共同通信ニュース用語解説 「バーレーン」の解説
バーレーン
ペルシャ湾の島国で人口約164万人(2019年推定)。王族を含む人口の4割がイスラム教スンニ派で6割がシーア派。首都マナマに米海軍第5艦隊の司令部がある。スンニ派の大国サウジアラビアが後ろ盾で、16年にイランと断交。19年8月には、ホルムズ海峡などの安全確保を目的とする米主導の有志連合に参加を表明した。(カイロ共同)
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ペルシャ湾の島国で人口約164万人(2019年推定)。王族を含む人口の4割がイスラム教スンニ派で6割がシーア派。首都マナマに米海軍第5艦隊の司令部がある。スンニ派の大国サウジアラビアが後ろ盾で、16年にイランと断交。19年8月には、ホルムズ海峡などの安全確保を目的とする米主導の有志連合に参加を表明した。(カイロ共同)
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西アジア、ペルシア湾西岸のバーレーン島を中心とする大小30余りの島々からなる王国。面積は741平方キロメートル。人口74万3000(2006推計)。国名は「二つの海」を意味している。「バハレーン」あるいは「バフレーン」とする表記のほうがアラビア語には忠実である。バーレーン島は、サウジアラビアの東の沖合い約24キロメートルに位置し、南北約50キロメートル、東西の最大幅20キロメートルの島で、北東端に首都のマナーマがある。この島の東に国際空港のあるムハッラク島と石油製品の積出し港のあるシトラ島がある。3島は架橋によって結ばれている。気候は、砂漠地帯特有の酷暑を伴う夏が5月から10月まで続き、真夏の気温は40℃を超え、湿度は85%以上に達する。12~3月の冬は平均気温が20℃前後でしのぎやすい。年平均気温は26.5℃、年降水量は81ミリメートルである。
[高橋和夫]
遺跡の発掘調査によって古くからメソポタミアとインドを結ぶ中継貿易の重要な拠点であったことが知られてきた。聖書に記述のあるエデンの園はバーレーンであったという主張も一部ではなされている。その後ペルシア帝国の勢力圏に入るなどの経緯があって8世紀にはイスラム化した。16世紀に入るとポルトガル人がペルシア湾に姿を現すようになり、約1世紀にわたってバーレーンを支配した。
1602年にペルシアのサファビー朝のアッバース1世(大王)がポルトガル人を追放して新しい支配者となった。これが後にイランがバーレーンへの領有権を主張する根拠となった。しかしペルシア人の支配は、1783年にアラビア半島からやってきたハリーファ家に率いられたウトゥーブ部族にとってかわられ、今日まで続くハリーファ家のバーレーン支配が始まった。その後ペルシア湾の覇者となったイギリスが、19世紀末にバーレーンを保護領とした。そして1971年にイギリスの撤退によって独立国となった。
[高橋和夫]
憲法や議会をもち、いちおうは立憲君主制の体裁をとっていたが、1975年に議会は解散され、その後はハリーファ家の専制政治が続いた。しかし、1999年3月にハマド・ハリーファが首長につくと、二院制議会の設置、女性の参政権などの民主化推進を約束した。2002年2月には憲法を改正、首長制を廃止し、王制に移行、首長のハマドは国王となった。さらに同年10月、29年ぶりに国会議員選挙が行われた。国民議会は上院にあたる諮問院と下院で構成される。諮問院の議員定数は40で国王が任命、下院は議員定数40で直接選挙により選出される。任期は4年。外交は、アメリカ、イギリス、サウジアラビアとの協調が基本であり、1981年に発足したペルシア湾岸の君主国家のグループである湾岸協力会議(GCC)の創設メンバーでもある。また1980年代にサウジアラビアとバーレーンを結ぶ全長25キロメートルの架橋が完成して両国の関係はいっそう密接になった。
1990~1991年の湾岸危機・戦争ではアメリカ軍を中心とする多国籍軍に参加した。また基地や施設を提供して大きな役割を果たした。対外問題としてはGCCのメンバーであるカタールと領土紛争を抱えていたが、2001年3月国際司法裁判所の判決を受けて決着した。2007年の国防予算は5億3900万ドル、兵役は志願制で総兵力は8200。陸軍6000、海軍700、空軍1500となっている。
かつては北部におけるオアシスの水を利用したナツメヤシ栽培などの農業および漁業、天然真珠採取などが伝統的な産業であった。しかし1930年代に日本製の養殖真珠が出回るようになるとバーレーンをはじめとするペルシア湾の真珠産業は壊滅的な打撃を受けた。さらに当時の世界恐慌による需要の低下がこれに追い討ちをかけた。かわってバーレーン経済を支えたのが石油であった。1932年にアラビア半島諸国では初めての石油生産が始まった。しかしその資源は枯渇しつつあり、石油生産は1970年代には低下を始めた。バーレーンは脱石油を目ざして石油化学やアルミ精錬の分野へと産業の多様化を進めてきた。金融業にも力を入れ、一時は中東の金融センターへ成長するのではないかという期待がかけられた。しかし、石油価格の低下によるオイル・マネーの減少、近隣国アラブ首長国連邦のドバイの発展、そして伝統的に中東の金融センターであったベイルートの復興などの不利な要因が重なり合い、将来を楽観できないのが現状である。
2008年の国内総生産(GDP)は約210億ドル(IMF推計)、1人当りGDPは2万7247ドル、経済成長率は6.3%である。貿易額(IMF推計)は輸出191億7000万ドル、輸入156億4000万ドル。おもな輸出品目(2004)は石油、アルミニウム製品、石油化学製品、衣料品、おもな輸入品目は精製用原油、自動車、電気製品、機械・輸送機器、アルミナである。
日本への輸出は石油、アルミニウム製品など約429億円、日本からの輸入は自動車、機械製品など約968億円で、バーレーンの輸入超過になっている。
もともとの住民の大半はアラブ人であるが、インド、パキスタン、イランなどからの外国人労働者も多く働いている。総人口の3分の1程度は外国人である。公用語はアラビア語。人口の大半はイスラム教徒であり、その多数派はシーア派である。ハリーファ家などの支配層はスンニー派に属しており、支配・被支配の関係が宗派で規定されたかたちになっている。
人口の急増、経済の停滞などの要因によって若年層の失業が重大な社会問題となっている。そうした状況を背景に湾岸戦争後には散発的ながら暴動や爆破事件が続いている。
教育制度は小学校6年(義務教育)、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、その上に大学(4年)、職業訓練専門学校(2年)がある。大学は国立のバーレーン大学、湾岸協力会議諸国管轄のアラビアン・ガルフ大学がある。
[高橋和夫]
『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ193 バハレーン・カタル』(1979)』▽『チャールズ・D・ベルグレイヴ著、二海志摩訳『ペルシア湾の真珠――近代バーレーンの人と文化』(2006・雄山閣)』
基本情報
正式名称=バーレーン王国al-Mamlaka al-Baḥrayn/Kingdom of Bahrain
面積=758km2
人口(2010)=81万人
首都=マナーマal-Manāma(日本との時差=-5時間)
主要言語=アラビア語
通貨=バーレーン・ディーナールBahrain Dīnār
ペルシア湾のアラビア半島側に接する大小約33の島からなる国家。首都はマナーマ。アラビア語ではバフラインal-Baḥrayn(〈二つの海〉)とよぶ。またバハレーンとも表記される。
中心は面積578km2のバーレーン島で,国際空港のあるムハッラク島と石油積出港のあるシトラSitrah島とは連絡橋で結ばれている。総面積は694km2で,日本の淡路島とほぼ同じである。全体が石灰岩質の島で植生が少ないが,北部は良質の水に恵まれており,若干の農業も営まれている。
5000年前からディルムンとよばれる古代国家があり,メソポタミアとインダス文明の中継貿易で繁栄していたことが知られており,首都マナーマ付近で古代海港都市の遺跡が発掘されている。現存する最古の住民は,前6世紀のネブカドネザル2世時代に,イラクから来たアラブであるといわれる。1521年から1602年まではポルトガル人によって占領されたが,その後イランのサファビー朝の支配下にはいり,さらに1783年にはアラビア半島から来たウトゥブ族が再びアラブの支配権を取り戻し,以後ハリーファal-Khalī fa家の支配が今日まで続いている。ハリーファ家はスンナ派だが,現在ではシーア派が75%を占めている。1996年時点の推計で総人口は約59万人,そのうち63%がバーレーン人である。バーレーンは古代から貿易の要地であるのみならず,真珠採取や漁業の適地でもあり,良質の水も出るところから,つねに周辺のイラン,トルコ,オマーン,ワッハーブ派等による領有権の主張や侵攻の脅威にさらされてきたが,1861年には,イギリスがペルシア湾一帯の支配権確立のために湾岸アラブ諸部族と結んだ1820年の一般条約に参加することによって,イギリスとの関係を深めた。さらに80年と92年にはイギリスの同意なしには他国と外交関係を結んだり領土割譲をしたりしないという条約を結んで,事実上その保護下にはいった。1968年のイギリスの湾岸からの撤退の公表とともに,湾岸諸首長国による連邦結成協定が成立,バーレーンも当初その連邦に参加する予定であったが,イランがバーレーンに対する領有権を主張したこと,バーレーンが連邦議員の公選制を主張したことなどにより,結局単独で国家をつくる道を選び,1971年に独立を宣言した。なおイランの領有権の主張は,1970年の国連安保理事会による住民の意思調査に基づく決定によって放棄された。
1972年公選議員による制憲議会が召集され,73年の憲法公布をへて,同年12月には公選議員30名と閣僚とによって構成される国民議会が成立した。首長はシャイフ・イーサー・ブン・スルマーン・アルハリーファShaykh `Īsā b.Sulmān al-Khalī faで,首相はシャイフ・ハリーファ・ブン・スルマーン・アルハリーファShaykh Khalī fa b.Sulmān al-Khalī faでいずれもハリーファ家が占めている。バーレーンの近代化は,第1次世界大戦後,教育の普及,真珠産業の改善,石油開発等を軸にして進められ,1930年代以降労働運動や民族主義運動も盛んになり,貿易の中継地という開放性もあって,国民の政治意識も一般に高い。公選議会政治はこのような事情のもとに成立したのだが,労働組合の結成やインフレーションによる生活費の高騰をめぐって急進的な若手議員と政府とが対立し,75年首相は辞任,イーサー首長は首相に再組閣を命ずるとともに首長令をもって国民議会を解散して今日に及んでいる。
1992年のクウェートでの国民議会再開をうけ,民主化要求運動が発生し,シーア派住民による権利要求運動や失業の増加による社会不安が重なり,94年からは断続的な騒乱状態が続いている。1993年に首長が議会にかわる諮問評議会を開設するが収まっていない。
バーレーンは石油が発見されたペルシア湾岸で最初の国である。1932年,カリフォルニア・スタンダード会社とテキサコ会社共有のバーレーン石油会社(1978国有化)によって石油生産が開始され,日本の養殖真珠によって打撃を受けた真珠産業に代わって経済の中心となったが,原油の埋蔵量に限界があって生産量も漸減の傾向にある。そのため石油精製事業に力を入れ,現在その原油の大半はサウジアラビアから輸入されている。また製鉄,アルミ製錬などは輸出産業になっている。バーレーンは早くから交通網と通信網の整備に努めてきたことが奏功し,内乱で機能を停止したベイルートに代わって中東の商業金融のセンターになった。なかでも産油諸国の莫大な石油収入の運用を基盤としたオフショア金融の発展は目ざましく,バーレーンは外国人の自由な金融活動の場となっている。1996年現在,これに携わるオフショア・バンキング・ユニットは100を超え,東アジアにおけるシンガポールに比肩されている。日本はバーレーンからアルミニウム,重油,揮発油を輸入し,工業製品を輸出している。問題点としては若年層の失業があり,社会不安の原因になっている。
執筆者:冨岡 倍雄
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(大迫秀樹 フリー編集者 / 2011年)
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