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オーストリアの作曲家。初等学校を経営するモラビア出身の父フランツと,母エリーザベトの第4子としてウィーン市外のリヒテンタールに生まれた。早くから楽才を示し,11歳で王室礼拝堂の少年聖歌隊員に採用され,国立神学校で音楽教育を受けた。彼はすでにこの時期にサリエリに才能を認められ,演奏と作曲に腕をふるった。16歳の変声と共に神学校を去り,教員養成課程に進み,父の学校の助手として働きながら作曲を続けた。17歳のときに《交響曲第1番》ニ長調を,そして《糸を紡ぐグレートヘン》を,さらに翌1814年,《野ばら》《魔王》《たゆみなき愛》等のリートの名作を作り,歌曲作曲家としての将来を決定づけた。友人の勧めでゲーテの詩によるリートをゲーテに送って無視されたのもこの時期である。彼はJ.vonシュパウンをはじめ,マイヤーホーファー,A.ヒュッテンブレンナー,クーペルウィーザー,J.M.フォーグルら,文学青年や音楽家の友人に恵まれ,安定した職のないままに,友人の家に寄寓したり,エステルハージ伯家の音楽家庭教師としてハンガリーに滞在したり,父の手伝いをしたり,かなり自由な生活をしながら作曲を続けた。特に歌手フォーグルの紹介でウィーンの上流家庭の社交集会で,詩の朗読等と共に自作のリートを紹介する機会を得て,名声を博した。その結果21年には《魔王》の予約出版が成功し,ウィーンとオーストリアで知名の音楽家となった。1820年ころには彼のまわりに多くの芸術家や愛好者が集まり,彼の新作を聞くための〈シューベルティアーデ〉ができた。22年にはシュタイアーマルクの音楽協会の名誉会員に推挙されたが,その返礼として《未完成交響曲》を作曲した。翌23年は特に実りの多い年で,リート《美しき水車小屋の娘》のほか,ロマンティック劇《ロザムンデ》,ピアノ独奏曲《楽興の時》等を作曲し,ピアノ曲や劇音楽にも新境地を開いた。シューベルト自身は,その数多いリート作曲にもかかわらず,ベートーベンを崇敬して,交響曲作家を志し,また初めからオペラの作曲に異常な情熱を燃やした。しかし,良い台本に恵まれなかったことと,彼の音楽の性質から,ついにオペラでは成功しなかった。24年には弦楽四重奏曲《死と少女》,26年には《ドイツ・ミサ曲》を,そして翌27年には作品90と142のピアノの《即興曲》,晩年のリートの傑作《冬の旅》やピアノ三重奏曲が生まれる。この年の3月26日にベートーベンが没し,シューベルトはその葬儀に参列している。28年1月28日の夜シュパウン邸で盛大な〈シューベルティアーデ〉が催されたが,これが最後の催しになった。この年にハイネとレルシュタープの詩を得て13のリートを作曲したが,それは彼の死後《白鳥の歌》として出版された。また9月には弦楽五重奏曲ハ長調の傑作が生まれている。若い頃からの不節制とチフスのためこの年31歳の短い生涯を閉じた。
シューベルトのリートは,ドイツ・ロマン派のリート芸術の出発点に位置するが,その深い言葉の把握,またそのピアノ伴奏と一体をなすみごとな作曲法は,どちらかというとモーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派(古典派音楽)の技法と精神に近い古典的なものである。彼のリートこそロマン主義的であるとする考え方もあるが,H.W.フェッター,T.ゲオルギアデスらのシューベルトの研究者は,これをむしろ古典的なものとしてとらえている。これに反し,よく歌う旋律,ウィーン風のリズム,豊かな音色と鮮やかな転調等によって特色づけられる彼の交響曲,室内楽曲,また即興曲や《楽興の時》の抒情的ピアノ作品は,たとえ彼がベートーベンを師と仰いだにせよ,明らかにロマン派(ロマン派音楽)の器楽の世界に直接つながるものである。
《シューベルト,生涯と創作の記録》《シューベルト,作品目録》を残したドイッチュOtto Erich Deutsch(1883-1967)を名誉会長として,《シューベルト新全集》刊行のため,〈シューベルト協会〉が1963年カッセルに設立された。
執筆者:谷村 晃
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
1797~1828
オーストリアの作曲家。美しい旋律を特質とし,ゲーテ,シラーなどの詩に作曲して優れた歌曲を多くつくり,八つの交響曲,「ロザムンデ」などの歌劇を作曲したが,貧窮と病苦のうちに死んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…シューベルトの連作歌曲集(作品25)。1823年5月に作曲が開始され,初版の5分冊の楽譜は,24年3月から8月にかけて出版された。…
…このほか芸術歌曲には,有節形式を枠組みとしながら,詩節の気分の推移に従って音楽が部分的に変化する変化有節形式や,同一の曲調がまったく繰り返されることなく,詩節の全体を通じて作曲される通作形式に属するものもある。F.シューベルトのリートを例にとれば,《野ばら》が第1の型,《菩提樹》が第2の型,《魔王》が第3の型の実例である。 西洋音楽の歴史では,早くも中世のトルベールやミンネジンガー(ミンネゼンガー)など騎士歌人の作品に有節形式の歌曲が現れる。…
…特に絶対音楽的性格と標題音楽的性格,単一動機による全曲の統一,新しい楽器と声部の導入などは,以後の交響的作品に決定的な影響を及ぼした。 ほぼ同時期にウィーンで活躍したシューベルト(完成7曲。未完,断片,スケッチ数曲。…
…形式上の規則はなく,リート形式,ソナタ形式などさまざまである。早い例は1822年に出版されたチェコの作曲家ボジーシェクJan Václav Voříšek(1791‐1825)の《即興曲集》で,シューベルトが1827年に作曲した8曲(作品90と作品142の《四つの即興曲》)によって不朽のものとなった。シューベルト以後はショパン,シューマン,フォーレの作品が有名である。…
…この方向はやがてハイドン,モーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派の交響曲や室内楽に結集され,ドイツ的なものを中心にイタリアや東欧の要素を内に含んで,全ヨーロッパに通用するドイツ音楽の頂点を形成した。しかし,われわれはウィーン古典派の純粋器楽のうちに,シュッツやバッハが開拓したドイツ的音楽語法が生きていること,そしてまたこのドイツ音楽とドイツ語の深い内的結びつきが,シューベルトに始まり,ロマン派の時代に展開するドイツ・リートの世界を支えていることを忘れてはならない。さらに従来最もおくれていた分野であるオペラが,モーツァルトのイタリア・オペラやドイツ語のジングシュピールにおいて開花し,やがてウェーバーのロマン主義的ドイツ国民オペラの確立を促し,ついには19世紀後半のR.ワーグナーの楽劇にまで達するのを見る。…
…F.シューベルトの晩年の遺作を集めて,1829年ウィーンの出版社ハスリンガーが歌曲集として出版したもの。 H.F.L.レルシュタープの詩による7曲,ハイネの詩による6曲に,J.G.ザイドルの詩による《鳩の郵便Die Taubenpost》を加えた14曲からなる。…
…シューベルトが1822年に着手し,最初の2楽章を完成し,以下を未完に放置した《交響曲第7番ロ短調》(D(ドイッチュによる作品整理番号)759)。66年ヘルベックJohann Herbeck(1831‐77)がウィーンで初演するまで完全に埋もれていた。…
…したがって音楽にロマン主義が浸透すると,それが果たす役割は他の芸術に比べても著しいものがあった。広い意味でロマン主義の音楽というなら,19世紀の音楽史は,ひと口にシューベルトからマーラーまで,その視野に収められてしまう。この世紀のすべてをロマン主義からとらえることはできないが,少なくともほとんどの事象はこの概念をぬきにしてはとらえられない。…
※「シューベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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