韓国(大韓帝国)皇帝の高宗(こうそう)から密書を託された李儁(りしゅん/イジュン)、李相(りそうせつ/イサンソル)、李瑋鍾(りいしょう/イイジョン)が、1907年にオランダのハーグで開かれた第2回平和会議への出席を求め、同会議で第二次日韓協約(乙巳(いっし)保護条約)を破棄させようとした事件。1905年11月に日本に強制された第二次日韓協約によって外交権を奪われた韓国の窮状を打開しようとしていた高宗は、ハーグ平和会議に韓国代表を送り込んだが、日本代表の阻止工作などにあって彼ら密使の参加要求は外交権がないとして拒絶された。使命を果たせなかった李儁は憤死した。この事実を知らされた韓国統監・伊藤博文(ひろぶみ)は高宗に詰問して、その子純宗(じゅんそう)(1874―1926)への譲位を迫り、さらに「第三次日韓協約」の締結を強要して韓国の内政をほぼ完全に掌握した。
[馬渕貞利]
『武田幸男編『朝鮮史』(『新版世界各国史2』・2000・山川出版社)』▽『森山茂徳・原田環編『大韓帝国の保護と併合』(2013・東京大学出版会)』▽『趙景達著『近代朝鮮と日本』(岩波新書)』
1907年6月,オランダのハーグで第2回万国平和会議が開かれることを知った朝鮮国王(高宗)は,国際会議の場で朝鮮が日本の支配下におかれていることの窮状を訴え,日韓保護条約(1905)が無効であることを列国に承認させようと計画,アメリカ人H.B.ハルバートらの援助を得て,李相(りそうせつ),李儁(りしゆん),李瑋鍾(りいしよう)の3名を代表としてハーグへ派遣した。彼らは平和会議への朝鮮代表の参加を実現しようと試みたが,朝鮮は〈外交権〉を失っているという理由で受け入れられなかった。保護条約が不当であるという訴えも各国代表は聞かなかった。〈平和〉を名とする国際会議が侵略を容認し合う帝国主義外交の場でしかないことを痛感させられた李儁は抗議の自決をした。日本政府はこの密使派遣を不法行為として国王を詰問,退位させ,同年7月朝鮮の内政全般を日本の監視下に置くため第3次日韓協約を押しつけ,韓国軍をも解散させた。
執筆者:馬渕 貞利
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1907年6月,韓国皇帝高宗がオランダのハーグで開かれていた第2回ハーグ平和会議に密使を送り,日本の韓国侵略の無法を訴えた事件。韓国は1905年の第2次日韓協約で保護国とされたが,高宗はこの条約の無効を各国に訴えるため,李相(りそうせつ)・李儁(りしゅん)・李瑋鍾(りいしょう)の3人をハーグに送った。彼らは高宗の信任状を示し会議出席を希望したが,韓国に外交権がないことや日本代表の阻止工作により失敗。李瑋鍾は記者クラブで「朝鮮の訴え」という講演で世論を喚起し,李儁は憤激のあまり自殺した。統監伊藤博文はこの事件を機会として高宗を退位させ,第3次日韓協約を結び,韓国の内政全権を掌握した。
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1907年6月,オランダのハーグで第2回万国平和会議が開催されるに際して,国王高宗は日韓保護条約(1905年)の無効性を列国に承認させようとして,李相卨;(りそうせつ),李儁(りしゅん),李瑋鍾(りいしょう)を代表として派遣した。これに激怒した日本政府は,国王を退位させ,朝鮮の内政全般を監視下に置くために,同年7月に第3次日韓協約を強要し,韓国軍隊を解散させた。
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