) カルロス3世の宮廷画家となる1787(41歳) 『目隠し遊び』制作1788(42歳) 『サン・イシードロの牧場』制作1789(43歳) 1月カルロス4世即位。4月同王の宮廷画家となる1792(46歳) 重病にかかり、以後全聾となる1793(47歳) 『鰯の埋葬』制作1794(48歳) 『狂人の家』制作1795(49歳) 10月アカデミー絵画部長に就任。アルバ公爵夫妻と親しくなる1797(51歳) 『アルバ公爵夫人』、版画集『ロス・カプリーチョス』(~1798年)制作1798(52歳) オスーナ公爵夫人の注文で魔女の絵6点を描く。8~12月サン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ教会の天井画制作(トロンプ・ルイユ)。このころ『裸のマハ』『着衣のマハ』(~1805年ころ)制作1799(53歳) 2月版画集『ロス・カプリーチョス』発刊。10月首席宮廷画家となる1800(54歳) 『カルロス4世家族』(~1801年)制作1802(56歳) 2月アルバ公爵夫人死去1808(62歳) 3月カルロス4世退位。息子フェルナンド7世即位。フランス軍、マドリードに侵入。4月フェルナンド7世、スペインを去る。5月2日占領軍に対しマドリード市民が蜂起(スペイン独立戦争)。7月ナポレオンの兄ジョセフ(ホセ1世)、スペイン王となりマドリード入城1810(64歳) 版画集『戦争の惨禍』(~1820年)制作1812(66歳) 6月妻ホセーファ死去。8月マドリード、一時解放される1813(67歳) 6月イギリス・スペイン連合軍、フランス軍を破る。フェルナンド7世、スペインに復帰1814(68歳) 『1808年5月2日』『1808年5月3日の銃殺』(戦争画)制作。12月『裸のマハ』『着衣のマハ』に関し、宗教裁判所に告訴される1816(70歳) 10月版画集『闘牛技』発刊1819(73歳) 石版画技法を初めて用いる。2月マドリード近郊に「聾の家」を購入1820(74歳) 版画集『ロス・ディスパラーテス(妄)』(~1824年)制作1821(75歳) 「聾の家」に「黒い絵」を描く1823(77歳) 9月「聾の家」を孫に与える1824(78歳) 5月フランスのボルドーに亡命。6~9月一時パリに滞在1825(79歳) 石版画集『ボルドーの闘牛』制作1826(80歳) 5~6月一時マドリードに帰り、宮廷画家を辞す1827(81歳) 『ボルドーのミルク売り娘』制作1828(82歳) 4月16日ボルドーにて客死 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例