ジブラルタル(読み)じぶらるたる(英語表記)Gibraltar

翻訳|Gibraltar

精選版 日本国語大辞典 「ジブラルタル」の意味・読み・例文・類語

ジブラルタル

(Gibraltar) ジブラルタル海峡の北岸にあるイギリスの自治植民地スペイン継承戦争に介入したイギリスが一七〇四年に占領し、一七一三年以来イギリスの植民地となり、海軍基地が設置されている。

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デジタル大辞泉 「ジブラルタル」の意味・読み・例文・類語

ジブラルタル(Gibraltar)

イベリア半島の南部にある小半島で、英国の海外領土。地中海と大西洋を結ぶ要衝で、1713年のユトレヒト条約により英国が獲得し軍港を設ける。スペインが領有を主張するが、圧倒的多数の住民が現状維持を支持している。人口3.4万(2016)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジブラルタル」の意味・わかりやすい解説

ジブラルタル
じぶらるたる
Gibraltar

ヨーロッパ南部、イベリア半島南端にあるイギリスの直轄領。ジブラルタル海峡の北東岸から南に突出した半島部に位置する。面積5.8平方キロメートル、人口2万7337(1996)。半島の大部分は中生代ジュラ紀の石灰岩からなる岩山で、「ジブラルタルの岩」とよばれ、南北4.5キロメートル、東西1キロメートル、最高点は426メートル。西側に市街地をのせた緩斜面がみられるほかは絶壁をなしている。この「ジブラルタルの岩」は、幅900メートル、長さ1.6キロメートルの砂州でスペイン本土とつながる陸繋島(りくけいとう)となっている。砂州上にはスペインとの間に中立地帯が幅800メートルにわたって設けられ、国境線が敷かれている。ジブラルタル海峡の地中海側の出入口を押さえる要衝の地にあり、つねに海上交通上、軍事上重視されてきた。711年、イスラム教徒を率いたタリクTariq Ibn Zeyadが岩山に上陸、砦(とりで)を築き、「タリクの岩山」(ジェベル・アル・タリクDjebel al Tarik)と名づけた。地名はこれに由来する。現在は最新式の要塞(ようさい)が築かれ、岩山の中に多くの地下通路、弾薬庫、貯蔵室がつくられている。その建設で掘り出された土は北西側の埋立てに用いられ、飛行場がつくられた。西側斜面の市街地には港があり、軍港、自由貿易港としてにぎわっている。

 住民はイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、マルタ人、イギリス人で、公用語は英語であるが、日常的にはスペイン語が用いられる。イギリス軍が常時駐留しているが、イギリス人の総督のもとに、議会と、総督を補佐する評議会が置かれ、自治が認められている。評議会は総督の指名する議長、選挙で選ばれる議員15名、職権による議員2名で構成される。立法権は議会にあり、統治権者の総督はイギリス内閣の助言を受け、評議会はイギリス内閣の勧告を受ける。労働人口の約60%は総督府に雇用されており、経済は主として軍事基地と港湾の業務に依存しているが、観光収入も増加している。スペインは1964年、国連植民地委員会に返還要求を提出、イギリスは67年に住民投票を行い、住民の95.8%が植民地にとどまることを選択したが、同年国連総会は逆にスペイン領としてイギリスが認めるよう求める決議を採択した。69年スペインは国境を閉鎖、経済封鎖を実施したため陸の孤島と化し、対外交通はモロッコ経由かロンドンからの航空便によるほかはなくなった。80年両国間で合意されたリスボン宣言に基づき、82年国境封鎖は13年ぶりに解除され、スペイン政府は徒歩による住民の往来を許可、さらに85年2月には自動車通行を含む全面開放を実施した。イギリスは87年、スペインに対するジブラルタル空港の共同使用を認めた。

[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

地名の由来からもわかるように、711年以降イスラムの支配下にあった。14世紀以後キリスト教徒が奪回を試み、1462年に最終的にカスティーリャ王国の手に落ちた。地中海と大西洋との結節点に位置するため、商業・海上覇権を目ざす各国の攻撃目標であった。1607年から21年までオランダが占領し、イギリスのクロムウェルも占領を計画したといわれる。スペイン継承戦争さなかの1704年、ハプスブルク家カール大公支援を名目にイギリスが占領、スペイン人住民を追放した。これに対しブルボン家フェリペ5世が反撃したが成功せず、1713年のユトレヒト条約でイギリスへの帰属が決まった。アメリカ独立戦争の際、スペインはイギリスに対し支援と引き換えに返還を求めたが失敗、アメリカ支持に回った。1783年のベルサイユ条約でイギリスからメノルカ島バレアレス諸島)の返還を受けたものの、ジブラルタルについては返還されなかった。19世紀以降、とくにスエズ運河が開通してからは、インドなど植民地とイギリス本国とのルートの要石(かなめいし)の役割を果たし、イギリスにとって重要性はさらに増した。第二次世界大戦では、ドイツがフランコに共同攻撃作戦を提案したが拒否され、逆に連合国軍の北アフリカ侵攻の拠点となった。大戦後、スペインからたびたび返還要求が出され、イギリスは拒否し続けていたが、スペインのEC加盟決定とともに急速に話し合いが進展、1985年2月、ジブラルタルの地位に関する両国間の交渉が開始され、国境閉鎖から16年を経てスペイン本土との国交が完全に再開された。87年イギリスはスペインに対してジブラルタル空港の共同使用権を認めた。また非居住者にも免税措置を講ずるなど、国際的なオフショア金融(本拠地以外の国に籍を置いて国際的に販売される投資信託のことで、国際投資信託の一つの形態)の拠点の一つともなっている。

[中塚次郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「ジブラルタル」の意味・わかりやすい解説

ジブラルタル
Gibraltar

イベリア半島南端,同名の海峡を隔ててモロッコに対する小半島の先端を占めるイギリスの自治植民地。面積6.5km2,人口2万8875(2006)。地名は711年に当地に上陸したイスラム教徒軍の隊長ターリク・ブン・ジヤードにちなんだアラビア語のジャバル・アルターリク(ターリクの山)に由来する。古代地中海世界の境界を示す〈ヘラクレスの柱〉の一つとされ,現在はNATOの基地が置かれるなど,戦略的に重要な位置にあるため,〈地中海の鍵〉と呼ばれてきた。住民はスペイン系がほとんどで,スペイン語を母語としているが,英語が公用語。カトリック教徒が多い。幅1.6km,長さ0.5kmの中立地帯をはさんでスペイン側の町ラ・リネアLa Líneaと相対している。総督が守備隊長を兼ね,自治政府,議会がある。イギリスの守備隊と海軍ドックがジブラルタル経済の重要な部分を占めるが,自由港として仲介貿易も盛んであり,観光客も増えている。

 ジブラルタルは,1704年8月4日,スペイン継承戦争のときに,王位請求者のオーストリア大公カールを支持するイギリス・オランダ連合艦隊に征服された。しかしスペイン軍はイギリスにではなく,ヘッセン王子ゲオルゲに指揮されたオーストリア大公軍に降伏したため,イギリス軍のルク提督は一方的に大公の旗を下ろし,イギリスの旗を掲げた。そこでジブラルタルの市会と住民はイギリス支配下に置かれるのを拒み,隣町のサン・ロケに移った。13年,ユトレヒト条約第10条により,スペインはジブラルタルにおける町と城,それに付随する港,要塞の所有とその軍事的使用をイギリスに認めた。しかし主権はスペインにあるとするのがスペイン側の基本的見解である。1705年,27年,そして83年,スペインはジブラルタル奪回の戦争を企て,同地を包囲したが成功しなかった。またその後も外交交渉を行ったがすべて失敗した。1954年にイギリスのエリザベス2世がイギリス連邦とその植民地を訪問したときもジブラルタルはその最終訪問地となっており,スペイン政府は両国の摩擦を避けるため,この訪問をとりやめるよう要請したが聞き入れられなかった。81年チャールズ皇太子のハネムーンはジブラルタルから出発したが,これを不服とし,スペイン国王は結婚式に列席しなかった。

 1950年代後半より,スペインは国連第4(非植民地化)委員会に何度もジブラルタル問題を提出しているが,イギリスの態度は一貫して非友好的で,60年代には両国の関係が悪化し,スペインのジブラルタルに対する経済封鎖が始まった。これは82年スペインに社会党政権が成立してようやく正常化された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジブラルタル」の意味・わかりやすい解説

ジブラルタル
Gibraltar

ヨーロッパ南西部,イベリア半島の南端近くに位置するイギリスの海外領土。首都ジブラルタル。領域は長さ 5km,幅 1.2kmの半島で,大半を「ジブラルタルの岩」と呼ばれる石灰岩と頁岩からなる岩山が占める。地中海の西の出入口ジブラルタル海峡を抑える,戦略上,交通上重要な場所に位置する。古代フェニキアカルタゴ,ローマによる植民が行なわれ,711年イスラムの支配下に入り(→ターリク・イブン・ジヤード),1501年スペイン領。1713年,ユトレヒト条約によりイギリス領。大英帝国最盛期にはマルタキプロスとともに,イギリス海軍が地中海の制海権を握るための重要基地であった。18世紀後半以降スペインは返還要求を繰り返したが,1967年イギリス領にとどまるかスペインに帰属するかを問う住民投票が行なわれ,圧倒的多数でイギリス領となることが確定した。1969年には外交,防衛,治安以外の自治権を獲得し,議会を設置,イギリス政府の任命する総督が議会の承認のもとに行政を担うことになった。これに対し,スペインは 1985年まで国境を封鎖,その後も両国の領有権争いが続いた。2006年ジブラルタル,イギリス,スペインが関係改善に関する三者協定に調印。2009年には約 300年ぶりにスペイン閣僚がジブラルタルを公式訪問した。今日でも軍港,航空基地,商船寄港地として重要。ジブラルタルの岩(426m)は,海峡の対岸にあるスペイン領セウタのアチョ丘(あるいはモロッコ領のヘベルムサ山)とともに,古くから「ヘラクレスの柱」と呼ばれる。ジブラルタルの岩の東側の切り立った断崖には,10万年以上も続いたネアンデルタール人の生活の痕跡を示す,考古学上,古生物学上重要な資料が発見・発掘された四つの洞窟があり,2016年ゴーラム洞窟群として世界遺産の文化遺産に登録された。イタリア系,イギリス系,スペイン系,ポルトガル系が人口の約 80%を占める。公用語は英語であるが,スペイン語も広く用いられる。面積 5.8km2。人口 2万9257(2007推計)。

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百科事典マイペディア 「ジブラルタル」の意味・わかりやすい解説

ジブラルタル

イベリア半島南端,ジブラルタル海峡に突出する小半島。スペイン本土と砂州で結ばれた石灰岩の岩山よりなり,西にアルヘシラス湾を擁する。英国の自治植民地。スペイン系住民がほとんどだが公用語は英語。英海軍の基地で,全域が要塞(ようさい)化されている。古代はフェニキア,カルタゴ,ローマの植民が行われたが,711年イスラム勢力の支配下に入り,1462年スペイン領。1704年スペイン継承戦争の際英国に占領され,1713年ユトレヒト条約で英領。スペインの返還要求が続けられている。なおヨーロッパ唯一の野生ザル,バーバリーエイプの生息地としても知られる。NATOの基地がある。6.5km2。3万2577人(2012)。
→関連項目セウタ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジブラルタル」の解説

ジブラルタル
Gibraltar

イベリア半島南端の岬。全体が岩からなり,港を持ち,地中海大西洋の境を押える枢要の位置を占める。1462年最終的にイスラーム勢力を追いスペイン領となったが,1704年イングランドに占領され,13年ユトレヒト条約でイギリス領となった。以後スペインによる奪還の試みは続けられたが実現せず,2度の世界大戦では連合軍の軍事拠点となった。1986年のスペインのEC加盟後,ジブラルタル領有をめぐるイギリスとの話し合いは進んでいるが,解決には至っていない。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジブラルタル」の解説

ジブラルタル
Gibraltar

イベリア半島南端にあるイギリスの直轄領
711年,ムーア人タリク=イブン=ジシャートがこの地に上陸し,岩の上に要塞を築いた。彼の名からジベル−アル−タリク(「タリクの渡った岩」の意)という名称が生まれ,のちそれが短くなってジブラルタルとなった。14〜15世紀にはキリスト・イスラーム両教徒の争奪地となり,1462年スペイン領。1713年ユトレヒト条約でイギリス領となり,第二次世界大戦後スペインから返還要求が出されている。

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世界大百科事典(旧版)内のジブラルタルの言及

【ターリク・ブン・ジヤード】より

…翌年出征してきたムーサーと競いながら,アンダルスを征服した。ジブラルタルは,ターリクの山Jabal al‐Ṭāriqの転訛した地名である。【私市 正年】。…

※「ジブラルタル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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