翻訳|Hellenism
ヘレニズムという語は一般に2通りの意味で用いられている。一つは19世紀イギリスの詩人・文明批評家M.アーノルドが《教養と無秩序》において,ヨーロッパ文化の根底を成した精神的伝統の一つとして,ヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教思想の源泉)と対置させた場合のヘレニズムで,以来広く〈ギリシア文化一般の本質にかかわる精神的基盤〉の意味に用いられる。いま一つは同じく19世紀ドイツの歴史家J.G.ドロイゼンが《ヘレニズム史》において創唱した歴史学上の時代概念としての〈ヘレニズム〉で,従来ギリシア史の長い衰亡期,ギリシア文化の質的劣悪化の時期,ローマ帝国成立までのつなぎの時代とみられてきたアレクサンドロス大王以後約300年の時代と文化は,彼以後ヘレニズム(ギリシア風文化)の名によってその固有の世界史的位置づけが確立した。ここでは後者の意味での〈ヘレニズム〉について述べる。
しかしこの時代概念としてのヘレニズムの枠組みは諸説一定せず,年代的にはアレクサンドロスの東征進発(前334),または大王の即位(前336)ないし没年(前323)に始まり,ローマによるプトレマイオス王国征服(前30)に至る3世紀間とするのが通説だが,マケドニア王国の勃興と同時代のポリス世界の変質に注目して,前360年以降をヘレニズム時代とする有力な見方(H. ベングトゾン)もある。また〈ヘレニズム世界〉といわれる場合の地域範囲としては,一般にギリシア本土,マケドニア以東アレクサンドロス帝国に包含された東方領域全体が対象となるが,一方ではギリシア文化の拡散普及に力点を置いて,カルタゴ,イタリアなど西地中海周辺地域をもこれに含める見解(U. ウィルケン)もある。いずれにしても文化史的概念としてのヘレニズムと,政治史を軸に規定された時代概念としてのヘレニズムとを整合させることには本来無理があるといわなくてはならない。
アレクサンドロス大王の死後約40年に及んだ〈後継者戦争〉の過程で,エジプトにはプトレマイオス家,小アジア以東イラン東北辺境にいたる広大な東方領にはセレウコス家の王朝支配が,それぞれ前4世紀末までには確立した。とくに権力争奪が激しかったマケドニア本国では,ケルト人の侵攻も加わって安定が遅れ,前277年になってアンティゴノス朝が確立した。
プトレマイオス王国はファラオ時代以来の中央集権的な官僚制をさらに整備し,生産流通交易の国家統制を強化して,初期3代のプトレマイオス1世から同3世の治世に最も安定した繁栄期を現出した。当時首都アレクサンドレイア(アレクサンドリア)は世界交易と学芸文化の大中心地として栄華を誇ったが,前3世紀末以降王権の弛緩とともに土着勢力や農民の反抗気運が高まった。対外的には海上支配を追求し,またシリア王国とは国境紛争を繰り返したが,ローマとは友好関係を維持して諸王国中で最も長く独立を保った。
シリア王国ではセレウコス朝諸王が,多民族構成の広大な領域を,属州方式と都市建設によって有機的に統合しようとしたが成功せず,前3世紀半ばには東方辺境の植民ギリシア人がバクトリア王国を独立させ,同じ頃イラン系のパルティア人(パルティア)も自立して,王国の東方領域は急速に失われた。また小アジア西部ではアッタロス家のペルガモン王国が成立し,ユダヤ人も前2世紀半ばのマカベア戦争で独立して,支配範囲はさらに縮小した。前2世紀以降は異民族支配の矛盾に加え王家内部のお家騒動が頻発して,王国の衰滅が早まった。
またマケドニア本国を領して,クレモニデス戦争勝利以来ギリシア諸国にも強い影響力を行使したマケドニア王国は,前3世紀末からローマの東方進出が始まると,これに正面から直接対峙する最初の防波堤となった。しかし強国の外圧を東西から受けるペルガモン王国は,その安全をローマの支援に求めることが多く,ギリシア世界でもアイトリア,アカイア両同盟の対立抗争がしばしばローマ側に軍事介入の好機を与えたため,マケドニア王国の立場はしだいに苦境に追い込まれた。第3次マケドニア戦争の結果ローマに敗北した王国は4自治区に解体され,次いでギリシアとともに属州の地位に転落した(前146)。
一方ローマ進攻期のエジプト,シリアは両王国とも王権の弱体化と王家の内紛によって自壊の傾向を強めており,ローマの東地中海進出に対しては共同してこれを阻止するだけの実力も意志も既になかった。前133年以来王の遺贈によってローマの属州となった旧ペルガモン王国領は,ローマ人高利貸資本家の過酷な収奪対象と化し,これに反抗したポントス王ミトリダテス6世の民族的抵抗戦争(前88-前63)は,ローマの東方進出にとって最大最後の障害となった。シリア王国はその後ポンペイウスの手で解体され(前64),クレオパトラ7世がアントニウスと結んで再建を図ったプトレマイオス王国も,カエサルの攻撃によって滅び(前30),こうしてヘレニズム世界はローマの支配下に編入された。
ヘレニズム3王国のうち東方に成立したプトレマイオス家のエジプトとセレウコス家のシリアについて,この両王国に共通するのは,統治がマケドニア王国の場合と違って,本来国民的な基盤をもたない外国人の征服王朝による支配だった点である。東西の支配的民族の融合と統治における両者の協力とを目ざしたアレクサンドロス大王の帝国構想は,エジプトではたぶん最初から放棄され,シリア王国の場合には継承・放棄の両説が分かれるが,いずれにせよ王国の行・財政や軍事面に中心的な役割を果たしたのは,やはり概してマケドニア・ギリシア系の特権的な支配層だったであろう。
マケドニア王国やギリシア本土では伝統的な土地私有制が前代からそのまま引き継がれたが,エジプトでは支配者が〈槍で獲得した土地〉のたてまえから,その国土全体が原則として王の所有とされた。古来の特権的な大神殿領も例外ではなく,王権の管理の下に納税の義務を課せられている。王領地農民は身分上は自由とされたが,小作契約は誓約によって一方的に不利を強いられ,厳しい生産管理や賦役に服するなど,その地位は隷属民と異ならなかった。植物油,パピルスなど王国の重要な財源となる産物は,その生産流通に完全な国家独占の規制が加えられた。外国人王朝の東方人〈臣民〉に対するこうした支配と収奪とは,やがてヘレニズム時代後半期になって王権がしだいに弱体化すると,抑圧された農民や土着勢力の側に民族的色彩を帯びた広範な反抗を呼び起こすようになる。エジプトでは前3世紀末以降,民族差別を緩和する政策姿勢がようやく現れ,〈徳政令(フィラントロパ)〉もしばしば発布されるようになるが,それらも農民の集団的逃散や一揆の頻発,大神殿神官層の反王朝的な動きを抑えることはできなかった。シリア王国でもパルティア勢力の急速な拡大を可能にした背景として,イラン人のセレウコス朝支配に対する強い民族的反発があったことは否めない。
プトレマイオス家とセレウコス家は,いずれもその支配に伝統と正統性を欠いた征服王朝だったので,新王朝の権力を補強しその正統性を創出する政治的必要から,在位中の支配者の神格化とその制度的な祭祀,いわゆる君主礼拝制を公式に採用した。直接にはアレクサンドロス大王の神格化を契機とし,おそらくギリシア諸都市側からの迎合追従に始まったこの制度は,エジプトではプトレマイオス2世の時代に(前270),またセレウコス朝では遅れて前2世紀初めアンティオコス3世のときに本格的に成立し,のちローマ皇帝崇拝に道を開くことになった。ただしマケドニアとペルガモンの両王国ではこの制度は行われていない。
ヘレニズム時代は都市文明の時代であった。農村は輸出向け,内需用の農作物生産を通じて都市文明の繁栄を犠牲的に支える土台となった。しかもその都市文明の光は概して都市領域にとどまって後背地農村部にまでは及ばず,おおかたの農村は慢性的な窮乏のなかに閉ざされて古い固有の生活習俗や信仰,土着の言語を守り続けた。都市の繁栄と農村の衰微とは明暗の鋭いコントラストをなしてヘレニズム期の一つの時代的特徴を示している。
ヘレニズム都市文明の拡大は,その数の点では主としてセレウコス朝初期2代の王の積極的な都市建設によって推進された。セレウコス1世19市,アンティオコス1世16市,両王のどちらかによって7市という数が推定されており,その分布範囲は小アジアからイラン東北辺境にまで及んでいる(V. チェリコバ)。セレウケイア(セレウキア),ラオディケイア(ラオディケア)など王朝君主や王妃の威信をその名称に伝えるこれらの建設都市は,その規模も建設理由もまちまちだが,概して通商交易上ないし軍事上の要地にあたり,地域行政や入植屯田の便に資するように意図されたのであろう。新都市に来住した市民は納税の義務を負ったが,原則としては自治を認められ王領地を追加賜与されるなどして,そうした特典といわば引換えに統治の支柱となることが期待された。ちなみに中央集権的なエジプトでは首都を除けば都市建設は行われず,新都市はほとんどプトレマイス1市だけにとどまった。
一方,王権と在来のギリシア都市との間には当時一種の相互補完的な持ちつ持たれつの関係が成立している。たとえば初期のエジプト王国では,王国行政に必須の官僚層をはじめ軍事力の中心となる傭兵にしても,国内産業振興に必要な手工業職人にしても,求められるのはもっぱらギリシア人だったので,そうした人材確保の窓口としてギリシア都市は不可欠だった。のみならず穀物など国内生産物の市場もまた主としてギリシア都市だったから,都市との友好維持は王国外交のとるべき基本路線となった。しかし都市の側でも国際緊張のなかで存立を全うするための安全保障の方途は,多くこれを有力な王権の庇護に求めるほかなかった。王は都市側の好意を求めてその自由・自治を約し,都市側もまた王に黄金冠を贈り,その神格化を決議するなどして王のきげんを取り結ぶといった関係がこうして成立したのである。
ヘレニズム都市の繁栄は基本的には通商交易の世界規模に及ぶ活発化に支えられていた。アレクサンドロスがペルシア帝国征服後,その莫大な接収貴金属地金類を貨幣として大量に流通過程にのせた結果,ヘレニズム初期は全般的に著しい経済好況の時代となった。しかも帝国通貨の品位をアッティカ基準に統一した大王の通貨政策は,エジプト国内を除き諸国にも広く継承された結果,ヘレニズム時代の貨幣経済は国際的な広がりをもつ統一的な流通経済圏を成立させることになった。通商交易の範囲は狭義のヘレニズム世界を越えて広がり,エーゲ海,東地中海とその周辺地域を中心に,東はインド以遠,西はカルタゴ,イタリア,北は黒海周辺地域に及んだ。南海経由のインド交易航路開発にはエジプト,シリア両王国が競り合い,1世紀余にわたった南シリア争奪戦にも東方交易路をめぐる両国の利害が深くからんでいた。世界商業の拠点として当時栄えた都市には,エジプトのアレクサンドレイア,オロンテス河畔のアンティオケイア(アンティオキア),ペルガモンの3王国首都をはじめ,ティグリス河口のセレウケイア,エーゲ海域の島市ロドス,デロス,小アジア西岸のエフェソスなどが挙げられる。
東方諸都市のこうした繁栄に比べると,ギリシア本土の在来の諸都市は,唯一通商拠点として栄えたコリントスを除けば,一般に沈滞傾向を免れなかった。それどころか,当時のギリシア本土各地は利害の対立する諸王国,なかでもマケドニアの干渉圧力の下で,政治的にも無力で不安定な状況にあった。本土諸都市としては,自己保全の道を王権の庇護に仰ぐにせよ,相互の連帯強化に求めるにせよ,伝統的な〈ポリス自治〉のたてまえを厳密に堅持することはもはや不可能な時代だった。当時若干の都市が試みた相互連帯のやり方には,市民権の互換共有(イソポリテイア)とか,市民権の合体一本化(シュンポリテイア)の方式があった。前3~前2世紀にはこうした連帯の動きを踏まえて,より大きな連邦組織(コイノン)が成立した。中部ギリシアのアイトリア同盟とペロポネソスに成立したアカイア同盟がそれで,いずれも加盟各国の自治原則と集団安全保障の現実的必要とをなんとか調和妥協させようとする,ギリシア人の新たな政治的実験であった。
東方3王国の首都はいずれも世界商業の市場中継地として国際都市の繁華を誇っただけではなく,王城の地としても一国の富強をその広壮の美に誇示した。王宮は同時に行政府としてつねに外国使臣や内外の高官に満ち,王朝の式典遊楽に競われる廷臣たちの華美は,市民風俗流行の先駆けとなった。学芸奨励もまた王権の飾りとなった。各地の学者文人は,たとえばアレクサンドレイアの王宮や王宮に付設されたムセイオン,大図書館(アレクサンドリア図書館)に集まって研究や芸術を大成させ,そうした学芸保護の風はポントスのような辺境小王国の都にも広まった。
王権の顔としての首都がその規模・美観を誇っただけでなく,一般の中小都市でも市民生活の環境はこの時代に目だって改善された。新建設都市は概して矩形の市域に直交する道路網を配した〈ヒッポダモス方式〉の都市計画によって造られ,街灯が夜の舗装道路を明るくし,上下水道の設備が健康で衛生的な生活の場を提供するようになった。ヘレニズム前半期の経済好況は都市民衆のレベルでもその生活水準を前代に比べてかなり向上させた。小都市プリエネやデロスの遺跡にみるように,庶民の住居でも床モザイクを張った小部屋に量産工芸品のタナグラ人形を飾って生活を楽しむささやかなゆとりが生じた時代であった。
ヘレニズム都市文明のこうした様相は,ギリシア人が移住植民によって拡散するにつれ,広範囲にしかも一様性をもって広まった。その一様性は都市の施設外観だけでなく市民生活の内実にも及んでいる。植民都市の多くはもともと出身地も出身階層も違う入植ギリシア人たちの混成社会だったが,彼らは現地住民に対しては自治都市の運営維持にあたる指導層として,結束した特権グループを構成した。入植者はふつう男だけだったから時とともに混血が進んだが,それでも彼らは自分たちをギリシア系住民として,まったくの土着民とは区別した。お仕着せの自治の下で政治離れの傾向を強めた都市市民は,昔の政治集会の代りにさまざまの社交クラブや講,職業別の親睦団体に寄り合って市民団のまとまりを図った。なかでも教育機関であるギュムナシオン(体育館)への入会資格はギリシア系市民だけに限定され,そこの出身者のクラブは市政に格別の重きをなした。
こうしたヘレニズム諸都市では,人気が下り坂のオリュンポス諸神崇拝に代わって東方系の神々がより強く人心をとらえ,概して神信仰の多様化傾向がみられた。同時に他方では多様な神々の上位に普遍的な統合神格を求める諸神混融(シンクレティズム)の傾向も強まり,エジプト古来のイシス女神や遅れて創始されたセラピス神などの崇拝は,とりわけ密儀を通じ現世の救済と死後の永生を保証する神としてヘレニズム世界各地に広まった。こうした諸神格の混融は各地で起こり,イラン東部バクトリア王国の都市遺跡アイ・ハヌムからはギリシア化された東方系の女神像を拝火壇といっしょに表現した図柄の遺物も出土している。
ギリシア文化はマケドニア・ギリシア人の植民移住を通じ共通の言語(コイネー・ギリシア語)に媒介されて広範囲に普及し,東方各地の土着文化とも接触する過程で国際的なヘレニズム文化をつくり上げた。しかしその新文化形成の過程は必ずしも平和的な融合混交だけではない。異文化同士の接触が厳しい抗争対決を生じた例はユダヤ人との文化摩擦,ヘブライズムとの衝突だった。ユダヤ人はセレウコス朝諸王のヘレニズム的宗教政策が彼らの民族的な信仰を掘り崩すとして,前2世紀半ばユダス・マカバイオスの指導下に蜂起し,信仰の擁護と民族独立の目標を達成したのだった。なお,ヘレニズム時代の美術,科学,文学については,それぞれ〈ヘレニズム美術〉〈ギリシア科学〉〈ギリシア文学〉の項目を参照されたい。
執筆者:大牟田 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
このことばは広狭二義に用いられる。広義では、ヨーロッパ文明の根底をなすキリスト教精神(ヘブライズム)に対立するギリシア精神を意味し、狭義では、古典ギリシア世界の終焉(しゅうえん)からローマ時代成立に至るまでをさす文化史的あるいは政治史的時代概念である。
[金澤良樹]
元来はギリシア人の自称である「ヘレネス」Hellenesからの造語で、「ギリシア風」の意。すでに古代にあっても、「バルバロイ」(夷(えびす)風)に対立する概念として、「正しいギリシア語の使用」または「ギリシア的思考や生活」あるいはそれらを模倣することをまれにヘレニズム(Hellenismos、ギリシア語)とよび、また初期キリスト教時代にはこの語で異教をさしたが、今日の用語はそれとは別に由来する。
19世紀のイギリスの文芸評論家アーノルドが、ヨーロッパ精神形成の二つの源流としてキリスト教と古典的伝統とをあげ、それぞれを「ヘブライズム」「ヘレニズム」と表現して以来、後者はギリシア文化一般を表す語としてしばしば用いられる。しかし歴史上の概念としての「ヘレニズム」は、ドイツの19世紀の歴史家ドロイゼンの命名に始まる。それまで、アレクサンドロス大王以後ローマ帝国成立に至る3世紀間は、ギリシア文化が低劣化した時期として関心をもたれず、歴史家たちにも無視されていたが、アレクサンドロス大王に傾倒して大王史およびそれに続く諸時期の開拓者的叙述をなしたドロイゼンは、その時代にヘレニズムの名称を与えた。ローマ、ゲルマン両要素の複合をロマニズムとよぶ類推からの着想で、その時代のなかに彼はギリシア、オリエント両文化および両系諸民族の融合をみたのであった。
[金澤良樹]
ヘレニズム時代は、大まかにいえば古典期ギリシアの終焉からローマの世界支配確立までの約300年間をさす。下限は、プトレマイオス王国の滅亡、すなわち紀元前30年にほぼ異論はないが、上限は、諸家まちまちで一定しない。多くは、アレクサンドロス大王の没年(前323)からとするが、彼がペルシア征討に出撃した年(前334)とか、それを最終的に滅ぼして自己の世界支配形成を開始した年(前331)、あるいは彼の即位年(前336)やカイロネイアの戦いにより自立的な諸ポリスの時代が終わった年(前338)など各説がある。歴史をみる視点の違いによるもので、これらはおおむね政治史的観点に拠(よ)っている。これに反し、思想、文学、芸術、宗教等を含む文化全体ないしは社会・経済的諸側面をも包み込んだ構造全体から広義にとらえるならば、時限はさらに広がる。ヘレニズムは、ギリシア語が覆った世界であり、ついでギリシア的な質が普遍化して文化を培養した時間・空間であるとするならば、ローマ帝政期の前半、少なくとも紀元後1世紀まで含まれよう。
空間的には、およそ中央アジアやインダス川以西から南イタリアやシチリアにわたる広大な範囲に及ぶ。ギリシア本土、小アジア、シリア、エジプト、西地中海域が枢要だった。わが国では当然ながら東方ヘレニズムに関心がもたれ、もっぱらガンダーラ美術や飛鳥(あすか)美術といった文化伝播(でんぱ)としてヘレニズムが観念されがちだが、重要なのは西方ヘレニズムである。イタリア半島では、東方で土着文化が示した反発も、最終的に土着文化がヘレニズムを退潮させたような退行現象も起こさなかった。ローマの文化的形成の培養基となったギリシア文化は、ギリシア本土直接のものではなく、海外ギリシア植民地の二次的媒体すなわち西方ヘレニズムの文化だったが、これがローマ帝国に吸収されて後世のヨーロッパにつながったのである。
[金澤良樹]
アレクサンドロス大王の没後その広大な版図はたちまち分裂し、遺将たち(ディアドコイ)の約40年間にわたるすさまじい抗争のなかから前3世紀前半にはセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアおよびシリアから分立した小アジアのアッタロス朝ペルガモンの4王国が成立した。ともにマケドニア系の王家を頂き、家父長的な民族王国マケドニアを除けば、いずれもマケドニア人、ギリシア人がオリエントの現地住民を支配する専制王国で、それら外来者たちが軍や官僚層を形成し、また君主崇拝(王が絶対者として自らを神化し、神像を設けて祀(まつ)らせる)の制度を敷くなど、後者の3王国は共通の基盤のうえにたつ同じ性格の典型的ないわゆるヘレニズム型国家だった。このほかにトラキア系やイラン系の王朝でギリシア文化に触れていたボスポロスやポントスなどの諸王国、中央アジアのバクトリア王国(ギリシア遺民の国家)もヘレニズム地域を構成する。
ヘレニズム時代史をひとことでいえば、前半相互にせめぎ合った4王国が、後半は次々と西方の新興国ローマに蚕食され、アイトリア同盟やアカイア同盟に代表される自立的なギリシア諸ポリスともども(前189、前164)順次征服されて、ローマの地中海世界支配が確立されていく過程だった。ヘレニズム世界へのローマの介入は、前200年ごろから始まる。諸国は相互の抗争を巧みにローマに操られて逐次各個撃破された。マケドニアは、3回にわたる戦争(第一~第三次マケドニア戦争)で前168年に滅亡し、ペルガモンは、王国を自らローマ元老院に遺贈するという形で自滅(前133)。シリアは、ハンニバル処遇をめぐってローマに口実を与え、長い敵対のあと前64年にポンペイウスにより息の根を止められた。また、前2世紀初め以来ローマの傀儡(かいらい)と化していたエジプトは、ローマ三頭政治のあおりで自ら破滅を招き、前30年女王クレオパトラは自殺し、最後のヘレニズム王国として時代の幕を引いた。
[金澤良樹]
ヘレニズム諸国は専制支配の広域国家で、これら王国の経営のため需要一般が増大して経済は活況を呈した。要因の一つは大量の傭兵(ようへい)需要で、それへの支弁が経済開発や消費を喚起し、人口移動を促進した。セレウコス朝初期のおびただしい都市建設も、これを促した。ギリシア本土や周域の人口が雇用を求めて流出し、繁栄の重心はアレクサンドリア、アンティオキア、セレウキア、ロードスなどの東方に移った。ギリシア本土では、アテネにかわってコリントが栄え(「ヘラスの星」とうたわれた)、また前2世紀後半以降はローマから関税を免除された自由港デロスが繁栄した。経済活況の第2の要因は、前3世紀のヘレニズム国家間の勢力均衡である。シリア、マケドニア、エジプトの3国とヒェロン2世治下のシラクーザとの間には、ヘレニズムの影響下にあったカルタゴを含めて一円の経済圏が成立した。東方に向けては、アケメネス朝以来の広域経済圏をはるかに超える大遠隔地交易が、セレウコス朝のもとに行われた。すなわち、セレウコス1世がメガステネスを遣わしてベンガル地方まで探査(前300前後)させて以来、同朝はインドとの交易に力を入れ、おもに陸路によってインドから香料、こしょう、綿、真珠、宝石等を輸入し、シルク・ロードの一終点セレウキアには中国産の絹も到来した。これに対しプトレマイオス朝は、紅海、インド洋に向けての南海貿易に精出し、アレクサンドリア商人たちは、香料や象牙(ぞうげ)をアラビアやソマリ方面から運んだ。インドへの直航はローマ帝政期以後になるが、このような経験が紀元後1世紀に南海貿易路の航海案内書『エリトラ海案内記』を生む。しかし、空前の活況は物価騰貴に導いた。騰貴は初めペルシアからの莫大(ばくだい)な接収貴金属が流通に出たときにもみられたが、ヘレニズム時代全体を通じて経済はつねにインフレ傾向だった。したがって、繁栄が同時に貧窮大衆を生み、社会的緊張が高まる。まして異民族支配の専制諸王国では、ヘレニズム時代の後半、土着民衆の反抗に手を焼いた。
民族的闘争がもっとも激烈を極めたのはシリア王国だった。この国は、アレクサンドロス遺領の最大部分を継承して発足したが、領内の多民族性も相まって早くから版図の分解作用を起こし、漸次領域を失った。その末期には、シリア北部とキリキア東部に局限されたまま命運を終わるが、積極的なギリシア化政策が特色で、40を超すギリシア風都市を建設したほか、オリエント系在来都市も多数ギリシア化された。それらは、神殿、劇場、体育堂(ギムナシオン)といった都市の外観だけでなく、政治上のいちおうの自治権をもつものだった。だが、ギリシア風生活の強要と君主崇拝の強制とはユダヤ人の民族闘争を激発させ(マカベア戦争、前168~前141)、結局それを収拾できなかった。
プトレマイオス王国はこれと対照的で、ファラオ時代からの習俗、伝統をなるべく変えぬ方針で土民(ラオイ)に臨み、反面巧みな産業統制の網をかぶせて豊穣(ほうじょう)な国土を存分に活用し、ヘレニズム諸国中最大の富力を有した。したがってギリシア化政策をほとんどとらず、プトレマイス以外には新たな都市建設も行わなかった。原住民は徹底した王家独占経済によって収奪された以外は表向き行政上の差別を受けず、公的文書における土語(デモテイク)への配慮も類(たぐい)なく高かった(ちなみに2言語文書がおびただしく遺存しているのが、この王朝下での特色である)。地方(コーラ)では、ギリシア人とエジプト人との混血が進み、アレクサンドロス大王ののち挫折(ざせつ)した東西融合が、図らずもエジプトの農村で現実化した。
[金澤良樹]
ヘレニズム文化は後期ギリシア文化にほかならないが、古典期文化に比べると、ポリスが主権的存在を失って市民の公生活が変化し、脱共同体的な、あるいは市民の公生活とかかわらない個人主義的、普遍主義的な性格を帯びてきた。反面、学問は専制君主の保護下に発達した。学問の中心はアテネを離れ、国王の富財を投じてつくられたムセイオンと蔵書70万巻を誇る大図書館とを擁するアレクサンドリアに移った。文献学では、カリマコスやゼノドトスが名高い。『旧約聖書』の「七十人訳(セプトウアギンタ)」も前3世紀にアレクサンドリアで刊行され、そのギリシア語コイネー(共通語)は、前代ポリス期のギリシア語が方言ごとに孤立していたのに対して方言差のなくなった普遍語で、ヘレニズム世界全体はこの平俗ギリシア語により媒介された。また、自然科学では、数学のアポロニオスやユークリッド(エウクレイデス)、天文学のエラトステネスやアリスタルコス、医学のヘロフィロスなどを輩出した。シラクーザのアルキメデスもアレクサンドリアで学んでいる。
市井の平凡な小生活のうちに慰謝を得ようとする傾向は散文家のテオフラストス『性格論』にみいだされる。散文では、ほかにポリビオスやディオドロスの歴史記述がある。
時代精神の変化は哲学にいっそうよく現れ、客観的認識の世界よりも個我の安心立命を求めて、普遍主義的=個人主義的なストア派哲学やエピクロス派哲学などがおこった。他方、東方の救済型宗教が人々の心をとらえ、在来の宗教と習合してさまざまなシンクレティズムの現象を生んだ。一つはエジプトのセラピス神だが、これは官制的に礼拝されたため真の帰依(きえ)には遠く、人々はより強烈な救いの証(あかし)を求めてミトラ信仰、イシス信仰のような密儀的なものを好んだ。「融合」と「普遍」そのものであるシンクレティズムこそヘレニズムの精神界をもっとも象徴的に示す現象であるといえよう。
芸術は、しばしば君主らの旺盛(おうせい)な都市建設や都市美化によって促進され、周辺の島々や新しい都市に優れた作品が多い。とくに彫刻では、ロードスのラオコーン群像、サモトラキのニケ像、ミロス(ミロ)のビーナス像、ペルガモンのゼウス大祭壇の浮彫りなどは有名である。
[金澤良樹]
ヘレニズム世界の諸傾向は「ローマの平和」に引き継がれて、なお古代世界の終末まで持続した。東方では表面的なヘレニズムはしだいに退潮したが、潜在してイスラム文明の母胎となった。イスラム科学はヨーロッパよりも早くヘレニズムの遺産を現実化した。エジプトではギリシア人・ローマ人の支配が終わったあと、エジプト人たち自身によって自己のヘレニズムが開花した。コプト文化である。コプト文字は2~3世紀にギリシア文字からつくられた。だがヘレニズムのもっとも直接の嗣子(しし)はビザンティン文明だった。それはヘレニズムのギリシア文明を1000年間保存して語辞集成や古典写本等をヨーロッパに伝えたのである。しかし、それにもましてヘレニズムが残した最大の糧(かて)はキリスト教だった。キリスト教はヘレニズムの環境のなかで生まれ、信仰化され、ヘレニズム的普遍世界下における伝道によって成長したのである。
[金澤良樹]
『坂口昂著『世界に於ける希臘文明の潮流』(1924/復刻版・1950・岩波書店)』▽『マイエル著、村田数之亮・二宮善夫訳『希臘主義の東漸』(1942・創元社)』▽『A・J・トインビー著、秀村欣二・清永昭次訳『ヘレニズム』(1961・紀伊國屋書店)』▽『G・ウッドコック著、金倉圓照・塚本啓祥訳註『古代インドとギリシア文化』(1972・平楽寺書店)』▽『W・W・ターン著、角田有智子・中井義明訳『ヘレニズム文明』(1987・思索社)』
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この言葉は広狭二義に使われる。広義には,ヘブライズムとともにヨーロッパ文明の基調をなすギリシア精神を意味する。狭義には,純粋のヘレネスの文化と区別される前4世紀末以後の文化をさしたり,また政治史上ヘレニズム時代という場合には,前334~前30年の約300年間をさす。狭義のヘレニズムの用語は,在来4世紀末までの古典期と対比して,アレクサンドロス大王以後のギリシア人の歴史と文化を極度に蔑視してきたギリシア史家の伝統に対し,ドロイゼンがそこに新しい時代と文化とを認めて以来普及した。ヘレニズム時代においてはマケドニア系の王朝,いわゆるヘレニズム諸王国のもとにポリスの真の独立は失われ,特にギリシア本土のポリスは衰退した。エジプトやアジアの世界にギリシア人が盛んに移住した結果,経済的繁栄が東方に移り,特にエジプトのアレクサンドリアやロドス島,デロス島が仲介貿易で栄えた。この時代の文化の特色は,ギリシア文化がオリエントの広い世界に広まり,各地の古来の文化と融合したところにあるとされるが,近年専門家の間ではオリエント土着の要素を重視する傾きが強い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ラテン語ではグラエキアGraecia,現代ヨーロッパ語ではラテン語に由来するものが多いが,ギリシア語に由来する語も併用されている。例えば英語ではグリースGreeceまたはヘラスHellas,ドイツ語ではグリーヘンラントGriechenlandまたはヘラスHellas,フランス語ではグレスGrèceまたはエラドHellade,イタリア語ではグレチアGrecia(ギリシア語起源の語は〈ギリシアの〉の意味でエレニコellenico,ヘレニズムの意味でエレニスモellenismoなどが使われる)。〈希臘〉という漢字はヘラスの音訳である。…
※「ヘレニズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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