フランスの物理化学者。リールの生れ。1891年にエコール・ノルマル・シュペリウールに入り,ボルツマンの原子論の擁護者であったM.ブリュアンの影響を受ける。95年最初の論文で陰極線が負に帯電していることを実験的に示し,これら陰極線の研究や,発見後まもないX線の研究を基礎に学位論文を提出,学位取得後はパリ大学の物理化学講師を経て,1910年から同教授。電解質溶液中でのイオン輸送の問題,とくにコロイド粒子のブラウン運動の研究に取り組み,1908年から一連の実験を開始,既知の大きさの粒子を使用してアボガドロ数を決定し,この値が気体分子運動論から導かれる値と誤差の範囲内で一致することを示した。また,この一連の実験は,コロイド粒子のふるまいが気体法則に従うことを示したアインシュタインの理論(アインシュタインの関係式)に実験的基礎を与えるとともに,分子の実在性を証明することになった。化学反応速度,光化学の分野でも多くの業績がある。26年ノーベル物理学賞を受賞。36年第1次人民戦線内閣に科学研究局長官として入閣したが,ナチス・ドイツのフランス占領の際にアメリカに亡命,ニューヨークで没。
執筆者:日野川 静枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの物理化学者.1891年高等師範学校(エコール・ノルマル)に入学,1895年助手になった.1897年に陰極線とX線の研究によって博士号を取得し,パリ大学講師に迎えられた.1910年物理化学教室教授となり,1940年ナチスドイツの占領でアメリカに亡命するまでその地位にあった.A. Einstein(アインシュタイン)らのブラウン運動に関する理論的研究に衝撃を受け,分子の実在性の実験的証明に取り組んだ.1908年コロイド溶液の沈降平衡を実現し,コロイド粒子が気体運動論と同様に扱えることを示し,さらにコロイド溶液のブラウン運動の観測などからモル分子数を測定し,いずれもほぼ一致することを確かめ,この研究で1926年ノーベル物理学賞を受賞.1930年代に反ファシズム運動に参加し,1936年I. Joliot-Curie(ジョリオ-キュリー)の後任として科学研究庁長官を務め,フランス国立科学研究センター(CNRS)の創設にあたった.亡命先のニューヨークで客死したが,戦後にパンテオンに葬られた.1913年の著書「原子」(岩波文庫)は古典的名著として知られる.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…しかしともかく分子の熱運動がブラウン運動の原因であるのだから,ボルツマンの時代はまったくの仮説にすぎなかった分子の熱運動なるものの手がかりが,ブラウン運動の研究によってつかめるのではないかと考えられ,20世紀の初頭になってにわかにブラウン運動の研究が活発になった。フランスのJ.B.ペランはゴム原液を水に滴加した乳濁液を顕微鏡で観察し,一つの微粒子について30秒ごとの位置を方眼紙に写してみた。時間tだけたつと微粒子がはじめの位置からrだけ離れたとして,r2の値をいろいろな微粒子について平均してみると,その値〈r2〉はtに比例していることが見いだされた。…
※「ペラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
世界各地で古くから行われている遊戯の一つ。日本では,小豆,米,じゅず玉などを小袋に詰め,5~7個の袋を組として,これらを連続して空中に投げ上げ,落さないように両手または片手で取りさばき,投げ玉の数や継...
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
6/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加
5/14 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新