ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュトルーベ」の意味・わかりやすい解説
シュトルーベ
Struve, Otto
[没]1963.4.6. アメリカ合衆国,カリフォルニア,バークリー
ロシア生まれのアメリカ合衆国の天文学者。フリードリヒ・G.W.シュトルーベの曾孫。カールコフ大学で天文学を専攻,1920年ロシア革命の際トルコに逃れ,翌 1921年アメリカに亡命 ,シカゴ大学に学ぶ。ヤーキズ天文台の研究員として天体分光学の研究を開始。同天文台台長 (1932) ,テキサス大学マクドナルド天文台台長 (1939) ,シカゴ大学天文学主任教授 (1947) ,カリフォルニア大学ロイシュナー天文台台長 (1950) ,グリーンバンクの国立電波天文台台長 (1959~62) ,国際天文学連合総裁 (1952~55) 。恒星からくる光の分光分析を行ない,スペクトル吸収線から水素をはじめとする星間物質の存在,恒星の自転の存在とその周期,変光星の存在を明らかにし,電波天文学発展の主役として活躍。ほかに星の進化理論も提出した。700に及ぶ論文を発表。主著『星の進化』Stellar Evolution (1950) ,『宇宙』The Universe (1962) 。
シュトルーベ
Struve, Friedrich Georg Wilhelm von
[没]1864.11.23. ペテルブルグ
ドイツ生まれのロシアの天文学者。4代続いた天文学一家の初代で,「シュトルーベ王朝」と呼ばれることがある。ナポレオン占領下のドイツを逃れ,ドルパト大学 (エストニアのタルトゥ) に入学 (1808) してからのちはロシアで過ごす。ドルパト大学の天文学および数学教授 (1813) ,同大学天文台台長 (1817) ,プルコボ天文台台長 (1839) などを歴任。 1824年に,当時としては最大の反射望遠鏡を用いて,約 12万の恒星を観測,記録し,約 3000の二重星 (→重星 ) (うち 75%は新発見) を記録している。彼の業績によって二重星に関する近代的な研究が始まったといえる。ベガ (織女) の視差の測定も名高い。主著『二重星の精密観測』 Stellarum duplicium mensurae micrometricae (1837) 。なお,1816~55年に,シュトルーベを中心としてノルウェーから黒海にかけての 10ヵ国,34ヵ所に設定された観測点が,2005年シュトルーベの測地弧として世界遺産の文化遺産に登録された。
シュトルーベ
Struve, Gustav von
[没]1870.8.21. ウィーン
ドイツの急進的民主主義者。バーデンで弁護士となり,みずから刊行した『マンハイム新聞』で急進的な論陣を張り,しばしば禁錮刑の宣告を受ける。 1847年9月 F.ヘッカーらと急進的なオッフェンブルク集会を指導。三月革命が起ると,48年4月共和国の建設を企ててバーデンに蜂起したが鎮圧され (ヘッカー一揆) ,再び9月にも蜂起。翌年の憲法闘争にも参加したが失敗,スイス,イギリスを経てアメリカに亡命,南北戦争に従軍,63年帰国した。著書に『世界史概説』 Allgemeine Weltgeschichte (9巻,1853~60) がある。
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