フランスの詩人、批評家、思想家。10月30日、南仏の港町セートの税関検査官次男として生まれる。母はイタリア人。早熟多感な文学少年で、ユゴー、ボードレール、高踏派などの影響下に13歳のころから詩を書き始める。18、9歳のころマラルメとランボーの詩業を知って衝撃を受け、同じころ街角でみかけた年上の女性への恋情と入り混じり、詩作活動への絶望感と空転する感情が増幅しあい、1892年ごろ内的危機に陥る。「内部の弱さ」「跳梁(ちょうりょう)する情動」「倨傲(きょごう)に構える意識」の三つどもえの戦いに対し、自分を苦しめる想念も衝動も同等の心的現象とみなし、そのメカニスムを解明して、自己を透明で剛直な存在に仕立てあげることで危機からの脱出を図る。さらにいっさいが可能で創造の行為を必要としない境地を目ざすに至る。
[清水 徹 2015年6月17日]
この「知的クーデター」ののち、1894年パリに定住してから、自己の心的現象を数学的方法で分類し解明する目的で覚え書きをつけ始める。これが生涯書き続けられた『カイエ』(全261冊、約3万ページ)である。また、自ら設定した理想像をめぐり『レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説』(1895)、小説『テスト氏との一夜』(1896)を書く。生活の必要から陸軍省に勤め、マラルメらと親交をもつが、文学制作からは遠のく。1900年結婚後は個人秘書として生計をたて、思索に専念した。この時期『カイエ』の主題は「心的なもの」と「身体的なもの」の相互関係測定に絞られ、1910年には「ある成熟に達した」と書かれる。たまたま旧友ジッドから旧詩の刊行を求められ、それを契機として詩をふたたび書き出す。第一次世界大戦と終末の予感への内的抵抗として制作と推敲(すいこう)が続けられ、長詩『若きパルク』(1917)に結晶する。この作で一躍注目を浴び、その後、ラシーヌからマラルメに至る古典から近代の作詩法を縦横に操るいわばマニエリスト的姿勢で多くの詩作を発表、これらは詩集『魅惑』(1922)に集成され、大詩人の名声を確立した。
1920年、11歳年下の才女カトリーヌ・ポッジィCatherine Pozzi(1882―1934)と知り合い、たちまち陶酔的性愛の関係を結ぶ。青春期に抑圧されたエロス的要素が、思索の成熟と詩的言語創造の過程を経て回帰しつつあったこの時期の愛の経験は、精神とエロスの全的交流、融合という至高の状態を彼にかいまみさせた。この愛は、たちまち、知的・官能的熱中に不安や苦悩が交互する形に変わり、二人を苦しめつつ8年ほど続いた。このときの感情の激動と苦悶(くもん)への抵抗として対話編『エウパリノス』(1921)、『魂と舞踏』(1922)が書かれる。こうして、危機を自己分析と作品制作によって乗り越えながら、身体性を基盤とする精神とエロスの一体化を愛の経験で掘り下げ、自己の全的完成を図る方法論が設定された。以後、内的危機とその乗り超えの主題は、1931~1932年のルネ・ボーチエRenée Vautier(1898―1991)、1938~1944年のジャンヌ・ロビトンJeanne Loviton(1903―1996)との愛と挫折(ざせつ)を通じて深められ、対話編『固定観念』(1932)などが生まれる。
[清水 徹 2015年6月17日]
1922年以後文筆生活に専心したバレリーは、注文に応じて文学、芸術、哲学、政治など諸分野の批評活動を展開。分析的で、ややペダンチックな文体による明晰(めいせき)な評論は高く評価され、その業績は『バリエテ』全5巻(1924~1944)、『芸術論集』(1931)、『現代世界の考察』(1931、増補版1945)などにまとめられている。1925年アカデミー・フランセーズ会員に選ばれ、フランスの英知を代表してヨーロッパ各地で講演活動を行う。さまざまな文化団体を主宰し、1933~1937年国際連盟の国際知的協力委員会の中心人物として活躍。1937年にコレージュ・ド・フランス教授に選ばれ、詩学講座を没年まで担当した。第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とほぼ同じ時期のジャンヌ・ロビトンとの愛は『わがファウスト』制作を計画させたが、失恋と病のため未完に終わり、「魂の未知の神秘の部屋」を語る試みは多くの断章として残された。1945年7月20日パリで死去。国葬をもって遇せられ、故郷セートの「海辺の墓地」に葬られた。ここには市立のバレリー博物館がある。
[清水 徹 2015年6月17日]
『佐藤正彰他訳『ヴァレリー全集』14巻『カイエ編』九巻(1967~1983・筑摩書房)』▽『マルセル・レイモン著、佐々木明訳『ポール・ヴァレリー・精神の誘惑』(1976・筑摩書房)』
フランスの詩人,批評家,思想家。南フランスの港町セートに生まれる。詩を書く早熟多感な少年だったが,18~19歳のころマラルメとランボーの詩からうけた絶望的衝撃と,ある年上の女性に対する一方的恋情の結果,内的危機に陥る。恋愛すら心的現象とみなしそのいっさいを数学的に管理することで自己を透明で剛直な存在へと仕立てあげ危機から脱出しようと決意。1894年以後パリに定住し心的現象の観察と分析のため覚書を取り始める(これは生涯つづけられ,彼の最高の作品とも見なしうる3万ページもの《カイエCahiers》となる)。また自己の理想像をめぐって《レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説》(1895),小説《テスト氏との一夜La soirée avec Monsieur Teste》(1896)を書くが,しだいに文学から遠ざかり自分だけのための思索にふける。
ふとした偶然から詩作を再開,4年間の営為から生まれた長詩《若きパルクLa jeune Parque》(1917)はマラルメの流れを汲む象徴詩の一極致とみなされ,一躍名声を獲得。詩集《魅惑》(1922),対話編《エウパリノス》(1921),《固定観念》(1932)などを次々と発表し,1925年アカデミー会員に選ばれ,あたかもフランスの公的な知的代表のようにしてヨーロッパ各地で講演を行う。《バリエテVariété》5巻(1924-44)ほかにまとめられた批評は,意識的文学制作論の主張,詩のメカニスムの分析,絵画論,ヨーロッパの未来を憂える文明批評など多岐にわたるが,明晰典雅な文体による厳密な思考の表現として,20世紀前半の批評文学の金字塔とみなされる。しかし知性の詩人という名声と裏腹に1920年ごろ深刻な恋愛を経験,それ以後は若き日の決意とは変わって精神とエロスの一体化を掘り下げ自己を全的に成就することを内的課題とする。これは最晩年の恋愛経験でさらに深められ,戯曲《わがファウスト》で追究されるが未完に終わる(1945刊,62上演)。地中海の知的詩人という生前の評価は《カイエ》の写真版刊行(1957-61)以後大きく変わり,人間の全的な探索を目ざした思想家として巨大な姿を現しつつある。
執筆者:清水 徹
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… 19世紀後半のリアリズムの時代になると,主として社会的テーマを身近なもの,地方的なものに即して描く,風俗描写的な〈郷土小説〉が数々の佳作を生むことになる。このジャンルの嚆矢となったフェルナン・カバリェロFernán Caballero(1796‐1877)の《かもめ》,P.A.deアラルコンの《三角帽子》,そしてアンダルシアを舞台に,恋と宗教的使命の板ばさみとなった神学生の心の葛藤を描いたJ.バレーラの《ペピータ・ヒメネス》などである。この傾向に属するものの,はるかにスケールが大きく,セルバンテスに次ぐ小説家と見なされているのがB.ペレス・ガルドスである。…
※「バレリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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