フランスの政治家、外交官。名門貴族の長男として1754年2月13日生まれたが、幼時の事故で片足を痛めたため軍人の道を断念し、サンシュルピス神学校に学んだ。家柄の力で1788年ブルゴーニュのオータンの司教となるが、政治改革に心ひかれて、大革命直前、三部会聖職身分議員となる。立憲君主主義者としてミラボーに協力し、1789年、教会財産国有化の提案者となり、国民議会議長(1790)となるが、教皇に破門された。1792年使節としてイギリスに派遣されて亡命を決意し、イギリスついでアメリカに滞在した。1796年に帰国し、翌1797年総裁政府の外相に就任するが、総裁政府に見切りをつけ1799年に辞任し、自らも一役買った同年のブリュメール一八日のクーデター直後ふたたび外相となった。フランスの勝利よりもヨーロッパの勢力均衡と平和を重視する彼はイギリス、オーストリアとの和解に努めた。
帝政成立(1804)後はナポレオン1世の侍従長(1804~1808)を兼ねたが、しだいに彼の好戦的政策に失望して1807年外相を辞任し、ナポレオンの没落を画策した。1814年タレーランの尽力によりブルボン王朝が復活すると、功を買われて外相に起用され、ウィーン会議では正統主義を唱え、列強の利害の対立を巧みに利用してフランスの国際的地位の復活に多大の貢献をした。ナポレオンの百日天下(1815年3~6月)ののち短期間(2か月半)首相を務めたが、極右派の圧力により辞任した。
1830年の七月革命ではオルレアン家のルイ・フィリップの即位に貢献し、駐英大使(1830~1834)としてベルギーの独立を助けた。1838年肺壊疽(えそ)との診断を受け、5月14日手術。経過悪く同月17日死去。死の直前ふたたびカトリックとなったが、その生涯はあらゆる現世的快楽の追求に彩られていた。なお、画家ドラクロワは彼の隠し子であったというのが通説である。
[平瀬徹也]
『ダフ・クーパー著、曽村保信訳『タレイラン評伝』(1963・中央公論社)』
フランスの政治家,外交官。名門貴族に生まれたが,幼時の事故で片足が不自由になったためもあって神学校に入れられ,1775年聖職者になり,88年オータンの司教に任じられた。その間,才能と学識によってパリの社交界で知られ,かなり放埒(ほうらつ)な生活を送った。フランス革命に際しては,89年に全国三部会の聖職身分議員として国民議会の成立に貢献し,財政改善のために教会財産の国有化を実現させるなど,革命派として活躍した。このため教皇に非難されたのを契機に91年聖職を離脱した。92年に外交使節団の一員としてイギリスに渡り,いったん帰国ののち,革命の激化を避けてイギリスおよびアメリカに亡命した。96年に帰国すると,翌年外相に任じられ,ナポレオンが政権を掌握したのちも長く外相の地位にあって多くの条約の締結に活躍し,公爵に列せられた。彼は国際協調に基づく外交を重んじたので,しだいにナポレオンの侵略的な政策と対立し,1807年に外相を辞したのちはひそかにナポレオンの失脚を画策した。14年にナポレオンが退位すると,ルイ18世のもとで再び外相になった彼は,ウィーン会議に出席し,列強の利害の対立に乗じて,正統主義と勢力均衡の原則によってフランスの地位を保全することに成功した。15年に一時首相になったが,王政復古の反動的傾向の中でまもなく職を辞し,貴族院議員として自由主義的反対派を形成した。七月革命が起こると,30年から34年まで駐英大使として再び外交に活躍し,隠退後まもなく死去した。このようにフランス革命から七月王政までの波乱を生き抜いた彼は,しばしば無節操な人物と見られているが,その態度はむしろ18世紀の教養人として一貫しており,その才腕が用いられる限りにおいて各時期の権力に協力したといえよう。
執筆者:遅塚 忠躬
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1754~1838
フランスの政治家,外交官。フランス革命前には司教,革命期には国民議会議員,総裁政府から第一帝政にかけて外相となったが,やがてナポレオンから離れて復古王政に暗躍し,ウィーン会議では,フランス代表として巧妙に列国を牽制した。
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…会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレー,プロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。当初,イギリス,オーストリア,プロイセン,ロシアの四大国は自分たちだけでヨーロッパの領土的再編を取り決め,同じくパリ講和(パリ条約)に参加したスペイン,ポルトガル,スウェーデンの3国には事後承諾させればよいと考えた。…
…フランスの画家。フランス革命で活躍し,政府高官を務めたシャルルを父に,著名な家具師エーベンŒbenの娘ビクトアールを母にもったが,本当の父親はタレーランだとする説が今日では有力である。若くして両親を失ったが,リセ・アンペリアルで古典の基礎を身につけ,1815年ゲランGuérinのアトリエにはいり,年長のグロやジェリコーと知り合う。…
※「タレーラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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