翻訳|ballet
演劇的な舞踊,舞踊劇ともいわれるようなものを指し,劇場的な舞台舞踊である。演劇がせりふによって進行するのに対し,せりふの代りに舞踊およびミーム(マイム)によって進行する劇をいう。一貫した筋があり,2人以上の登場人物をもち,その登場人物が何かの役にふんし,したがってその役の要求する衣装を着し,舞台装置をもった劇で,せりふをいっさい排して舞踊だけによって構成されるものである。ふつう,ダンスといわれるものとの相違は,ダンスがひじょうな広範囲なものを意味し,観客を予想しない民俗舞踊や原始舞踊などをもいっさい含めているのに対して,バレエは初めから観客を意図し,劇場のためのものである点にある。そうしてダンスはバレエという総合芸術の一つの主要な構成分子にもなっているわけで,ダンスそのものがバレエではない。バレエはオペラ,オペレッタ,レビュー,ミュージカルというような舞台芸術の一つのジャンルである。
前記の定義はバレエの先進国であるフランスやロシアで適用しているものであるが,他の諸国ではフランス,ロシアで〈クラシック・ダンス〉といわれて区別しているものを,〈バレエ〉といっていた。これはクラシック・ダンスそのものをバレエと思っていることから起こった誤りである。クラシック・ダンスとは訳せば〈古典舞踊〉ということになるが,それは足の五つの基本的ポジションをもった踊りをいう。その五つの基本的ポジションは,両足の爪先がつねに外を向いていることに特徴がある。これによりクラシック・ダンスは広範囲な動きと,足から爪先に至る長いまっすぐな線を獲得した。クラシック・ダンスの動きは,すべてこの五つのポジションの上に構築されているが,女性舞踊家が足の爪先で立って踊るという特徴もある。そのためイギリスやアメリカではクラシック・ダンスのことをトー・ダンスといった時代もある。さて,こういうクラシック・ダンスのことをバレエと誤用した理由は,従来,バレエにおけるダンスは,クラシック・ダンスに限られていたからである。それゆえクラシック・ダンスをそのままバレエといっても,さして不都合でなかったわけである。しかし20世紀前半から,とくに第2次世界大戦後は,バレエで踊られるダンスがクラシック・ダンスに限らず,クラシック・ダンスに対立するモダン・ダンスをも含むようになったので,バレエを必ずクラシック・ダンスによって踊られるものと考えることは不可能になった。要するに現在ではバレエに使われるダンスはどんなものであってもかまわないので,劇場的なもの,演劇的なダンスであるなら,すべてがバレエである。
ダンスの歴史は人類の発生とともに古いが,バレエはルネサンスのころ始まったと考えられている。14~15世紀によくみられた無言劇や仮面劇,幕間狂言(インテルメッツォ)などからイタリアで発生したものであるということは通説となっている。当時の無言劇は,仮装で仮面をつけた数人によって演じられ,観衆を交えずに彼らだけで踊られた。踊り手たちは集会の中途に突然現れたり,あるいはたいまつや楽隊を先頭にして,徒歩または車に乗って厳かに入場したりした。仮面劇では,にぎやかに飾られた車に分乗して,衣装をつけた役者たちが行列した。そして敬意を表する必要のある人の前にくると,どの車もいちいち止まって,おもな役者が賛辞を朗誦した。幕間狂言は踊りや歌や,大道具のしかけによる小さな場面から成り立ち,芝居や宴会の途中で演ぜられた。無言劇や仮面劇における舞踊の中にはバリballiあるいはバレッティballettiといわれるものがあり,それは今日でいうところの社交ダンスであった。そのballettiがフランスに入ってballetとなった。ballettiはballettoの複数形でballettoはballoの縮小辞である。balloというのはダンスにあたるイタリア語で,語源的には少しもドラマティックな意味をもっていない。それがドラマティックな意味をもつようになったのはフランスに入ってからである。
バレエの原型とみなされている最も優れた実例は,1489年,トルトナのボッタBergonzio Botta(1454-1504)によって,元のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと,アラゴンのイサベル姫との結婚式のときに行われた幕間狂言である。これは宴会の余興であったが,料理の皿が運ばれるごとに,それに応じた踊りや歌が伴った。このよく考案され,優雅な暗示に富んだ宴会狂言は,全ヨーロッパを通じて有名になり,各宮廷でも同じようなものを演ずるようになった。
この流行はフィレンツェのメディチ家娘カテリーナ(フランスではカトリーヌ・ド・メディシス)という熱心な保護者を得て,フランスの宮廷に移し植えられた。カトリーヌはアンリ2世に嫁ぎ,のちに王となる3人の息子を生んだが,フランスの勢力と富を外国に誇示するために,この宴会の余興に力を注いだ。そのためボージョアイユーBalthazar de Beaujoyeux(?-1587)というバイオリニストを宴会の構成者として重用した。彼の演出した余興のうち最も有名なものが1581年にルーブル宮のブルボンの間で上演された《王后のバレエ・コミークBallet comique de la reine》である。ここではっきり〈バレエ〉という文字が現れ,バレエ史上のトップを飾るほどの重要な位置を占めている。このバレエについては,翌年発行された同名の書に詳細に記録されているが,その序文でボージョアイユーは,バレエを定義して,〈多くの楽器に調和しておおぜいの人が踊る幾何学的混合〉と述べている。このバレエで重要なことは,ボージョアイユーが,踊り,音楽,歌謡,朗誦などを一つに調和して,一貫した筋をもった演劇的バレエを作った最初の人であるということである。また,この時代には演技者のすべてが宮廷人であり職業的な芸人ではなかった。
その後ルイ14世の時代になってバレエはますます発展を遂げた。ルイ14世は自分でも踊ったほどの熱心な踊りの愛好者であったが,職業的な舞踊家の養成を考え,1661年王立舞踊アカデミーAcadémie royale de danseを設立した。これは,J.B.リュリの王立音楽アカデミー(オペラ座)に吸収され付属舞踊学校となるが,専任舞踊教師にはルイ14世の舞踊教師であり,リュリと協力して宮廷バレエを創作したボーシャンPierre Beauchamp(1636-1705)が任命された。今日,クラシック・ダンスといわれるものはアカデミック・ダンスともいわれているが,それはこのアカデミーで教えたダンスのことで,ボーシャンが考案した〈脚の五つの基本的ポジション〉を基礎としている。
ボーシャンの職業的訓練によって,ルイ14世の意図が結実し,アカデミーから優れた舞踊家が輩出するに及んで,バレエは宮廷から劇場へ,すなわち一般大衆のためへと流れ出るようになった。この時代に特筆すべきものは,1681年リュリとボーシャンが《愛の勝利Le triomphe de l'amour》というバレエをサン・ジェルマン・アン・レー宮で初演ののち,オペラ座で上演したことである。なぜかというと,このバレエで初めて女流舞踊家が劇場に現れたからである。宮廷におけるバレエでは女性が現れることはあったが,劇場におけるバレエでは,女性役は仮面をつけた少年によって演じられていたのである。こうしてバレエは,リュリの手により一歩前進したが,それでもなお踊りと歌と音楽と黙劇との混合物であることはやめず,振付においてはメヌエットやガボットなど舞踏室で踊られる踊りが多く,水平の動きのみで垂直の動きというものはなかった。これは重く長い衣装の制約を受けていたためで,衣装の長さを縮め,踵のない靴を採用したカマルゴの出現によって,女性舞踊家は初めて跳躍し,敏速な足の動きを見せるのである。
カマルゴに続いて18世紀の後半,ノベールが現れバレエの根本を改革した。彼によって初めてバレエは,今日の原型をもつにいたった。すなわち,歌やせりふはすべて排され,首尾一貫したドラマとなり,筋や劇的行為はまったくダンスとミーム(マイム)によって表現された。ミームとは黙劇的演技といわれるが,せりふを言う代りに身ぶり,しぐさで表現するものである。バレエには筋があるから説明の部分が必要なわけであるが,それは踊りでは表現されず,ミームで表現される。彼によってオペラとバレエは完全に分離され,今日のバレエの基礎が築かれた。ノベールは自分のバレエをバレエ・ダクシヨンと呼んだが,それが今日のバレエであり,現在では単にバレエといわれている。またこの時代には優れた舞踊家が輩出し,さらに衣装の改革が進み,仮面は廃止された。今日のタイツと呼ばれるものも,19世紀の初めに発明され,舞踊技術の進歩を促した。
次いでイタリアにS.ビガーノが現れ,ノベールの道をさらに発展させた。彼はコール・ド・バレエ(群舞の踊り手)の動きを改革し,その地位を高めると同時に,バレエの主題に関してはとくに意を注いで,ドラマとしてもりっぱな作品を考案した。続いてC.ブラシスが現れ,舞踊の教育法について大きな業績を残した。彼は舞踊の理論,技法の書を数多く書いているが,ミラノのスカラ座の付属舞踊学校の校長として,今日なお,世界各国のアカデミーの模範となる,合理的な教育方法を制定した。ブラシスと同時代,すなわち19世紀初頭を飾る最も大きな名前はM.タリオーニである。彼女の踊った《ラ・シルフィード》(1832)は,いわゆるロマンティック・バレエの成功を決定的にしたものであるが,同時にこのバレエで初めて用いられた特殊なスカートは,今日バレエの制服と考えられているチュチュである。それは純白のオーガンディーとチュールを幾枚も重ねた,釣鐘形のふわふわした軽い霞のようなスカートである。それからもう一つ重要なことは,このバレエ以降舞姫の,ポアントで立つ踊りが顕著になったことである。ポアントは足指の先端のことであるが,これで立つためには特殊な靴がなければならない。彼女の靴は今日のものとは違い,先端に堅いものが入っていないから,おそらく瞬間的に立ったものと思われる。
ロマンティック・バレエというのは,主題に幻想的な妖精物語が選ばれ,主役の舞姫は必ず何かの精,たとえば空気の精,水の精などにふんしている。しかし,主題に外国が選ばれ,異国情緒をねらったものもある。タリオーニと覇を競った舞姫はF.エルスラーで,前者が清純なおとめの役柄を得意としたのに反して,彼女は自由奔放な肉感的な踊りによって人気があった。さらに,最古のバレエの一つとして今日まで伝承される《ジゼル》(1841)を踊ったC.グリジがおり,これら三大舞姫がせり合って,19世紀前半はバレエの輝かしい全盛時代であった。それには詩人のゴーティエがあずかって力あったことも忘れてはならない。
19世紀も半ばを過ぎると,さしも全盛を誇ったパリのバレエも衰えて,その中心地はロシアのペテルブルグに移った。ロシアにおけるバレエは,17世紀の初めピョートル大帝が,ルイ14世を見習って舞踊を民衆の娯楽として採用したことに始まるが,エカチェリナ2世の時代(1762-96)になって,フランスから多くの優秀な振付師,教師が招かれて急速に発展した。1847年にはフランスからM.ペチパが招かれ,ペテルブルグのボリショイ劇場,のちのマリインスキー劇場の振付師として画期的な名作を数多く上演し,この劇場を世界のバレエの中心とした。19世紀末になるとそれも終りを告げるが,死の灰の中から不死鳥が生まれるように,ディアギレフがマリインスキー劇場の若い舞踊家たちを集めて〈バレエ・リュッス〉を組織し,1909年パリで旗揚げをして大成功をおさめた。以来覇権はディアギレフのバレエ・リュッスに移り,このバレエ団が世界のバレエの最先端をゆくこととなった。29年ディアギレフの病死により,同団は解散するが,32年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉として復活し,62年まで存続した。
ロシア本国においては,革命後,ソ連邦となってからもバレエは盛んに踊られ,舞踊家の養成に力が注がれ,世界に並ぶものがない優れた舞踊家を多く輩出している。最近の傾向としては,モスクワのボリショイ劇場では,古典の作品の現代的解釈に力を注ぎ,レニングラード・キーロフ劇場(現,サンクト・ペテルブルグ・マリインスキー劇場。〈レニングラード・バレエ団〉の項参照)では,古典の忠実な保存,および優秀な外国の作品の紹介に意を用いている。
イギリスは長らくバレエの輸入国にとどまっていたが,1930年〈カマルゴ協会〉が生まれ,イギリスのバレエを創造する運動が起こった。この協会は二つのバレエ団〈ビック・ウェルズ・バレエ団〉と〈ランバート・バレエ団〉(ともに1931創立)によって,古典の再演と同時にイギリス人の手になる作品を上演し,ついにイギリス・バレエという名に価するものを樹立した。以来,順調な発展を示し,ことに〈ビック・ウェルズ・バレエ団〉は〈ローヤル・バレエ団〉に発展したばかりでなく,〈サドラーズ・ウェルズ・ローヤル・バレエ団〉という別組織のバレエ団をもつほどに成長した。
アメリカもまた,これといったバレエ団のない国であったが,1933年〈バレエ・リュッス・ド・モンテ・カルロ〉のアメリカ訪問以来,急激にバレエが盛んになった。ことにバランチンを主とするアメリカン・バレエ学校の設立(1934)によって,多くのアメリカ人の舞踊家を輩出するようになり,それは今日の〈ニューヨーク・シティ・バレエ団〉の母体となった。このバレエ団は,バランチンのストーリーのない〈抽象バレエ〉を多く上演しており,これは新しい時代の新しいバレエとして注目され,その影響は全世界に及んでいる。また39年〈バレエ・シアター(のちのアメリカン・バレエ・シアター)〉も結成され,前者に対抗するバレエ団として活躍している。このバレエ団は前者に比べると,より広範な演目をもち,20世紀前半に活躍したいくつかの〈バレエ・リュッス〉の傾向を踏襲するものといえる。また,この二つのバレエ団のあるニューヨークだけでなく,あらゆる州都,大都市がバレエ団をもち,バレエを専攻して学位の取れる大学が激増するなど,アメリカにおけるバレエの発展には目をみはるものがある。
フランスは〈パリ・オペラ座バレエ団〉が中心となって盛んに新作を発表しているが,マルセイユ(R.プティ)その他の地方都市にも国立バレエ団があって独自の活動をしている。ベルギーでは首都ブリュッセルの王立劇場にM.ベジャールの率いる〈20世紀バレエ団〉が定着し,現在世界で最も先鋭な近代的感覚をもつバレエ団として気を吐いている。イタリアではミラノの〈スカラ座バレエ団〉が往年の盛名を取り戻し,ドイツではすべての大都市にバレエ団があり,ことにJ.クランコの育てた〈シュトゥットガルト・バレエ団〉は優れた作品を多く世に送っている。デンマークでは,ロマンティック・バレエ時代の演目を多く保存している〈デンマーク王立バレエ団〉に国際的な評価が高まり,独自のブルノンビルによる新システムによって教育された踊り手が注目を集めるようになった。他の西欧諸国にもおおむね多くのバレエ団がある。東欧諸国はすべて国立のバレエ団をもつが,教育法,演目については,ソ連の影響が非常に強い。東洋においても香港,フィリピンが公立のバレエ団をもつなど,20世紀後半はまさにバレエの黄金時代である。
その20世紀後半の世界のバレエの特徴をあげると,まず第1は,男性舞踊手の活躍である。従来舞姫の陰に隠れていた男性舞踊手が注目を集めるにいたったのは,男性のための華やかな跳躍技,回転技が,次々と開発されたこと,またこれには,R.ヌレーエフ,M.バリシニコフらソ連からの亡命舞踊家の圧倒的な力量によるところが大きいといえよう。今や舞姫の時代は過ぎ,男性舞踊手の時代となった感さえある。さらに1964年ブルガリアのバルナで初めて開催されたバレエの国際コンクールは,モスクワ,ニューヨーク,パリ,ヘルシンキ,東京などでも開催されるようになり,バレエ技術の,とくに男性舞踊手の技術発展に拍車をかけた。コンクールというものの性質上,目を奪う大きな離れ技が利点となるからである。またモダン・ダンスの演目がバレエのプログラムに入るようになったのも最近の傾向である。モダン・ダンスの作家がバレエ団のために作品を作ることは,従来もままあったが,モダン・ダンス舞踊団の演目をそのままバレエ舞踊家が踊るということは,かつてなかった。バレエの範囲は徐々に広がってゆくのである。
バレエは初めに説かれたように,劇場で上演される舞踊劇であるが,その内容によっていろいろに種類分けすることができる。たとえば歴史的バレエ,民族的バレエといった分け方であるが,そういう種類分けはさして重要でない。しかし,バレエそれ自身の構成方法からくるクラシック・バレエとモダン・バレエとの区別は重要である。クラシック・バレエとは,そのバレエの構成法がクラシックな方法により,そしてそこに用いられるダンスは同じくクラシックなものによるものをいう。クラシックな構成法とは,たとえば主役は必ず舞姫で,男性舞踊手はささえ役として存在するとか,コール・ド・バレエはつねに背景的役割を務めるとかいうふうに構成されたものである。そして必ずミーム(マイム)の場面があり,踊り手でないミーム役者が登場してきたりする。またグラン・パ・ド・ドゥという形式をもっている。
モダン・バレエにあっては,そういう構成法からまったく解放されている。というよりは,モダン・バレエはクラシック・バレエに反対して生まれたものである。男性舞踊手の位置は舞姫と対等になり,あるものではそれ以上になっていることもある。コール・ド・バレエもアンサンブルとして主役的役割を果たしている。またミームはなくなり,グラン・パ・ド・ドゥの形式も失われている。それからそこで用いられるダンスは,クラシック・ダンスによることもあるが,モダン・ダンスによることもある。クラシック・ダンスの場合も,ネオ・クラシック・ダンスといわれる新しい手法を加味した技法のダンスが用いられることが多い。またモダン・バレエでは,筋や内容をもたないバレエもあり,それらはとくに〈抽象バレエabstract ballet〉あるいは〈絶対バレエabsolute ballet〉と呼ばれている。これらはとくにアメリカで盛んであるが,それはバレエというより,ダンスの連続,ダンス組曲といったほうがふさわしい。
日本におけるバレエは,1911年(明治44)帝国劇場の創設に始まるといえよう。帝劇では何か新しいものを上演したいと考え,歌劇部を創設した。そしてロンドンからローシーという演出者兼舞踊振付師を迎えた。ローシーは12年来日,直ちに若い歌劇部員の養成に当たった。それが日本における最初のクラシック・ダンスの訓育であった。その門下から高田雅夫,原(のち高田)せい子らを生んだ。しかしローシーの来日はおそらく早きに過ぎ,また日本に彼から吸収するに足る実力がなかったものと思われる。彼は失意のうちに18年渡米した。外来舞踊家としては,16年ペトログラードから帝室マリインスキー劇場専属のポリス・ロマノフ,エレナ・スミルノワ夫妻が来日して,帝劇で3日間踊った。このとき《瀕死(ひんし)の白鳥》などが踊られたが,これもその来日が早過ぎて,なんらの影響も与えるにいたらなかった。影響が大きく現れたのは,22年来日したアンナ・パブロワで,このとき初めて日本人はバレエというものに対して目を開かされた。それより前,高木徳子が1906年に渡米し,14年帰国,帝劇の本興行に参加して,ローシー振付演出の《夢幻的バレエ》に出演,初めて〈トー・ダンス〉なるものをみせた。しかしやはり強い影響を与えなかったようである。パブロワ来日以来バレエに強い関心がもたれるようになって,21年ロシア革命を逃れて日本に来ていたエリアナ・パブロワが脚光を浴びるようになった。彼女は必ずしも優秀な訓練を経た舞踊家とはいえなかったが,にわかにクラシック・ダンスの教師として仰がれるにいたった。橘秋子,東勇作,服部智恵子,貝谷八百子,島田広などがエリアナの門から出た。しかし真に正統的なクラシック・ダンスを教えたのは,36年日本の外交官と結婚したためにレニングラードから来日したオリガ・パブロワである。彼女も優秀な舞踊家とは断じがたいが,レニングラードで正規な訓練を受けていた。オリガはサファイアと名のり,日本劇場でそのダンシング・チームに正規のクラシック・ダンスを教えた。松尾明美,松山樹子が育ち,東勇作も彼女から多くを学んだ。
バレエが盛んになったのは,第2次世界大戦後で,46年に上海から帰った小牧正英を迎えて東勇作,貝谷八百子,服部智恵子・島田広の各バレエ団の合同になる東京バレエ団が《白鳥の湖》4幕を上演してからである。この東京バレエ団は《ジゼル》《シエラザード》《コッペリア》《レ・シルフィード》などを上演して50年まで7回の公演を続けたが,各バレエ団の活動も活発になり,古典・近代のバレエ,創作バレエの出現を促した。一方,53年に来日した〈スラベンスカ=フランクリン・バレエ団〉の《欲望という名の電車》,54年に小牧バレエ団がA.チューダーとノラ・ケイを招いてみせた《ライラック・ガーデン》などは,多大な刺激を日本のバレエ界に与えた。大型のものとしては57年のボリショイ・バレエ団の初来日に始まり,58年にニューヨーク・シティ・バレエ団,60年にはレニングラード・バレエ団,61年ローヤル・バレエ団と続いて世界最高のものに接するようになった。
そして,1960年ソ連からスラミフィ・メッセレル,アレクセイ・ワルラーモフが設立されたばかりの東京バレエ学校の教師として来日するに及んで,日本のバレエ界の教育法,技術的水準は飛躍的な向上をみせた。現在では世界の檜舞台で踊る森下洋子,スコティッシュ・バレエ団のプリマ・バレリーナ大原永子,東ベルリン・バレエ団やミュンヘン・バレエ団で主役を務めた深川秀夫,カールスルーエ・バレエ団で首席舞踊手の地位にある佐藤勇次らが生まれている。またチャイコフスキー記念東京バレエ団(代表佐々木忠次)は,ベジャールほかの一流の振付師やダンサーを招く一方,定期的に海外にも招かれている。中国との交流を深めた松山バレエ団はヌレーエフとのイタリア公演でも成果をみせた。牧阿佐美バレエ団は橘秋子の没後,牧阿佐美(橘秋帆)を主宰者としウェストモーランドらを招いて古典の新改訂をみせ,活発な公演活動を展開。チューダー作品で出発したスター・ダンサーズ・バレエ団は,K.ヨースの《緑のテーブル》を上演し,創作を主にしたバレエ団の特徴をみせている。そのほか谷桃子バレエ団,貝谷バレエ団,法村・友井バレエ団,東京シティ・バレエ団などそれぞれの持味を生かしたレパートリーをみせている。
執筆者:蘆原 英了+薄井 憲二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
バレエはヨーロッパに発達した舞踊形式の一種で、音楽、マイム(黙劇)、衣装、装置などを伴う総合芸術である。イタリア語のballare(踊る)を語源とするように、ルネサンス期(14~16世紀)のイタリアの宮廷に生まれた。他の舞踊に比較して足を開くことを原則とし、歩く、跳ぶ、回るステップなど厳密にパターンが決められているのを特色とする。足の表現を上半身のそれよりも重視しているところから、狩猟民族系の舞踊ともいわれている。
[市川 雅]
バレエはイタリア・ルネサンス期の宮廷における祝宴の余興から始まった。メディチ家の盛時には、5、6時間の祝宴中、入念に構成されたさまざまな出し物で賓客をもてなすのが習慣であった。まずアントレという入場があり、貴族とその夫人たちが大広間に入ってくる。男女は列をつくるとともに一対になって、互いにおじぎをし、手を取り合って踊りながら歩く。この踊りの道筋をシェマンといい、床に歩くための図形が描かれるか、まえもって踊る人々に示されていた。バレエは宮廷における挨拶(あいさつ)の仕方をもとにつくられたといわれ、このアントレの行進も男女の礼儀のあり方を基本にしている。このように初期のバレエでは貴族たちがアントレの場面で踊りながら行進するだけだったが、踊り手が専門化するにつれて、アントレに参加する踊り手は登場人物の扮装(ふんそう)をするようになった。たとえば17世紀における天上界を描くバレエでは、霧、霰(あられ)、雷、流星などに扮していた。
イタリアでの宮廷の祝宴は、メディチ家の娘カテリーナ(フランスではカトリーヌ・ド・メディシス)がフランスのアンリ2世の王妃となるとともにパリの宮廷に移され、より豪華なものになっていった。1581年のパリのプチ・ブルボン宮で上演された『王妃のバレエ・コミック』はバレエ史上記録に残る最初の作品である。ジョアイユーズ公爵と王妃ルイーズ・ド・ロレーヌの妹マルガレーテ(マルグリット)の結婚を祝って催され、台本と振付けはバルタザール・ド・ボジョアイユで、カトリーヌ・ド・メディシスが雇った音楽家であった。内容は、魔女キルケの魔法にかけられた水の精、海の精たちがユピテルによって解放されるというギリシア神話によるもので、グロテスクのごった返し、変身に次ぐ変身による実体の喪失、登場人物の二重性、天と地との交錯などバロック的特徴を示している。とくにこの変身のあり方はバロック演劇特有のもので、バロック演劇は宮廷バレエの別称ともなっている。
フランスの宮廷バレエはその後も繁栄を続け、ルイ14世時代、リュリやモリエールらが音楽や台本を書くころには、職業的な踊り手が出現するようになった。1661年、王立舞踊アカデミーが創設され、ボーシャンが専任教師となって、バレエの基本である足の五つのポジションが定められ、1669年設立の音楽アカデミーと合体して1672年に王立音楽舞踊アカデミー(現在のパリ・オペラ座)の設立をみるに至った。
バレエは祝宴の余興から始まったが、その後のグランド・バレエ『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』などの終幕では男女が愛によって結ばれ、他の幕ではディベルティスマンといわれる余興の踊りの競演がみられるように、発生時に与えられた性質は以後のバレエの展開に大きな影を落とし、その内容を決定づけている。
[市川 雅]
18世紀のヨーロッパのバレエは、パリ・オペラ座を中心に展開され、マリー・カマルゴ、マリー・サレなどの舞踊家、ボーシャン、ノベールなどの振付師が活躍した。19世紀になると、ヨーロッパを席巻(せっけん)したロマン主義精神がバレエの世界にも入り込み、バレエ史上もっとも高揚した時代を迎えた。なかでも詩人ゴーチエは舞踊評論家としても活躍し、『ジゼル』の台本作家でもあった。彼は「地の精、水の精、火の精、小妖精(ようせい)、ニクス、ウィリー、ペリなど幻想的な神秘的な存在にオペラ座はゆだねられ、オリンポスの大理石と黄金の12の神殿は倉庫の中に追放された」と語っている。魔女やギリシア風のチュニックを着けた人物は消えて、ヨーロッパの地方の民俗的伝承が主題となり、登場する舞姫は薄いサテンのスカートを着け、妖精となって野の花の冠を頭に飾り舞台に現れた。
ロマン主義時代の作品には、『ラ・シルフィード』『ジゼル』など妖精が出てくるものが多い。夢想的な神秘主義、はるかなる国々、伝説的な過去への郷愁、民間伝承の愛好などがここにはみられる。シルフィードは空気の精であり、『ジゼル』に登場するウィリーは空気と森の混合した妖精である。そのほかにも『ラ・ペリ』『オンディーヌ』などが上演されている。ロマンチック・バレエの典型的な作品は2幕構成になっていて、たとえば『ジゼル』のように、第1幕は村の広場で展開される生き生きとした農民の生活場面であり、第2幕はがらりと変わって幻想的な場面である。
この時代には、トーシューズが初めて用いられるようになった。主題が妖精の世界ならば、舞姫たちは浮遊して見えなければならない。それを可能にしたのがトーシューズで、舞姫たちがパ・ド・ブーレで舞台を歩くと、床に足をつけていないように見えたという。とくにマリー・タリオーニは、ゴーチエによれば「天国の花の上を花びらをたわめることなく、バラ色のつまさきで歩く幸福な魂に似ている」とされ、ロマンチック・バレエの天上的性質を具現するダンサーであった。
一方、オーストリア生まれのファニー・エルスラーは地上的性質を体現した。彼女はスペインのカチューチャやポーランドの民族舞踊などを得意とし、ロマンチック・バレエの異国趣味に見合った踊り手であった。当時、観客はタリオーニ派とエルスラー派の二つに分かれて争ったといわれる。このほか、『ジゼル』を踊ったカルロッタ・グリジ、その夫ジュールス・ペロー、もう一人のファニーといわれたファニー・チェリートFanny Cerrito(1817―1909)、デンマークのルシール・グラーンLucile Grahn(1819―1907)らが活躍した。
ロマンチック・バレエ以後、ヨーロッパのバレエは衰退し、男性舞踊手は数少なくなり、現在残っているこの時代の作品は『コッペリア』(1870)、『シルビア』(1876)など多くない。一方、バレエの後進国であったロシアでは、プチパやチェケッティらを招待し、天才バレエ音楽作曲家チャイコフスキーの音楽を使って、プチパ振付けのグランド・バレエ『眠れる森の美女』(1890)、イワーノフ振付けの『くるみ割り人形』(1892)、プチパとイワーノフ共同振付けの『白鳥の湖』(1895)などを上演した。これら19世紀後半ロシアで完成された、幕と場数の多いストーリー性の濃い、スペクタクル様式のバレエを古典バレエとよぶようになった。
[市川 雅]
ロシアでは、19世紀末の蓄積に加えて、古い体質を改革しようとする意欲がみなぎっていた。ディアギレフはその中心的人物で、レーリッヒNikolai Konstantinovich Rerikh(1874―1947)、L・バクスト、ブノワAlexandre Benois(1870―1960)らの画家と雑誌『芸術の世界』を編集して、ロシアの美術・音楽をヨーロッパに紹介するとともに、1909年、パリでロシア・バレエ団(バレエ・リュス)を設立、デビュー公演を行った。音楽家としてプロコフィエフ、ストラビンスキー、振付家としてフォーキン、舞踊手としてニジンスキー、パブロワ、カルサビナらがこれに参加した。フォーキンはイサドラ・ダンカンの踊りに刺激されてバレエの変革を企て、主題に沿った表現形式を重視する立場をとった。ロシア・バレエ団の活動は2期に分けられるが、前期はバーバリズムとエキゾチシズムに特徴があった。『イーゴリ公』の「ダッタン(ポロビッツ)人の踊り」はスラブの野性を誇示する激しい跳躍からなる舞踊であり、ニジンスキー振付けの『春の祭典』も民間伝承の人身御供(ごくう)の儀式を扱い、観客に圧倒的な印象を与えた。フォーキン振付けの『シェヘラザード』は、エキゾチシズムの代表的作品であり、原色を使ったバクストの装置・衣装、東方への夢をかき立てるリムスキー・コルサコフの音楽、ルビンシテインIda Rubinstein(1885―1960)の官能的な肉体、そしてニジンスキーの演じる野獣のような金(きん)の奴隷など、きわめて魅力的な舞台であった。『火の鳥』『ペトルーシュカ』『バラの精』も、このころのフォーキンの代表作である。
ディアギレフは1910年代後半から、ロシア人だけでなく、パリに住む芸術家を登用するようになり、それとともにロシアの風土性から離れ、実験的な現代芸術へ接近していった。たとえば、マシーン振付けの『パラード』(1917)では音楽にサティ、美術にピカソを起用し、ピカソによるキュビスムの装置とタイプライターの音など具体音で構成されたサティの音楽は、観客のど肝を抜いたといわれる。ロシア・バレエ団は1929年、ディアギレフの死によって解散したが、その後半は、振付家としてバランチン、舞踊家としてリファール、ダニロワなどが活躍した。現在でもニューヨーク・シティ・バレエ団のレパートリーに入っている『放蕩(ほうとう)息子』(1929)は、バランチンの振付け、リファールの主役で初演されている。
[市川 雅]
イギリスでは、1931年、ド・バロアがビッグ・ウェルズ・バレエ団(現在のロイヤル・バレエ団)を創設し、当時のソ連から亡命したニコライ・セルゲーエフNikolay Sergeev(1876―1951)の助けを得て『ジゼル』『白鳥の湖』をレパートリーに加えた。それまでのイギリスのバレエは、エロティシズムを悪とするビクトリア王朝の道徳観のために宮廷の保護を失い、ミュージック・ホールで生き延びていた。ド・バロアはフォンティンをプリマ・バレリーナに使い、アシュトン振付けの『オンディーヌ』(1958)などを上演した。ド・バロアののち、ロイヤル・バレエ団の芸術監督はアシュトン、マクミラン、ダウエルAnthony Dowell(1943― )、ストレトンRoss Stretton(1952―2005)らが就任した。このほか、チューダーの『リラの園』(1936)などを初演したランベール・ダンス・カンパニー(当時はバレエ・ランベール)、ドーリンとマルコワが1950年に設立したイングリッシュ・ナショナル・バレエ団(当初はロンドン・フェスティバル・バレエ団)などが活動している。
デンマークでは、1748年発足のデンマーク王立バレエ団がロマンチック・バレエ時代の名振付家ブルノンビルの『ナポリ』(1842)などの遺産を引き継ぎ、じみながら現代のバレエに貢献している。『エチュード』(1952)をつくったランダーHarald Lander(1905―1971)、優れた男性舞踊手ブリューンEric Bruhn(1928―1986)らもデンマーク出身であり、ニューヨーク・シティ・バレエ団のマーチンスPeter Martins(1946― )、サンフランシスコ・バレエ団のトマソンHelgi Tomasson(1942― )など、とくに男性舞踊手に優秀な人材を出している。なお、スウェーデン王立バレエ団も18世紀以来の長い伝統を誇っている。
フランスでは、ディアギレフのロシア・バレエ団の解散後、残党組がモンテカルロ・ロシア・バレエ団(バレエ・リュス・ド・モンテカルロ)やバレエ・ド・クエバスなどを組織し、マシーン、リシンDavid Lichine(1910―1972)、フォーキンの作品などを上演し、舞踊手にはダニロワらが参加した。パリ・オペラ座は、スペシフツェワOlga Alexandrovna Spessivtseva(1895―1991)の踊る『ジゼル』などで長い間追放されていたリリシズムを復活し、1929年にはロシア・バレエ団に在籍していたリファールをバレエ・マスターに招いて再興を図った。リファールは『白の組曲』(1943)などを振付け、上演し、ダルソンバルLycette Darsonval(1912―1996)、ショビレらの舞踊手を育てた。リファールの後継者としてスキビーヌGeorge Skibine(1920―1981)、デコンビーMichel Descombey(1930―2011)が芸術監督になり、その後はヌレーエフ、デュポン、ルフェーブルBrigitte Lefèvre(1944― )と続く。オペラ座以外では、1944年シャンゼリゼ・バレエ団を結成し、1972年からマルセイユ・バレエ団を率いるローラン・プチが注目され、『カルメン』『コッペリア』『ノートル・ダム・ド・パリ』などエスプリのきいた作品には定評がある。
さらにもう一人の俊才は、1957年にパリでバレエ・シアター・ド・パリ、1960年からベルギーの王立二十世紀バレエ団、1987年からスイス、ローザンヌに移り、ベジャール・バレエ・ローザンヌを率いるベジャールである。彼はトータル・シアター(全体演劇)としてのバレエ作品に意欲を示し、『ロメオとジュリエット』『ニジンスキー・神の道化』『カブキ』などの演出に才気をみせた。
ドイツでは、バレエ後進国からの離脱を目ざしたが、20世紀になってからも注目されるようなものはなかった。むしろアメリカと並びモダン・ダンスの国で、1920年代から第二次世界大戦までノイエ・タンツ(新舞踊)の運動が活発であった。しかし、1961年にイギリス人クランコがシュトゥットガルト・バレエ団の芸術監督になって以後、世界の注目を集めるようになった。彼の作品には『オネーギン』『じゃじゃ馬馴(な)らし』などがある。彼の死後、ハイデMarcia Haydée(1939― )、アンダーソンReid Anderson(1949― )が同バレエ団を率いている。またハンブルク・バレエ団はアメリカ人の振付家J・ノイマイヤーが率いており、フランクフルト・バレエ団ではW・フォーサイスが革新的な作品を発表している。
なお現在ヨーロッパのバレエ界でもっとも注目されているオランダのネザーランド・ダンス・シアター(1955発足)の振付家J・キリアンはクランコ門下で、ベジャールを超える逸材ともいわれる。スピードのある展開を得意とし、『シンフォニー・イン・D』『結婚』などの作品がある。
[市川 雅]
革命期のロシアでは新しい試みがいくつかなされた。バランチンの師にあたるゴレイゾフスキーKasyan Goleizovsky(1892―1970)は曲技やボードビルなどの要素を取り入れ、より民衆的なバレエをつくろうとした。革命後は、ボリショイ・バレエ団のチホミーロフVasily Dmitrievich Tikhomirov(1876―1956)振付け『赤いけし』(1927)にみられるように、社会主義リアリズムに準拠した作品が多くなり、グランド・バレエの形式を借りた写実的な傾向が強まった。踊り手にも優れた人材を輩出し、とくにサンクト・ペテルブルグのマリンスキー劇場で教えていたワガーノワの門下から、ドジンスカヤ、ウラーノワなど叙情的なバレリーナが出た。社会主義リアリズムの代表作として、ワイノーネンVasily Ivanovich Vainonen(1901―1964)の『パリの焔(ほのお)』、ザハロフRostislav Vladimirovich Zakharov(1907―1984)の『バフチサライの泉』、ラブロフスキーLeonid Lavrovsky(1905―1967)の『ロメオとジュリエット』、グリゴロービチの『スパルタクス』などがある。第二次世界大戦後、何人かのダンサーが西側に亡命したが、なかでもヌレーエフ、マカロワNatalia Makarova(1940― )、バリシニコフの存在は大きい。ソ連崩壊後のロシアで活躍しているダンサーには、プリセツカヤ、コルパコワIrina Aleksandrovna Kolpakova(1933― )、マクシモワEkaterina Maximova(1939―2009)、ベスメルトノワNatalia Bessmertnova(1941―2008)、アナニアシビリNina Ananiashvili(1963― )、ウバーロフAndrei Uvarov(1971― )、I・ビャートキナらがいる。
[市川 雅]
アメリカのバレエの歴史は古くはないが、1930年代に入って急速に発展し、今日に至っている。大きく二つの流れがあり、一つは1939年設立のバレエ・シアター(のちアメリカン・バレエ・シアターと改称)で、チューダーの『リラの園』『火の柱』『暗い悲歌』、デミルの『フォール・リバー物語』、ロビンズの『ファンシー・フリー』などの意欲的な作品を上演した。1980年~1989年の芸術監督は旧ソ連(現、ラトビア)出身のバリシニコフで、『ドン・キホーテ』などの古典バレエだけでなく、モダン・ダンスのサープTwyla Tharp(1941― )の作品などを積極的にレパートリーに加えた。
一方ニューヨーク・シティ・バレエ団は、アメリカに渡ったバランチンがカーステーンLincoln Kirstein(1907―1996)と協力して1933年に設立したアメリカン・バレエ学校を母体にしている。この卒業生によるアメリカン・バレエ団、バレエ・キャラバン、バレエ・ソサエティーを経て、1948年に現在のバレエ団に発展した。作品はバランチンのものが大半で、『セレナーデ』『コンチェルト・バロッコ』など、新古典主義といわれるステップの組合せによる抽象的な作品が多かった。ロビンズはミュージカル『ウェスト・サイド物語』の振付けで有名だが、『檻(おり)』『結婚』『ダンス・アット・ギャザリング』などの作品をこのバレエ団で発表しており、意表をつく演出と民族舞踊やジャズの採用にも積極的であった。
総じて、現代のアメリカ、ヨーロッパのバレエでは、バレエとモダン・ダンスの質的な差異はほとんどなくなっている。たとえば、T・サープやK・アーミタージュはモダン・ダンス出身だがバレエともいえる作品を発表しており、ベジャールやJ・キリアンはバレエ・シューズを着けずに踊る作品をつくっている。ハンブルク・バレエ団のノイマイヤー、フランクフルト・バレエ団のフォーサイスもモダン・ダンス出身であり、フランスのマランMaguy Marin(1951― )はリヨン・バレエ団のために『シンデレラ』などを振り付けている。
[市川 雅]
日本のバレエの歴史は、チェケッティ・メソッドを継承するイタリア人G・V・ローシーが、1912年(大正1)新設まもない帝国劇場に招かれ、専属俳優にバレエの指導をした時に始まる。彼の弟子には石井漠(ばく)、高田雅夫(まさお)(1895―1929)、高田せい子らがいる。また、アメリカ帰りの高木徳子(とくこ)(1891―1919)が日本人として初めてトーダンスを踊り、珍しがられた。1920年代になると、名手アンナ・パブロワがバレエ団を率いて来日、とくに彼女の踊る『瀕死(ひんし)の白鳥』(フォーキン振付け)は絶賛を浴び、日本人にバレエの美しさを教えた。その後、亡命ロシア人のパブロワ姉妹(エリーナEliana Pavlova(1899―1941)・ナジェージダNadezhda Pavlova(?―1982))が鎌倉にスタジオを建て、その門下から服部智恵子(はっとりちえこ)、東(あずま)勇作、橘(たちばな)秋子、貝谷八百子(やおこ)、島田廣(ひろし)(1919―2013)らが輩出した。また、同じくロシア人サファイアOlga Sapphire(1912―1981)も1936年(昭和11)に来日して日劇で教え、松尾明美(あけみ)(1918―2013)、松山樹子(みきこ)らを育てた。
第二次世界大戦後、日本のバレエは本格的な開花期を迎え、早くも1946年(昭和21)には各バレエ団の合同により東京バレエ団が結成され、外国から帰った小牧正英(まさひで)の振付けで『白鳥の湖』が初演された。以後、小牧バレエ団、服部・島田バレエ団、谷桃子バレエ団、横山はるひバレエ団など多くのバレエ団が組織され、それぞれ独自の活動を続けた。また、外国のバレエの模倣や古典尊重だけでなく、オリジナルな作品をつくろうとする気運も高まり、関直人(なおと)(1929―2019)、横井茂(1930―2017)、高橋彪(ひょう)らの優れた振付家が生まれた。ダンサーでは、ブルガリアのバルナ国際舞踊コンクールで金賞を獲得した森下洋子が、アメリカン・バレエ・シアターに客演するなど国際的に活躍し、日本バレエの成長を世界に印象づけた。現在では、森下の所属する松山バレエ団のほか、牧阿佐美(あさみ)バレエ団、チャイコフスキー記念東京バレエ団などが精力的に活動している。
[市川 雅]
『蘆原英了著『バレエの基礎知識』(1950・創元社)』▽『G・ツァハリアス著、渡辺鴻訳『バレエ――形式と象徴』(1965・美術出版社)』▽『カースティンほか著、松本亮・森乾訳『クラシック・バレエ/基礎用語と技法』(1967・音楽之友社)』▽『F・レイナ著、小倉重夫訳『バレエの歴史』(1974・音楽之友社)』▽『O・ジョワイユ著、大津俊克訳『バレエの世界』(1980・ブックマン社)』▽『アンダソン、ジャック著、湯河京子訳『バレエとモダン・ダンス――その歴史』(1993・音楽之友社)』▽『野崎韶夫著『ロシア・バレエの黄金時代』(1993・新書館)』▽『市川雅著『ダンスの20世紀』(1995・新書館)』▽『薄井憲二著『バレエ――誕生から現代までの歴史』(1999・音楽之友社)』▽『村山久美子著、ユーラシア・ブックレット編集委員会企画・編『知られざるロシア・バレエ史』(2001・東洋出版)』▽『鈴木晶著『バレエへの招待』(2002・筑摩書房)』▽『鈴木晶著『バレエ誕生』(2002・新書館)』▽『M・F・クリストゥ著、佐藤俊子訳『バレエの歴史』(白水社・文庫クセジュ)』
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…強い不安・恐怖感を伴う精神病状態のときにも,しばしば出現する。(3)青空に湧きあがった入道雲の一部がどうしても人間の顔に見えてしまうなどのパレイドリア。実際にはそうでないという批判力がありながら対象とは異なって知覚され,情動や連想とは無関係に,いったんそう見えてしまうと意志に反して現れつづける変形した知覚である。…
…小人がたくさん出てくる小人島幻覚も出現し,うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかってくるような幻覚では,幻触を伴うことがある。譫妄は一般に夜起きやすく(夜間譫妄),昼間は消失する傾向にあるが,昼間でも目をつぶった患者の両眼を軽く圧迫しながら暗示を与えると幻覚が起きるリープマン現象Liepmann’s symptom,しみなどの無意味な図形が人の顔などに相貌化して見えてしまうパレイドリアのような症状がみられる。症状が重くなると,アメンチアから昏睡に至る。…
※「バレエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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