スイスの教育家。チューリヒに生まれ,学生時代,急進的な愛国主義運動に身を投じたが,ここにすでに生涯を貫く社会改革への意志がよみとれる。1769年に結婚。その前後にノイホーフで当時流行していた重農主義の影響を受けて農業経営に取り組むが失敗し,また同時に貧民学校を設立して農民の子どもに糸紡ぎと読み書きを教授しようと試みたが,これにも挫折した。その後これらの貴重な体験を糧にして長い思索と著述の時代に入る。80年発表の《隠者の夕暮Abendstunde eines Einsiedlers》においては人間平等の主張にもとづいて人間形成の原理を探究し,個人的境遇と親子の情愛を強調する〈生活圏〉の思想を提示した。彼を一躍有名にした教育小説《リーンハルトとゲルトルートLienhard und Gertrud》(1781-87)では,教育による民衆の道徳的更生と自立というテーマが,家庭教育の場としての〈居間〉の思想を軸に展開された。89年勃発のフランス革命から衝撃を受けて,近代人の主体形成の問題が考究されたが,その成果は社会哲学および人間学上の主著《人類の発展における自然の歩みに関する私の探究Meine Nachforschungen über den Gang der Natur in der Entwicklung des Menschengeschlechts》(1797)に結晶した。彼は本書において,人間の自然的・社会的・道徳的3状態に対応するものとして,人間が〈自然の作品〉であり〈人類の作品〉であるとともに〈自己自身の作品〉であると明言しているが,自己形成の自由な主体としての〈人間〉というこの把握は自律的な近代教育学の起点であり,それ以後の彼の活動を支える原点でもあった。
スイス国内にも及んだ革命戦争の結果,多数の戦災孤児が生み出されたが,彼は1798年に革命政府の要請にこたえてシュタンスに赴き,孤児たちの世話と教育に没頭した。彼が50歳を過ぎて本格的な教育実践に取り組んだ事実は特筆に値する。それは半年間だけのものであったが,この孤児院での活動をふまえて,人間教育の方法を根底からつくり直す必要を痛感し,99年ブルクドルフで民衆学校の教師となり,教育的実験を積み重ねていった。その努力は教育学上の主著《ゲルトルートはいかにしてその子を教えるかWie Gertrud ihre Kinder lehrt》(1801)に理論的に結実したが,彼はそのなかで民衆の初等教育改造の視点から,知識と技術と道徳・宗教の基本3領域における基礎陶冶とその調和的発達の方法を探究しつつ,人間の自然な自己発展に信頼をおいた〈自発性〉や〈合自然性〉,さらに認識の絶対的基礎としての〈直観〉など近代教育学の基本原理を明示した。1805年にはイベルドンに新学校を設立し,数年間は全ヨーロッパの教育のメッカとして発展させ,プロイセンをはじめとする諸外国からも有為の青年教師たちが派遣されたが,ペスタロッチの指導力の欠如と協力者たちの不和・分裂のためしだいに衰退していった。25年,彼はこの学園を去って再びノイホーフに戻り隠棲したが,同年生涯の総括として自伝的著作《白鳥の歌Schwanengesang》を公刊した。そのなかで人間の諸能力と人格の調和的発達の重要性を強調し,そのかなめとしての道徳性の発達を重視する視点から〈生活が陶冶する〉という原理を主張した。
ペスタロッチは生涯のモティーフとしての社会改革の課題を教育の問題領域にひきとり,家庭の教育力の回復を主要な手がかりにしながら,社会の根幹たる民衆層の子どもたちに潜在する人間的諸能力を開発し,彼らをみずからの幸福を追求しかつ自由な政治主体たりうる自立的な人格へと形成する方途を探求した。思想史的にはとりわけJ.J.ルソーの社会思想や教育思想からの影響が強いが,フランス革命前後の歴史的社会状況のもとでの固有な課題を意識しつつ,教育実践を通して独自な教育理論を形成していった。その影響はとくにドイツにおいて大きく,フィヒテ,ヘルバルト,フレーベル,ディースターベーク,ナトルプらに及んだが,ペスタロッチ主義の運動として他の諸外国にも広く波及した。日本には明治初期に伊沢修二らによりアメリカ経由でペスタロッチ主義の理論が導入され,開発主義の名のもとに一時流行した。その後ヘルバルト主義の運動が盛んになるや下火になったが,大正期に入り長田新や福島政雄(1889-1976)らを中心に本格的なペスタロッチ研究が始まり,現在に至っている。
執筆者:平野 正久
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スイスの教育者、教育思想家。1月12日チューリヒで医者の子に生まれたが、6歳で父を失い、母と誠実な家婢(かひ)の手で育てられた。ドイツ語学校、ラテン語学校を経て人文大学Collegium Humanitatis、カロリナ大学Collegium Carolinumで学び、当初神学を志したが、ボードマー教授の指導やルソーの著作の影響下に、ラバーター、フューズリらの学友とともに愛国的、革新的な運動に熱中し、法律家となることを考えたりしたが、結局、農業改革家として生きる決意に到達した。チューリヒ郊外のビル村に農場を開き(1769)、「ノイホーフ」Neuhofとよんで、やがて一生の好伴侶(はんりょ)となったアンナ・シュルテスAnna Schulthess(1738―1815)とともに新生活をスタートした。農場の経営は失敗したが、この間、貧しい農民の子供たちを相手に労働と教育とを一体とする活動(貧民学校)を営んだ。これも経営的には挫折(ざせつ)したが、彼の関心はこうしてしだいに教育に向けられていった(1774~1780)。代表的な著作『隠者の夕暮』(1780)と『リーンハルトとゲルトルート』(1781~1787)がこのころ書かれた。前者は、「人間は玉座にあっても伏せ屋にあっても本質において同じ」であり、その本質を「自然」の秩序、つまり家庭での信頼関係から神への信仰に至る生活圏の広がりに即して満足させることが、教育の目的であるという主張にたつ箴言(しんげん)集ともいうべきものである。後者は、ほぼ前者の考え方を「民衆のために……その精神や心情に刻印できるような仕方で述べる」意図をもって、小説の形式で展開したものである。この2著とほぼ同時に『立法と嬰児(えいじ)殺し』(1780年執筆、1783年刊行)が現れた。これは、嬰児殺しの少女に極刑を科する習慣を批判して、少女たちの人間性の認識と尊重を立法者に訴えた呼びかけである。たまたまフランス革命との思想的対決が一つの転機を生じた。『然(しか)りか否か』(1793)は専制主義を戒めて自由の尊重と擁護を主張する論説であるが、『探究』(1797)では進んで環境をつくりあげる人間の「道徳的人格」が強調された。こうして内部からの自己活動の発展を重んずる教育思想と、その仕事に教師として立ち向かう生き方の核心ができあがった。
1798年(53歳)、教師としての新生活への機会が、内戦によって路頭に投げ出されたシュタンツの孤児たちの世話をゆだねられたことによって彼に訪れた。このときの活動を友人への手紙の形で書いたものが『シュタンツ便り』(1799)である。さらに彼の活動はブルクドルフの学校に移り、やがて町の古城に自分の主宰する学校を開いた(1800)。この間に『メトーデ』(1800)と『ゲルトルートはいかにその子を教えるか』(1801)と、二つの重要な教育「技術」の書物が書かれた。ついで学校は、ミュンヘンブークゼーを経てイベルドンに移されたが、彼の教育理念と方法とは急速にヨーロッパ中の注目するところとなり、その影響はついにドイツをはじめ諸国の教育界に及んだ。しかし、やがて教師間の思想的対立と不和によって学園は衰微に向かい、ついに彼は学園を閉じて生涯のスタートの地ノイホーフに帰り、著作と社会的活動に没頭したが、1827年2月17日、81歳をもってこの地に没した。
彼の思想と活動の特色は、子供の自発活動を通しての諸能力の調和的発展を普遍的な人間教育の原理として掲げ、かつその思想を身をもって貫いたところにあった。これが、その後の近代国民教育の発展にあたって、教師たちの精神的支柱として作用した。ドイツでは、フィヒテ、ヘルバルト、フレーベルらが、フランスではメーヌ・ド・ビラン、イギリス、アメリカではクリュージーHermann Krüsi(1817―1903)、シェルドンEdward A. Sheldon(1823―1897)らがその思想を媒介した。日本では当初、アメリカに留学した高嶺秀夫(たかみねひでお)、伊沢修二らによって明治10年代に紹介されたが、やがて沢柳政太郎(さわやなぎまさたろう)らの努力によって、とくに大正新教育の時代を中心に、初等教育の展開を促進するうえに強い影響を及ぼした。
[村井 実]
『長田新監修『ペスタロッチー全集』全13巻(1959~1960・1974・平凡社)』▽『長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』(岩波文庫)』▽『長田新著『ペスタロッチー教育学』(1934・岩波書店)』
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1746~1827
スイスの教育学者。ルソーの影響を受け,自然に即した人間形成を教育原理とする。この人間形成の中心点は,自発性ということで,教育者は内面的自己展開を助けるのが使命であるとする。ヘルヴェティア共和国下では政治にも深くかかわった。
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…子どもの発達にとっても,この活動は重要な意義をもつ。文字による知識の注入に終始する教育に対し,工作=手の労働の意義に着目したのは,コメニウス,ルソーら一連の近代教育思想家であり,ルソーは《エミール》で〈事物を通しての教育〉を提唱し,これを受けてペスタロッチは生産労働と知的学習との結合の実践を進め,学校を読み書き学校にとどめず,事物にふれ,〈頭〉と〈手〉とを結びつける活動を通して子どもを可能なかぎり全面的に発達させる場に改めようとし,工作やこれに類する活動を尊重した。19世紀半ば以降,北欧に始まり,欧米諸国で公教育に工作を正規の教科として導入する動きが強まった。…
…16世紀末期以後,イギリスのロンドン,ブリストル,シュルーズベリーの都市では孤児院が設けられたこともある。また,ドイツのハレにA.H.フランケが1698年に開設した孤児院や,スイスのシュタンツにあった18世紀末のJ.H.ペスタロッチの孤児院などの例がある。しかし,これらの都市の特例を除けば,乳幼児は里子に出されたり,教区の貧民院で他の貧民といっしょに養育された。…
…1555年のアウクスブルクの宗教和議や98年のナントの王令により不十分ながらも信仰の自由がみとめられ,ドイツでは領邦君主の信仰に応じてその保護の下に宗派教育が行われた。 宗教教育を教育の核に据えた18~19世紀の教育者にペスタロッチやフレーベルがいる。彼らは教育による社会の改善,民衆の解放と生活向上を意図したもので,三十年戦争によって荒廃したヨーロッパにあって教育の普及による平和な社会の実現,国際平和の実現を願ったチェコスロバキアの大教育学者コメニウスの系譜をひくものである。…
…さまざまな事物(庶物,objects)や現象を子どもに観察,体験させ,子どもの直接的感覚を媒介にして,教員との問答を通じて,それらの事物や現象に関する名称,形状,特質,機能,用法などを子どもたちに教授する方法。直接的感覚をいとぐちとして子どもたちに確実な知識や認識を形成させようとするペスタロッチの教授論に基づいている。19世紀初頭にイギリスにおいて,主として幼児教育の指導法として定式化されたのがアメリカに渡り,公教育学校での低学年児童への教授法として整えられた。…
…教育を単に知識の教授に限定せず,子どもの性格に根ざし,子どもを主体的な生活者に育てようとする教育。その思想的源流はJ.J.ルソーに,実践的源流はJ.H.ペスタロッチに求めることができる。すなわち,ルソーは《エミール》(1762)で,当時のフランスの特権階級の教育がいかに人間の自然の発達をゆがめているかをするどく告発し,大地の上で額に汗して働く農民の生活こそが教育的機能を果たしている,と指摘し,〈農夫のように働き哲学者のように思索する〉人間の育成を教育の目標として示した。…
…また,学校教育のなかに体操を導入しようとしたシュピースA.Spiess(1810‐58)は身体運動を〈関節の可動性の原理〉に従って部分運動に分類し,やさしい運動からむずかしい運動を段階的に習得する徒手体操を体系化した。同様の発想はJ.H.ペスタロッチの《基本体操》(1807)のなかにも認められ,〈部分の総和が全体を構成する〉とする近代的な分業による生産システムの体操への応用が,当時の教育の考え方とも符合していた。その結果,シュピースの徒手体操はドイツの学校体育の主流を占めるにいたった。…
…この主張は古代から存在するが,17世紀にJ.A.コメニウスがその主著《大教授学Didactica magna》においてその理念と方法を詳しく説いて以来,近代教育学の基本的な課題の一つとされてきた。なかでもJ.H.ペスタロッチは,概念の形成に先んじて直観を重視することを教育改革の基本とする理論や実践を深く追求し,その後の〈ペスタロッチ主義運動〉といわれる改革への努力も,具体的には直観教授のあり方を問うことをもって課題としたといってよい。日本においては,アメリカに〈オブジェクト・レッスンobject lesson〉として伝わっていたペスタロッチ主義運動が,明治初期にアメリカ人教師M.M.スコットや高嶺秀夫らの留学生によって紹介され,〈庶物指教〉という名で普及した。…
…イェーナ大学で自然諸科学を中心に学びながらドイツ・ロマン主義の思潮にも触れたが,このことは後の教育思想の形成に大きく影響した。1805年,23歳のとき,当初建築家志望だったフレーベルは,偶然の機会からフランクフルトのペスタロッチ主義の模範学校の教師となったが,そこで教育の仕事に天職を感じとり,その生涯が方向づけられた。その後,2度にわたりスイスのイベルドンにペスタロッチを訪ね,師事した。…
※「ペスタロッチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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